「神が備えてくださった道」

本城 仰太

    マラキ書 3章19節〜24節
       マルコによる福音書1章2節〜8節
3:19 見よ、その日が来る
 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は
 すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように
 躍り出て跳び回る。
3:21 わたしが備えているその日に
 あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため
 ホレブで掟と定めを命じておいた。
3:23 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。

1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

1.道


 「道」という言葉があります。歩く人のための道を歩道、車のための道を車道と言います。そういう道路のことですが、そのような意味だけでなく、もっと深い意味を込めて「道」という字を使う場合があります。
 例えば、スポーツと言いますか、武道という言葉があります。剣道、柔道、弓道などがそうです。これらはそれぞれのスポーツでありますが、「道」という字を使います。達人のような人になると、その道を極めた人と見なされることがあります。他にもこういう武道だけでなく、華道などというようにも使います。一つのことに何十年も打ち込んで、その「道」を極めていくということが大事にされているのでしょう。  教会においても、この「道」という字を使う場合があります。その最たるものは、「求道」という言葉でしょう。まだ洗礼を受けておられない方のことを「求道者」と言います。「道」を求めているのです。その道を指し示されて、その道を歩み始める。その出発点のところに洗礼があります。洗礼を受けて、いわば「求道者」ではなくなり、信仰の「道」を歩み始めるのです。
 聖書の中にも「道」という言葉は大事にされています。例えば、旧約聖書の詩編にこのようにあります。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」(詩編25・4)。詩編は、信仰を持った詩人たちの祈りの言葉でもあります。他の詩編にも、道を示してください、とか、神さまであるあなたの道を歩めますように、というような言葉がたくさんあります。ここでも、単なる「道」以上の意味で、「道」という言葉が使われています。
 私たちの人生は旅に譬えられることがあります。私たちはどの道を歩めばよいでしょうか。誘惑の道、破滅への道、などという使われ方もあるくらいです。正しい道を歩む必要があります。どの道を歩んだらよいでしょうか。
 主イエス・キリストも、道に関して、いくつかの言葉を残してくださいました。例えば、こういう言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7・13〜14)。
 なかなか正しい道を見出せない私たちです。主イエスの弟子の一人のトマスが主イエスに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14・5)と問いました。それに対し、主イエスはこのように言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)。道が分からなかった私たちに対し、主イエスが道を拓いてくださり、この道を示してくださいました。私たちがどの道をたどればよいのか、主イエスのこの道を、たどることができるのです。

2.旧約聖書からの引用

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の聖書箇所は、旧約聖書からの引用で始まっています。先週は冒頭の第1章1節から御言葉を聴きました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1・1)。イエス・キリストの福音の初めです。主イエスのことが最初から出てくると思いきや、旧約聖書の引用から始まっていくのです。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(2〜3節)。
 イザヤ書からの引用だと、わざわざ書かれています。確かに3節の言葉はそうです。イザヤ書第40章3節の言葉です。でも2節の言葉は、イザヤ書ではなく、マラキ書からの引用です。今日の旧約聖書の箇所は、マラキ書第3章19〜24節でしたが、第3章1節にこうあります。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラキ3・1)。
 イザヤ書からの引用だと断りながら、マラキ書も組み合わされて混ざっている。著者マルコが間違えたかのような印象を受けるかもしれませんが、なぜマルコがわざわざそんなことをしたのか。「道」という言葉のつながりで、両者を組み合わせたのです。2節にも3節にも、「道」という言葉があります。
 イザヤ書にしてもマラキ書にしても、皆が「道」を見失っていた時代に書かれたものです。その道を失った人たちに対して、道が拓かれるという約束の言葉として「道」が出てくるのです。そして本当の意味でその道が拓かれた。そのようにして書かれているのが、本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の箇所ということになります。ずっと以前から旧約聖書に書かれているように、遂にその約束が実現した。その実現こそが、洗礼者ヨハネの現れであり、主イエス・キリストの現れなのです。

3.洗礼者ヨハネ

 そこで、洗礼者ヨハネとはいったい誰なのか、ということが次なる問題になります。聖書の解説書や事典を見ますと、洗礼者ヨハネは、クムラン教団とかエッセネ派といったグループに関係があった人物ではないか、と書かれていることがあります。詳しい話はいたしませんが、クムラン教団やエッセネ派というのは、世俗から離れて、独自の信仰生活を集団で送っていた人たちです。いわば小さな修道院を作っていたようなところがあります。世間とは隔離された場で、清く正しく美しい生活を目指したのです。そのグループの中で、洗礼がなされていました。グループ内の身内で、しかも何度も繰り返し受ける形で洗礼がなされていたそうです。洗礼者ヨハネも人々に洗礼を授けていましたが、こういういったグループの洗礼とかかわりを持っているのではないか、新約聖書学者の中にはそう考える人たちもいます。
 ところが、それとは反対に、新約聖書学者の中に、そういうグループと洗礼者ヨハネは無関係だと考える主張も根強いのです。なぜか。それは、洗礼者ヨハネが人々に授けていた洗礼は、こういうグループ内で授けられていた洗礼と決定的に異なる点があるからです。洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、一度限りのものでした。しかもグループ内の人に限る、というわけではない。すべての人に対する洗礼だったのです。5節にこうあります。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(5節)。この5節の言葉には誇張があるのではないか、と言われることがあります。無理もありません。ある地方の人たち「全員」が、ヨハネのいるヨルダン川の荒れ野まで、こぞってやって来たと書かれているのですから。実際にはそうではなかったとしても、聖書は「皆」という言葉を使うのです。4節に「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあるように、グループ内の一部の限られた人たちだけでなく、すべての人がこの洗礼を必要としているという意味で、このように書かれたのでしょう。
 6節のところには、洗礼者ヨハネの姿がこのように記されています。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(6節)。わざわざこのようなことが書かれたのは、旧約聖書に出てくる偉大な預言者であるエリヤの姿が、このように言われているからです。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」(列王記下1・8)。当時の人たちが、毛皮の衣に腰に皮帯と聞けば、すぐにエリヤのことを思い浮かべたのでしょう。今日の旧約聖書のマラキ書に「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3・23)と書かれているように、旧約聖書の約束が本当に実現した、主イエスが来られるための道備えを洗礼者ヨハネがした、その道が敷かれていくのです。

4.イーゼンハイムの祭壇画

 洗礼者ヨハネは、キリスト教会の歴史の中で、様々な絵画の中に描かれてきた人物でもあります。その中の一つの絵について、今日は触れたいと思います。
 フランスのコルマールという小さな町に、ウンターリンデン美術館があります。その美術館に掲げられている絵に、一六世紀初めに書かれた絵があります。グリューネバルトという人が描いた「イーゼンハイム祭壇画」と呼ばれている絵です。
 この祭壇画は、何枚かのパネルを組み合わせて作られたものです。観音開きのように開いたり閉じたりすることができる絵です。今では展示のため、それらのパネルが独立して、全部が観られるようになっていますが、もともとは閉じることもできたのです。表のところに一番大きく描かれているのが、キリストの十字架の場面です。
 十字架の場面も、絵画の世界で実に多く描かれてきていますが、この絵ほど生々しいものはないのではないかと思えるほどです。キリストが十字架にお架かりになられている絵ですが、十字架上のキリストの肉体はやせ衰え、鞭で打たれたからでしょうか、無数の傷がついています。首はがっくりとうなだれ、手足には釘が痛々しく打ちつけられ、苦痛のため指先が硬直してひきつっています。理想化されたお姿としてキリストが描かれているわけではありません。人間のあらゆる苦痛を背負い込んだキリストの痛々しいお姿が描かれています。
 キリストの十字架の下には、四人の人物が描かれています。左側に三人、右側に一人です。左側にいるのは、まず、マグダラのマリアです。私たちが祈る時と同じような手の形をして、それも上に突き上げるようにして、十字架のキリストの姿を仰ぎ見ながら嘆いている姿が描かれています。もう一人は、白い衣を着た母マリアです。気を失いかけて、よろめいているところを、もう一人の人物である福音書を書いたヨハネに支えられている、そんな姿が描かれています。
 右側には一人だけですが、これが洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは、この後を読み進めていけば分かるのですが、主イエスの十字架の前に、ヘロデという王によって殺害されます。主イエスの十字架の時は、すでにこの世にいなかったわけですが、史実としてはあり得ないことを、グリューネバルトはその絵の中に描いていったということになります。
 洗礼者ヨハネは、その絵の中では右側に一人で立っているのです。何をしているのか。左手には聖書を持っています。そして右手の人差し指でキリストを指さしている、そんな姿で洗礼者ヨハネが描かれています。

5.重荷を担うキリスト

 この「イーゼンハイム祭壇画」というのは、イーゼンハイムというところにあった修道院の祭壇画でした。この修道院は、病の療養所であったと言われています。それもかなり重い病の人たちのための療養所だったようです。
 この時代は、今ではあまり想像がつかないかもしれませんが、死が隣り合わせの時代でありました。例えばペストと呼ばれる伝染病が流行ることがありました。そうなると、街のかなりの割合で多くの人たちが命を落とすということになります。この修道院もまた、かなり重い病の療養所であったところです。もう当時の医学としては手の施しようがないような人たちです。こういう療養所に入れられて、生死をさまようのです。そういう人たちが、療養所の中にある、この祭壇画を目の当たりにするのです。
 先ほど、この絵は観音開きのように開くことができると言いました。普段は閉じられていて、目にすることができるのが、十字架のキリストの姿です。ところが日曜日、礼拝の時に、この観音開きが開かれて、普段目にすることができない絵を見ることができます。そこには、復活されたキリストのお姿が描かれています。死や病を踏みつけるようにして、墓から出られるキリストのお姿です。もはや体には、十字架の釘の痕だけはありますが、体の傷はなくなっています。そういうキリストの復活されたお姿を、日曜日の礼拝の時だけ仰ぎ見て、礼拝がなされるのです。
 患者たちは何を思ったでしょうか。おそらく、多くの患者たちはこう思ったに違いないでしょう。キリストが私たちの病や苦しみを担ってくださった。普段から十字架のキリストの姿を目の当たりにして、そのように思ったでしょう。しかし日曜日、復活のキリストを目の当たりにして、キリストこそが死や病から救い出してくださる、唯一の道だ、そう思ったことでしょう。キリストが死や病、人間の罪、あらゆる重荷を担ってくださり、そしてそれらに打ち勝ってくださった、その道を拓いてくださった。この絵は療養所にいた人たちに、そのような思いを与えた絵なのです。

6.唯一の道を指し示されて

 洗礼者ヨハネは、そのキリストを自らの指で指し示す存在として描かれています。実は十字架の右側にいる洗礼者ヨハネの人差し指は、ヨハネの体つきからすると、ずいぶん太く、そして長いと指摘されています。それだけヨハネの指が強調された描かれ方をしているのです。あらゆる重荷を抱えて十字架にお架かりになったキリストを指し示す指。私たちの重荷を担い、私たちをそこから救い出してくださる道を拓いてくださったキリストを見よ! そのような形で指し示している指です。
 グリューネバルトが描いた洗礼者ヨハネの指のところをよく観ると、小さな文字が記されています。これは聖書の言葉でありまして、洗礼者ヨハネが言った言葉です。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3・30)。これは、今日の聖書箇所の7節、8節にも通じる言葉です。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(7〜8節)。
 8節の洗礼については、来週、また触れる機会があると思います。7節の「履物のひもを解く」というのは、一番下の立場の者が行うことであると言われています。それすら、自分には主イエスに対してなす値打ちもないということです。グリューネバルトの絵のモチーフを借りて言えば、自分は指にすぎない存在なのだ、ということでしょう。
 ある神学者が、自分も洗礼者ヨハネの指になりたい、そういう生き方に徹したいというようなことを言っています。私たちも、洗礼者ヨハネをはじめとする誰かの指によって、キリストと出会いました。そういうヨハネが、そういう指があったはずです。その指が指し示している先にあるのは、私たちが歩むべき唯一の道であり、キリストが切り開いてくださった道であり、命の道、真理の道なのです。

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