それでもうれしいクリスマス2

      大住 雄一

ルカによる福音書 28章 8節〜14節

 「クリスマスとは神ご自身が危険な旅に一歩を踏み出したことである。十字架への歩み、それは必ず罪人の一人として死ぬことを意味する。その御子を我が身に迎えるクリスマス(キリスト礼拝)が、家族や恋人、あるいは友人たちが会って楽しむだけであるはずがないではないか。」及川信先生の近著『イエスの降誕物語 クリスマス説教集』(教文館)のあとがきにある文である。この言葉は、本の帯に宣伝文として出されている。ということは、出版社としてはこの言葉こそが本書のメッセージとして多くの人に聞かせたい言葉だと考えているのわけである。では、クリスマスのとき、わたしたちはどうしていたらよいのか。及川先生は、言葉を続ける。「クリスマスを祝うには、それまでの古い自分が否定されることを受け入れるという覚悟が必要だ。」
 忘年会(忘年会などというものは、都合の悪いことは皆忘れようとする無責任な生き方の象徴である)と重なって、浮かれた気持ちで過ごしやすいクリスマス。神を崇め、主イエスを愛する者からしたら、そういうクリスマスは、とても堪え難い。どうしてクリスマスは、祝いなのか。その中身を知ったら、祝うにも、それなりの覚悟が要る。覚悟して祝うべき、その中身こそを知ってほしい。それを知るために、クリスマスはあるのだ。
 ただ、我が友及川先生よ、そう言ったって、中渋谷教会のクリスマスは、やたら楽しいよ。これは、私の見る所、及川先生が来られてから定着したクリスマス劇の楽しみである。私は、演技とか歌とかは「からきし」で、クリスマスを祝うのに「覚悟」が必要だというのなら、皆の前で歌ったり演技をしたりしなければならないことを覚悟することであって、クリスマス劇などをやっている教会では、その時期、なりを潜めていたいと思う者である。及川先生は、こういうのが得意なのである。得意というのは、好きだというだけではなく、それなりの才能をお持ちで、劇のプロデュースから脚本、キャスティング、演出、作曲、歌唱、主役、何でもやってのける。私はいくら代務者でも、この点で先生の真似はできない。真似しようとも思わない。悔しいと言うほかない。
 しかし、このクリスマス劇は、及川牧師にしかできない趣味に、教会を巻き込んでいるだけのお楽しみなのかというと、そうではない。そこがすごい所である。教会を挙げてのクリスマス劇は、先生の育たれた吉祥寺の相愛教会で行われていたものである。神学大学の同級生に、相愛教会に出席していた仲間があり、彼らから劇の録音を聞かされ、そういうクリスマスのある教会に出席しているという、うらやましい自慢話まで聞かされていた。
 先生が松本日本キリスト教会(現・日本基督教団松本東教会)におられた頃も劇が行われ、大勢の人々を集めていた。実は、劇を観に来た人に対するより、出演した人々にとって、よい体験、よい交わりになっていたと思う。松本の教会の人たちにとって、クリスマスは、とても楽しくうれしい思い出であるに違いない。
 そして今や、わが中渋谷教会でも続けられていて、よい伝道、そして出演者たちのよい交わりになっている。申し上げたいことは、このクリスマス劇が、できる人だけの特別な楽しみに終わらず、相愛教会、松本東教会、中渋谷教会をつなぐ帯になっているということなのである。中渋谷教会信徒の中には、松本東教会を知っている人、相愛教会を体験している人がいる。相愛教会や松本東教会にも、中渋谷教会を訪ねたことのある人がいる。今後、及川先生が山梨教会に移られれば、わたしたちの祈りは、山梨教会にも広がって行くのだ。山梨でも劇をやるべきだというのではないけれど。
 教会の交わりというのは、一個の教会の目に見える交わりにとどまらない。わたしたちの祈りは、一個の教会の目に見える仲間の中にとどまらない。及川先生がこの教会を去られたら、もしかすると、中渋谷のクリスマス劇もなくなるかもしれない。でも、このクリスマス劇を契機に互いを覚えるようになった教会の交わりは無くなることはない。互いのために祈るようになった祈りは、廃れることがない。中渋谷教会が、松本東教会や相愛教会、そして山梨教会のために祈るとき、中渋谷教会は、自分だけで立っているのではなく、相愛教会や松本東教会、そして山梨教会の祈りによって支えられていることを知るのである。しかも、どのような祈りによって支えられて来たのかまで、具体的にわかるのである。祈ってみたらわかる。
 クリスマスは、ひとりで恵みを喜ぶ日ではない。家族と、友人と、恵みを喜び合う時である。遠くの教会のためにも、恵みを祈る時である。分かち合い、喜び合うクリスマスは、幸福でうれしいものである。だから、クリスマスはやはり、「みんなでお祝いすべき」うれしい日なのである。


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