「おめでとう」の喜び

      本城 仰太


◆12月23日のクリスマス礼拝の説教題を「何がめでたい?クリスマス」とつけました。教会ではクリスマスを迎えると、「クリスマスおめでとうございます」という挨拶を交わします。世の中では「メリークリスマス」という言葉が語られています。いったい何がめでたいのでしょうか。また、クリスマス礼拝において、一人の姉妹の洗礼式を行いました。多くの方がこの姉妹に「おめでとうございます」という声をかけました。いったい何がめでたいのでしょうか。
 クリスマス礼拝で与えられた聖書箇所の中に、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)という天使ガブリエルの言葉があります。「おめでとう」は挨拶の言葉でもあります。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」とも訳せますが、直訳すると「(あなたは)喜びなさい」という言葉です。いったい何が喜びなのか、マリアはさっぱりわからず、むしろ戸惑いを覚えます。しかし天使ガブリエルは、これからマリアの身に何が起ころうとしているのかを丁寧に説明をしてくれます。マリアは導かれるように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と言います。さらにマリアは、親類のエリサベトのもとへ出掛けて行きます。エリサベトと会い、天使が告げた神の言葉は本当だった、そのことを二人で喜び合うのです。そしてマリアの口から讃美の歌が生まれていきます。戸惑いから喜びへ、それがクリスマスの物語です。
 もう召された方の話になりますが、若い頃に洗礼を受けた時に「おめでとうございます」と言われ、「ありがとうございます」と答えたものの、いったい何がめでたいのか、その時はさっぱり分からなかったと話してくださった方があります。しかし教会生活を数十年続け、晩年は教会に行けなくなっても「私は救われています」と、自分が洗礼を受けてキリスト者として歩んできて本当によかった、「おめでとう」の意味がよく分かった、と話してくださいました。その喜びの中で召されていったのです。これは私たちキリスト者に共通する歩みです。
◆マリアにとってのクリスマスは、約束の成就としてのクリスマスでした。天使ガブリエルがいきなり現れ、いきなり「おめでとう」という神さまの言葉から始まり、戸惑いながらも本当にその約束が実現し、喜びへと導かれました。
 このことは、他のクリスマスの物語にも共通することだと思います。ヨセフにとっても、婚約者のマリアが身籠るという出来事をいきなり突き付けられ、いきなり夢の中に天使が現れました。羊飼いたちもいつものように夜通し羊の群れの番をしている中、いきなり天使が現れます。東方の博士たちもある日突然、不思議な星を見つけることになります。いずれの人たちも様々なことに戸惑いながらも、次第に救い主が来られる現実を受けとめ、礼拝し、その口から讃美の歌が生まれていきました。神の言われた約束の言葉が本当に成就し、喜びへと導かれるのです。
 聖書全体もそれと同じと言えるかもしれません。アブラハム、モーセ、ダビデ、エレミヤ、主イエスの弟子たち…、多くの者たちが「いきなり」を経験しました。しかし戸惑いながらも神に導かれ、神の使命に生きた人たちです。私たちの歩みもそのようなところがあるでしょう。突然のことに戸惑いながらも、神に導かれて歩む中で、讃美の声をあげながら歩むことができるのです。
◆毎月第三水曜日の夜の聖研祈祷会は、長老が説き明かしを担当しています。テサロニケの信徒への手紙一を少しずつ区切りながら、御言葉を聴き続けています。祈祷会の後半は、出席者全員で自由に話し合う時をもっています。その席で、以下の聖書箇所が話題になりました。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。」(Tテサロニケ3・8〜9)。
 この聖書箇所は、主に結ばれている者は喜びにあふれる、と単純に言っているのではありません。「あなたがた」と「わたしたち」という言葉が使われています。「あなたがた」とはテサロニケ教会の人たちのことです。「わたしたち」とはテサロニケ伝道をしたパウロをはじめとする伝道者たちのことです。今は「わたしたち」はテサロニケにはいません。「あなたがた」と「わたしたち」との間に距離があります。
 しかしこの聖書の言葉は、まったく距離を感じさせない言葉です。「あなたがた」が主に結ばれていること、それが「わたしたち」が生きることであり、「わたしたち」の喜びであると言っているのです。ここに教会の醍醐味があると思います。病や老いのために、なかなか教会に来ることができない多くの方がおられます。しかし距離が隔てられていたとしても、それぞれの場において主にしっかり結ばれている、そのことが教会の喜びになるからです。例えば中渋谷教会には電話礼拝というシステムがあります。それを用いて主にしっかりつながっていることは、教会の「わたしたち」にとっての大きな喜びなのです。

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