低きに下る神

             及川 信

                詩編 113編

「ハレルヤ。
主の僕らよ、主を賛美せよ
主の御名を賛美せよ。
今よりとこしえに主の御名が
たたえられるように。
日の昇るところから日の沈むところまで
主の御名が賛美されるように。
主はすべての国を超えて高くいまし
主の栄光は天を超えて輝く。
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に
民の自由な人々の列に返してくださる。
子のない女を家に返し
子を持つ母の喜びを与えてくださる。
ハレルヤ。」


 聖書の民が主なる神を讃美する理由、それは何よりも神様が何ものとも比べようもない高みにおられることにあります。主は、天よりも高きにいますお方である。天ですら、主にとっては、下って来て見るようなものなのだ、と一一三編の作者は言います。
 しかし、ただ神様が高き所に鎮座し、その高みから下々の存在を見降ろしているから崇めるというのではないのです。
 「低く下って天と地をご覧になる。」
 この「低く下る」とは、シャーベールという言葉ですけれど、それは例えばこういう個所に出てきます。
 「主は貧しい人々を励まし
 逆らう者を地に倒される。」

 この「地に倒される」が「低く下る」と同じ言葉です。神様は、ご自身に逆らう者を地に倒される。そのために、地にまで下ってくる。それは当然のことです。また、「貧しい人々を励まし」、「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く引き上げ」るために地にまで下ってきて下さる。天よりも高い所から、塵芥に過ぎない弱く乏しい者を助けるために下って来て下さる。それが聖書の民イスラエルが知らされた主なる神の愛なのです。その愛ゆえに、主を讃美する、讃美せざるを得ない、喜びをもって讃美するのです。
 しかし、クリスマスにおいて起こったことは、この旧約聖書の証言を貫きつつ、逆転するような衝撃的な出来事なのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって、世が救われるためである。」(ヨハネ三章一六節一七節)

 ヨハネ福音書において、「世」とは、神に逆らう罪人の総称です。御子を寄ってたかって殺そうとする罪人のことです。本来であれば、主なる神は下って来て、その逆らう者たちを地に倒されるのです。現に、そのように裁かれてきた人々は無数にいる。しかし、今、主なる神は、ご自身の独り子を地に倒される。あの十字架に叩きつけ、陰府に叩き落とすのです。そのようにして、本来裁かれるべき罪人を赦し、塵芥の中で滅ぶべき人間を新たに立ち上がらせ、神の子として生かそうとして下さる。そのために、神は天よりも高き所から低く下ってきて下さった。その信じがたい事実を知る時、それが、私の救いのための事実だと分かる時、私たちは、その神の高みとその低さの故に讃美せざるを得ない、心からの感謝と悔い改めをもって讃美せざるを得ないのです。
 クリスマスの讃美は、この「低きに下る神」に対する讃美なのです。
         (婦人会クリスマス説教要旨)
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