「イエス・キリストは喜びの音ずれ」

本城 仰太

       イザヤ書 52章 7節〜10節
         マルコによる福音書  1章 1節
52:7 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに帰られるのを。
52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
52:10 主は聖なる御腕の力を
 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

 本日より、マルコによる福音書の説教が始まります。説教のやり方には、いくつかのやり方があります。中渋谷教会が長年、取り続けてきた方法は「連続講解説教」と呼ばれるやり方です。福音書なら一つの福音書を、手紙なら一つの手紙を、少しずつ区切りながら、一つの聖書のテキストを、連続的に解き明かしをしていく、そのようなやり方です。

 私が中渋谷教会に赴任をするにあたり、これまでにいろいろな経緯がありました。最初にこのお話をいただいたのは、もう一年半以上も前のことになりますが、中渋谷教会の誰かにまずお会いして、そのような話を伺ったわけではありません。中渋谷教会の方にお会いする前に、まず「招聘状」と呼ばれるものを見ることになりました。招聘状とは、牧師を招聘するにあたり、教会としてこういうことを望んでいるとか、招聘に関しての様々なことが書かれているものです。いくつかのことが書かれていました。その中の二番目に、このようにありました。「原則として連続講解説教をしていただきたい」、と。
 私はこれまでの牧師としての働きの中で、たくさんの招聘状を見てきたわけではありません。しかしおそらく、招聘状の中に「原則として連続講解説教をしていただきたい」などと書く教会も珍しいと思います。私はそのように書かれたものを読んで、中渋谷教会が今まで連続講解説教を聴くことによって、御言葉に養われてきたことを思い、大変印象深く感じたことをよく覚えています。
 その招聘状に応え、今日からマルコによる福音書の連続講解説教を始めます。数ある聖書テキストの中から、なぜマルコによる福音書なのか。中渋谷教会が新たな歩みを始めました。その歩みの土台を据えるにあたり、どうしても確かめておきたいのが、イエス・キリストとはどのようなお方であるか、ということです。しつこいくらいに確かめておきたいことです。中渋谷教会のこれまでの歩みで、例えば及川牧師からルカによる福音書やヨハネによる福音書の連続講解説教を聴く中で、今までも大事にしてきたことのはずです。当たり前のことですが、でも当たり前のことが大事なのです。イエス・キリストがどのようなお方で、私たちのために何をしてくださったのか、その御言葉を聴き続けていきたいと思います。

 新約聖書には、四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つです。なぜ福音書は四つなのでしょうか。これは案外、難問かもしれません。なぜ四つなのかと皆様が質問を受けたとしたら、どのように答えることができるでしょうか。  この難問に答えを出そうとした人がいます。二世紀に、今のフランスのリヨンで活躍をした教会のリーダであるエイレナイオスという人がいます。この人は西暦で言うと180年代のことになりますが、『異端反駁』という書物を書きました。その中で、福音書の数は四つだ、と明確に主張しました。実はエイレナイオスの時代、教会の正しい信仰から外れてしまう「異端」と呼ばれるグループがいくつかありました。異端者の中には、福音書は四つだけではなく、もっとたくさんある、と主張した者もいました。その反対に、いやいや、福音書は四つでは多すぎる、一つだけで十分だ、と主張する者もいたのです。エイレナイオスはそういう異端者たちのことを意識しながら、四つだと主張したのです。なぜ四つなのか。エイレナイオスはこう言いました。世界には東西南北の方角が四つあるではないか、風も東西南北の四種類があるではないか、そのように主張して、福音書は四つだという根拠にしたのです。今の私たちからすると、こじつけではないか、と言いたくなるかもしれませんが、四つの方角とエイレナイオスが言っているのは、案外、大事なことなのかもしれません。四つの方角から一つのものを見ている。真ん中にあるものは同じです。しかし角度によって、少しずつ見え方が変わってくる。エイレナイオスは、四つの福音書はそれぞれ違う特徴を持つかもしれないけれども、見ているものは同じであり、四つの福音書にはハーモニーがあると主張したのです。
 このように、福音書は四つであるということが、神の導きによって次第に確かなものとされるようになりました。これら四つのものは「福音書」と呼ばれています。実は、最初から表題は付いていなかったと言われています。それぞれの表題がつけられるようになったのは、早くて二世紀、遅くて三世紀や四世紀の頃であると言われています。
 ただし、このマルコによる福音書は、最初から表題が付けられていました。「マルコによる福音書」という表題ではありません。本日、私たちに与えられた聖書箇所が表題そのものではないかと言われているのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1節)。
 今日の聖書箇所には、日本語の翻訳にも表れている通りですが、動詞はありません。普通、文というのは、主語と動詞があるものです。しかしここにはありません。つまり、私たちが何らかのレポートを書くときに、タイトルとして付けるような文言なのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1節)。

 しかもこのタイトルの中に、「福音」という言葉があります。他の三つの福音書の中で、マタイによる福音書だけが、何度か「福音」という言葉を使っていますが、マルコによる福音書は、いきなりタイトルの中で「福音」という言葉を使っている。まさにこれから書こうとしているのが、「福音」なのだということを明確に表しているのです。

 それでは「福音」とは何でしょうか。ある聖書学者が、福音とはこうであることをいろいろと解説している中で、最後のところでこう言っています。福音とは、良い知らせそのものである。例えば、戦争に勝利した知らせとか、皇帝に子どもが生まれたとか、もともとはそういう「よい知らせ」という意味があった言葉である、と。二千年前のローマ帝国の中で、「福音」はそういう意味合いで使われていたのでしょう。けれどもこの福音書を書いたマルコは、イエス・キリストが福音である、イエス・キリストそのものがよき知らせであると、タイトルを付けたのです。
 今日の説教の説教題は、「イエス・キリストは喜びの音ずれ」と付けました。先週の週報にも予告が載せられ、教会前の看板にはこの説教題が掲げられ、今日の週報にもこの説教題が印刷されています。これをご覧になった、もしかしたら間違いではないかと思われた方もおられるかもしれません。「音ずれ」です。普通、「音ずれ」といったら、例えば映像と音声がずれていることを意味します。テレビとラジオを同時につけたら、同じものを視聴しているはずなのに、微妙にそれがずれていることを意味します。もちろんここではそういうことを意味しているわけではありません。福音が音とともにやって来ることを引っかけて「音ずれ」としているのでしょう。
 「福音」という日本語が、どういう経緯でこの漢字二文字が使われるようになったのか、私は知りません。幸福の「福」の字に、「音」という漢字を使ったのです。私が言うのもなんですが、なかなか良いセンスであると思います。福音とは、先ほどから申し上げているように、「よき知らせ」です。そのことを反映するように、私が今日付けた説教題のように、聖書学者や説教者たちの中に、「よき音ずれ」という漢字を当てはめて使っている人も多いのです。もちろん「音ずれ」という言葉を辞書で調べても載っていませんが、福音とは「よき知らせ」であり、「音ずれ」であり、音で、耳で聴くことを大事にしたいと思います。

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第52章です。イザヤ書のこの箇所は、バビロン捕囚という出来事が背景にあると言われています。イスラエルの国の主だった人たちが、異国の地バビロンに連れ去られてしまった出来事です。そのような中、神が王となられ、バビロン捕囚からの解放がなされる。そういうよき知らせ、よき音ずれが告げられるのです。
 このイザヤ書の言葉は、新約聖書のローマの信徒への手紙の中でも引用されています。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10・15)。私は以前、なぜ足が美しいと言われているのか、そのような質問を受けたことがあります。そこで、その方と一緒に「足」ではなくて、違う言葉を当てはめて考えてみたことがあります。「良い知らせを伝える者の『顔』は、なんと美しいことか」、そう言ってもよいのかもしれません。あるいは「目」、「声」、「姿」と置き換えてもよいのかもしれません。しかし、やはり「足」なのです。それは、一つのところだけで「よき音ずれ」を語るのではないからです。こっちでも、あっちでも、よき音ずれを語っていきます。
 ローマの信徒への手紙の続きには、こうあります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」(ローマ10・17〜18)。足から始まり、よき知らせが方々で伝えられ、そしてそれがあらゆるところに響き渡る。まさにそれが、福音の本質を表していることだと思います。
 そこで考えてみたいのが、マルコとはいったい誰かということです。新約聖書が書かれた時代よりも少し後に書かれたと言われている文書に、『パピアスの断片』と呼ばれているものがあります。「パピアス」というのは人の名前です。パピアスが書いたものの全体は残っておらず、断片だけですので、『パピアスの断片』と言われています。
 この文書の中に、マルコとはいったい誰なのか、こういう記述があります。「かの長老(=ヨハネ)は次のように述べた。マルコはペテロの解説者(または通訳)であって、主によって言われ、あるいは実行されたことを、記憶した限り、順序立ててではないが、正確に記した。つまり彼は主から(直接)聞いたり、彼につき従ったりはしなかったが、後に、先に述べた通り、ペテロにつき従った。ペテロは必要に応じて教えを行ったのであって、主の言葉の集大成を行ったのではない。そしてマルコは若干の事柄を記憶に基づいて記すに際して、何らの誤りを犯さなかった。というのは、彼は、聞いたことは何一つ取り残さず、またそれらに関して何らの変造を行わなかったという一点に注意を払ったからである。」(佐竹明訳、『使徒教父文書』、254〜255頁)。
 これは伝説的な記述であり、信憑性は薄いと考えている学者も多くいます。しかし、おそらく確かなことも含まれていると思います。それは、マルコが、ペトロあるいは主イエスのことを直接知る誰かから、耳で聴きとったことを、正確に書いているということです。ルカによる福音書の冒頭に「順序正しく」という言葉がありますが、マルコに関しては、多少はそういうところがないと評価されているのかもしれません。しかし自分がまず耳で聴き取ったことを忠実に書いている。福音を耳で聴いた。そしてそれを書いている。そしてまたその福音書が朗読され、説教として解き明かされ、耳で聴かれていく。「よき音ずれ」が今なお続いているのです。

 そこで続けて、今度は「初め」という言葉に注目をしてみたいと思います。旧約聖書の創世記の最初も「初めに」という言葉が先頭です。ヨハネによる福音書も「初めに言があった」(ヨハネ1・1)と始まっていますし、マルコによる福音書にも「初め」という言葉が冒頭にあります。実は、聖書の元の言葉のギリシア語では、この「初め」という言葉が文頭なのです。マルコによる福音書の最初の言葉がこれなのです。
 この言葉は、単純に時間的な始まりだけを意味しているのではないと言われています。ある聖書学者は、「源」と訳しています。「神の子イエス・キリストの福音の源」という感じです。例えば、物事の根源をたどっていくと、その根っこには何があるのか、そういう意味合いです。
 創世記には、世界の始まりが記されています。しかし時間のことだけで創世記を考えていくと、おかしなことになってしまいます。それよりもむしろ、世界の源はいったいどこにあるのか、ということを伝えているものです。神を源として、世界が始まっていきました。しかも神が言葉を語られることによって、世界が造られていったのです。「光あれ」(創世記1・3)と神が言われれば、その通りになった。それが世界の始まりです。
 マルコによる福音書を書いたマルコも、創世記をよく知っていたはずですから、創世記になぞらえながら書いたのかもしれません。福音は、いつ、どこで、誰によって、そしてどんな源から始まったのか。イエス・キリストからである。イエス・キリストがその源である。マルコは表題のところでそう言うのです。そしてそのように始まったからには、終わりがいつかあるはずです。その終わりは、いつでしょうか。まだ終わっていません。まだ完結していないのです。

 先々月の二月に、中渋谷教会の元牧師の及川先生をお訪ねしました。及川先生が今おられる山梨教会は、私の前任地の松本の教会と距離も近く、同じ教区でしたから、出かけてお会いする機会がありました。
 お会いした日の少し前に、山梨教会で修養会があり、その時の資料を見せていただきました。山梨教会は、百年以上の歴史がある教会です。修養会の資料には、山梨教会の歴史のことが書かれていました。しかし書かれていたのはそのことだけではありません。今から百五十年ほど前に、日本にプロテスタント教会の宣教師たちがやって来て、日本のプロテスタント教会の歩みが始まったこと。今から五百年ほど前のいわゆる宗教改革の時代に、プロテスタント教会が生まれていったこと。それだけではありません。中世や古代において信条や聖書が生まれていったことなども含めて、その資料には書かれていたのです。
 及川牧師は何を言いたかったのか、それは明らかでありまして、山梨教会が百年前に突然、生まれたというわけではなく、それ以前にも教会が生まれる流れがあったのであり、それをたどっていくと、二千年にわたる教会の歩みをたどることができる。山梨教会もそのような流れの中に建てられた教会である、及川牧師が言われているのは、まさにそのことなのです。
 中渋谷教会にとっても、このことは大事なことです。今年は教会創立101年目にあたります。中渋谷教会の始まりはいつでしょうか。101年前でしょうか。確かにその通りです。それが正解です。しかしもっと源流までたどっていくことができるのです。どこから始まるのか、どこに源があるのか。マルコによる福音書が冒頭のところで言っているように、ここが初めである。イエス・キリストの福音によって始まったのだ、中渋谷教会もそのように言うことができるのです。
 私たちの中渋谷教会が今なお、その歩みを続けているように、教会の歩みは閉じられていません。マルコによる福音書の連続講解説教が今日から始まりましたが、最後の箇所に到達するまで、おそらく二年以上はかかると思います。最後の最後には何が書かれているか。第16章9節以降の括弧付のところを除くと、これが最後の言葉です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16・8)。改めてこの箇所は説教をする機会が来るでしょうけれども、明らかにこの終わり方は閉じられていないところがあります。恐れから、次の歩みが始まっていったのです。
 私たちはともすると、主イエスの墓が空っぽだった恐れを忘れてしまっているところがあるかもしれません。主イエスの十字架や復活が当たり前のことになっている。それはそれで、信仰的には大事なことですが、主イエスが私たちの罪を背負って十字架で死なれ、神がその方をお甦りにならせてくださり、墓が空っぽだった、その恐れを失わってしまっているところもあるでしょう。
 しかしこの恐れから、教会の歩みは始まりました。マルコによる福音書は、ここで閉じられていません。恐れとともに始まった教会の歩みが続くのです。そして今なおその教会の歩みは続いています。まさに私たちの中渋谷教会も受け継いでいる歩みです。イエス・キリストの福音が始まり、今なお続いているのです。

 最後に、「神の子」という言葉に触れたいと思います。聖書には無数の写本があります。しかし古い有力な写本には、この「神の子」という言葉がありません。もしかしたら、最初期の頃は「神の子」という言葉がなかったのかもしれませんが、しかし本文の中に使われている大事な言葉でもあります。しかも本文に単にあるどころか、マルコによる福音書のクライマックスに出てくる言葉です。
 十字架にお架かりになり、息を引き取られた主イエスのお姿の一部始終を見ていた百人隊長が、このように言います。「本当に、この人は神の子だった」(15・39)。主イエスを神の子と言ったのは、途中のところで汚れた霊がそのように言ったことは記されていますが、本当の意味でこのように言ったのは、マルコによる福音書ではこの百人隊長が初めてなのです。人間の罪を背負って、十字架で死なれた主イエス・キリストが神の子である。本当にそうだった。私たちはその信仰告白の言葉へと導かれるのです。今日の聖書箇所であるこの表題と、この信仰告白の言葉を心に留めながら、マルコによる福音書から御言葉を聴き続けてまいりたいと思います。

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