「天地を結ぶ洗礼の出来事」

本城 仰太

    イザヤ書 63章15節〜19節
        マルコによる福音書  1章9節〜11節
63:15 どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。
 どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。
 あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。
63:16 あなたはわたしたちの父です。
 アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。
 「わたしたちの贖い主」/これは永遠の昔からあなたの御名です。
63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。
 立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
63:18 あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。
 間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
63:19 あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。
 どうか、天を裂いて降ってください。
 御前に山々が揺れ動くように。

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

1.洗礼を受けるとは?

 洗礼を受けるとは、どういうことでしょうか。洗礼を受けると、どうなるのでしょうか。教会に来たことのない人にとっても、洗礼という言葉はよく知られています。そして、教会には洗礼というものがあるということも知っています。洗礼を受けるとキリスト者(クリスチャン)になります。そのための儀礼が、洗礼です。
 洗礼では水が用いられます。洗礼式において、受洗者に水をかけることになりますが、かけ方にはいくつかのやり方があります。まずは滴礼と呼ばれるやり方です。中渋谷教会のおいてもそうですが、滴礼はわずかな水を頭につける形で行われます。これと似たようなやり方かもしれませんが、灌水礼というやり方があります。こちらのやり方では、専用の容器に水が入れられていて、その容器から頭に水を注ぎかける形で行われます。
 もう一つのやり方は、浸礼あるいは全浸礼と呼ばれているやり方です。こちらはわずかな水を浸すだけでなく、全身を水の中に入れるやり方です。教会によっては、前方のところにバスタブや大きい場合はプールのようなところがあり、洗礼式が行われる時はそこを使います。あるいは、川や海に行って、そこで全身を浸し、洗礼がなされる場合もあります。
 いずれのやり方も、洗礼は洗礼です。水が用いられます。なぜ水が用いられるのでしょうか。水には洗い流す意味があります。私たちが食器を洗ったり、衣服を洗濯するときにも、必ず水を使います。そのようにして汚れが洗い流される。洗礼は罪の汚れを洗い流す、そういう意味がまずはあります。
 しかしそれだけではありません。ちょっとだけ汚れている汚れを洗い流す、その程度のことでは済まないのです。水の中に入ることによって、一度、死ぬのです。浸礼あるいは全浸礼は何よりもそのことを表しています。もちろん、滴礼や灌水礼のように、わずかな水しか注がない場合も、意味している事柄は同じです。水の中に入ることによって、一度そこで死ぬのです。古い自分に死に、新しい人に生まれ変わる。洗礼は何よりもそのことを表しているのです。

2.主イエスの登場とその姿

 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエスが洗礼を受けられた場面のことが記されています。マルコによる福音書から連続して御言葉を聴き始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1・1)。そのような言葉からマルコによる福音書が始まっていきましたが、先週、御言葉を聴いたように、2節以下には、旧約聖書の引用があり、洗礼者ヨハネのことがまず出てきます。
 今日の聖書箇所のところから、いよいよ主イエスが登場されるわけですが、まだ主イエスは一言も発言されていません。まだ主イエスの発言はありません。主イエスが洗礼を受けられる姿が記され、その時の様子が記されていきます。
 先週の聖書箇所になりますが、8節のところにこうありました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(8節)。これは洗礼者ヨハネの言葉です。自分は今、水で洗礼を授けているが、主イエスが来られたならば、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになる、そう言っている言葉です。ところが、主イエスが洗礼を授けている様子は、この福音書のどこにも書かれていません。聖霊で洗礼を授ける、そういうことも、この福音書のどこにも書かれていません。
 8節では主イエスが洗礼を授けると語られているのに、なぜこのとき、主イエスの方が洗礼を受けておられるのか。マルコによる福音書は短い言葉で淡々と書かれているところがありますが、同じ出来事を記した福音書記者マタイは、このように書いています。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」(マタイ3・14〜15)。
 洗礼者ヨハネも、主イエスに洗礼を授けることを思いとまどったようです。しかし主イエスが言われた通りに洗礼を授けた。つまり、主イエスご自身が洗礼を受けることを望まれたのです。「正しいことをすべて行う」のだと言われています。「すべて」という言葉からすると、主イエスが洗礼を受けられるという一つの出来事だけが言われているのではないことは明らかです。この時の洗礼も含め、これから起こる一つ一つの出来事のことを言われているのでしょう。

3.任職式

 「主イエスのこの時の洗礼は、救い主としての任職式である」、ある人がそのように言いました。任職式というものは、式が終わったらそれですべての務めを果たしたとは言えません。むしろこれからが始まりです。その出発点にあるのが任職式です。  主イエスの洗礼がなぜ任職式なのか。今日の聖書箇所は、旧約聖書のいくつかの箇所と関連していると言われますが、その一つが詩編第2編です。この詩編は、王としての即位の歌であると言われています。「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」(詩編2・6)。その直後の7節で、こういう言葉があります。「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。」(詩編2・7)。この言葉は、今日のマルコによる福音書に記されている言葉とほぼ同じです。主イエスが洗礼を受けられた際、天から聞こえてきた言葉です。だから主イエスもここで救い主としての任職式がなされている、そのように考えられているのです。
 先週の日曜日、教会学校の教師任職式を行いました。教会学校の教師は、教会における奉仕を行います。子どもたちと共に礼拝をしていきます。教会にはたくさんの奉仕があるにもかかわらず、任職式を行う奉仕は少ないでしょう。なぜ教会学校の教師は任職式を行うのか。一つの大きな理由は、礼拝を行っているからです。礼拝がなされるということは、説教が語られます。教会学校の教師は、何よりも説教者です。子どもたちに御言葉を語り、信仰の教育にあたります。そのための大事な任職式です。日本基督教団の式文にも、洗礼式とか聖餐式とか、やがて私たちも行うことになる牧師就任式とか、結婚式や葬式の式文が載せられていますが、その中にもきちんと教会学校教師任職式があるのです。
 教会学校の教師に限ったことではありませんが、任職された者にとっては、あとはその職を担って歩んでいくだけです。自分にそれに見合った能力があるから、ということによって歩んでいくわけではありません。何よりも自分がその職に召された、使命を受けた、そして任職された、そのことが大事になってくるのです。
 主イエスの任職に関して、ある人がこんな想像をしています。主イエスは、今日の聖書箇所にも出てきますが、ナザレという町で育った。大工としての仕事もされた。三〇歳くらいから、人々の前に現れ、公の活動を始められたと言われています。それでは、主イエスはどのような思いで、その時を待っておられたのか。この人はこのように想像します。主イエスにとって、自分が救い主としての使命に召されていた、そのことはすでに明確に分かっておられたかもしれない。でもいつその歩みを始めるのか。主イエスも待ち続けた。そしてそのような中、洗礼者ヨハネが現れ、人々に洗礼を授けている。主イエスのその出来事の中の一人として、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。そしてここで任職され、いよいよその歩みを開始された。この人は、これまでの主イエスの歩みを、そのように想像するのです。

4.主イエスが受ける洗礼と杯

 ただし、主イエスが受けられる洗礼は、他の人たちとは大きな違いありました。主イエスが特別な使命に召されているからです。主イエスご自身が、「洗礼」という言葉を使われている箇所があります。十字架にお架かりになる直前の時の出来事です。それはこういう文脈の中で出てきた言葉です。
 主イエスの弟子の中の二人が、このように主イエスに言います。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」(10・35)。「何をしてほしいのか」(10・36)と主イエスが問いかけます。そうすると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10・37)と二人の弟子は言うのです。それに対して、主イエスはこう言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(10・38)。主イエスからこのように問われた二人の弟子たちは、「できます」(10・39)と答えるのです。
 このようなやり取りがあったことを、他の弟子たちが聞いて、腹を立てます。弟子たちの間にも気まずい空気が流れたことでしょう。主イエスはこう言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10・43〜44)。そして、締めくくりの言葉として、こう言われるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・45)。
 主イエスがこれから杯を飲み干そうとされていた、そのことが洗礼を受ける、とも表現されています。最後の締めくくりの言葉から考えても、これは主イエスの十字架でのご受難のことです。多くの人の罪が赦されるように、自分が十字架で命を献げること、これが主イエスの洗礼なのです。
 今日の聖書箇所は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、最初の任職式のことが記されています。いったい主イエスはどんな使命へ向かおうとされていたのでしょうか。どこへ向かって任職されたのでしょうか。それは、十字架へと向かう、救い主としての任職です。

5.裂ける

 今日の聖書箇所の10節のところに、こうあります。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」(10節)。ここに「天が裂けて」という表現が出てきます。これはいったい何でしょうか。
 中渋谷教会の礼拝の最後のところに、「派遣の言葉・祝福」があります。週の初めの日に、礼拝に集い、これからそれぞれに与えられている一週間の生活へと派遣されていきます。派遣にあたり、祝福をもって、送り出されているのです。「派遣の言葉・祝福」はこのような言葉です。「願わくは主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは主が御顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは主が御顔をあなたがたに向け、あなたがたに平安を賜るように」。
 ここに「御顔」という言葉が出てきます。神さまの顔のことですが、神さまが顔を向けてくださるように、ということです。神さまの顔が見えなくなってしまうのではない。いつでも神さまがこっちを向いていてくださるように。そっぽを向いておられるのではない。こっちを見ていてくださるのですから、困ったことがあれば助けてくださることにつながります。
 ところが、神さまの顔が見えなくなってしまうかのような出来事が、何度も繰り返し起こってしまいます。自分たちが神さまから離れ、自分たちが神さまの方を向かなかったから、神さまも御顔を隠してしまわれたのではないか、そういう出来事が旧約聖書の中にいくつも記されています。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書第63章も同じです。「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」(イザヤ63・19)。神さまの顔が見えなくなってしまった。天が閉ざされてしまった。その天が裂いて降りてきてください。御顔を見ることができるように。イスラエルの人たちの祈りの言葉です。
 この祈りが聞かれるかのように、主イエスが洗礼を受けられた時、天が裂けたのです。天が裂けるというのは、天が開くということです。裂かれた天から声が聞こえてきます。悪い言葉が聞こえてきたのではありません。天からの喜びの言葉です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(10節)。
 私たちが洗礼を受ける時も、同じ喜びが天にもあります。もちろん、洗礼を受けた私が喜んでいる、教会の者たちが喜んでいる。そういう喜びもあるでしょう。しかしそれだけではありません。何よりも天に喜びがある。今までは天地に隔たりがありました。しかし天が裂けて、天地が結ばれる。その出来事が洗礼において起こるのです。  そして「裂ける」という言葉がマルコによる福音書の中で、もう一箇所使われている箇所があります。主イエスがまさに十字架にお架かりになっている場面です。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(15・37〜39)。
 神殿の垂れ幕は、とても分厚い幕だったようです。その幕の中には、誰も入ることができませんでした。年に一度だけ、大祭司と呼ばれている人だけが入ることの許された場所です。特別な場所です。神がここにおられるのではないか、とさえ考えられていた場所です。
 しかしその垂れ幕が「裂けた」。今までは神と人を隔てるものでした。そういう分厚い幕が、主イエスの十字架での死とともに裂けた。その幕がもはや不要になりました。もう神殿も要らなくなりました。主イエスが救い主として何よりもしてくださったことは、こういう隔てを取り除いてくださったことです。洗礼の時に、天が裂けて、天地の隔てがなくなりました。十字架の時には、神殿の垂れ幕が裂けました。神と人とが直接結びつくことができるようにしてくださいました。それが「裂ける」という言葉の意味です。

6.私たちも洗礼によって、主イエスと同じ道をたどる

 洗礼は、古い自分に死に、新しい人に生まれ変わることだと、先ほど申し上げました。それは何よりも、神と隔たっていた古い自分に別れを告げ、神と結びついた新しい人として生まれ変わることです。
 先ほど、主イエスの杯を飲み干し、主イエスの洗礼を受けることが「できます」と答えた二人の弟子たちの話をしました。その話の中で、主イエスはこう言われています。「彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。』」(10・39)。
 主イエスがこのように弟子たちに言われたように、私たちも洗礼を受けます。しかし、主イエスと同じ意味での洗礼というわけではありません。主イエスが私たちに先立って洗礼を受けてくださったのは、「正しいことをすべて行う」ためです。天を裂いて、天地を結び付けてくださいました。神殿の垂れ幕を裂いて、神との隔てをすべて取り除いてくださいました。後からの者たちが歩いてくることができるように、先頭に立って命を懸けて道を切り拓いてくださったのです。
 ある人が、洗礼に関してこんなことを言っています。「洗礼は、受けた者勝ちです。表面的に少し水をかけられるだけかもしれません。しかしそれだけで、神から霊を受け、罪赦されて、新しい人に生まれ変わることができます」。主イエスが救い主としての任職を受けられ、その務めを最後まで果たしてくださいました。道なきところに道が拓かれました。私たちにとって、なんとも有難い道が切り開かれたのです。

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