「備えよ」との御言葉

      本城 仰太


◆中渋谷教会に赴任し、一年が過ぎました。マルコによる福音書から御言葉を聴き続けています。この福音書の特徴をたくさん挙げることができますが、一つの特徴は弟子たちの無理解を描いているということです。主イエスのお言葉も非常に厳しいものがあります。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」(マルコ8・17〜18)。
 聖書は、人間を楽観的には見ていません。聖書を読んでいれば自然に知識が増えていくとか、何らかのことをしていれば自然に信じるようになるとか、そんなことは言わないのです。むしろ聖書が私たちに告げることは、人間はそのままでは、今のままでは駄目なのだ、ということです。無理解なのは決して弟子たちだけのことではないのです。
 そんな厳しい言葉を言われた主イエスは、直後にベトサイダで一人の盲人を癒されます。他の癒しにはない特徴があります。それは、この癒しが二段階であるということです。「何か見えるか」(8・23)と主イエスが問われ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(8・24)とこの人は答えます。不思議な言い方です。まだはっきりとは見えていないのです。そういう第一段階がまずあり、第二段階、完全に見えるようになっていくのです。
 この癒しに象徴されているように、私たちの無理解にとことん主イエスは付き合ってくださいます。たとえその歩みはゆっくりであっても、第一段階、第二段階、いやその先までも少しずつ、着実に、私たちの目を開くように、私たちが信ずべきことを示してくださいます。主イエスがどなたなのか、これからも御言葉を聴き続けていきましょう。

◆マルコによる福音書第九章の冒頭の箇所の説教で、一枚の絵をご紹介しました。ラファエロが描いた「キリストの変容」と呼ばれる絵画です。この絵は縦長のもので、上半分と下半分で違う場面が書かれています。上半分が山の上での「キリストの変容」の場面。キリストのお姿が白く光り輝き、その右と左にモーセとエリヤが、そして主イエスの足元あたりに目がくらんだような三人の弟子たちが描かれています。下半分は、キリストが山の上に行かれて不在の間の残りの弟子たちの様子が描かれています。ある人の息子が悪霊にとりつかれて苦しんでいました。その息子を山の下にいた弟子たちが癒すことができずに、四苦八苦していた。そんな場面が描かれています。
 山の上の出来事と山の下の出来事。ラファエロは同時に一枚のキャンバスの中に描きました。私はこの絵を観るたびにこんなふうに思います。ああ、これは私たちの現実だ、と。山の下に描かれているのは、私たちの現実そのものです。いろいろなことに四苦八苦している。思うようにいかない。こんなはずじゃなかった。誰か助けてくれないか。私たちの歩みとも重なるはずです。
 この聖書箇所の冒頭に「六日の後」(2節)とあります。この日付から、教会の多くの人たちは一週間の歩みを思い起こしてきました。聖書の最初の創世記に、一週間での天地創造の話が記されています。六日間で世界が造られ、七日目は特別な日です。神が安息をなさった安息日。その一週間の出来事が私たちの信仰の歩みにも重ね合わされました。六日間、私たちは山の下で四苦八苦します。しかし山の下で四苦八苦し続けるだけではありません。七日目、聖なる特別な日、安息日が私たちに与えられている。私たちは上へ連れて行っていただける。上の光を見させていただける。ラファエロの絵の上と下を行ったり来たりしている。私はこの絵を観るたびに、そんなことを考えます。
 罪があり、病があり、死がある。それが私たちの山の下の現実です。しかしこの現実だけに私たちは生きるのではない。私たちは山の上の光を知っています。その光のもとで、山の下の生活を送ることができる。それが私たちにとって、何よりの福音なのです。

◆渋谷での生活も一年になりました。冬を越して春を迎えました。昨年までの八年間は、松本の地での厳しい越冬生活がありました。久しぶりの東京での越冬でしたが、昨年までに比べると気が楽でした。冬に対する備えをする必要がほとんどなかったからです。
 東京の冬でよく聞く言葉に、「東京の人は雪に慣れていない」という言葉です。確かにそれもあるのかもしれませんが、「慣れ」よりも「備え」があるかどうかが問われるのだと思います。松本で冬生活をするために、様々な「備え」が必要でした。一一月下旬に車のタイヤを冬タイヤに履き替える、冬の暖房に備えて灯油を備蓄しておく、水道管が凍結しないように対策をする、雪かきの道具を備えておく(駐車場が広くなったので教会で除雪機も購入しました)、雪の中を歩けるように長靴を用意しておく、など。いずれも冬の寒さや雪に「慣れる」のではなく「備える」ことです。備えさえあれば、多少慣れなくてもなんとかなります(なりました)。
 讃美歌第二編五八番の四節「知るをえず、知るはただ、「そなえよ」とのみことば」と歌う讃美歌があります。私たちにとって、これから先のことがどうなるか、分からないことだらけですが、御言葉を聴き、備えたいと思います。
 二〇一九年度の歩みが始まっています。渋谷の桜丘地区の再開発も進み、教会の周りでは解体工事が進んでいます。二〇二〇年度の変化に向けて、二〇一九年度は御言葉を聴いて「備える」一年でありたいと願います。神が必ずよき道を拓いてくださいます。

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