「地には平和」

本城 仰太

       マルコによる福音書1章12節〜13節
     イザヤ書 11章6節〜10節
11:6 狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては
/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
11:10 その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

1.洗礼からすぐに誘惑へ

 本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、「それから」という言葉があります。この言葉は、ニュアンスとしては「それから」というよりも「(それから)すぐに」という意味の言葉です。
 実はこの言葉、マルコによる福音書を書いたマルコの口癖だったのではないかと言われている言葉なのです。口癖と言っても、筆をとってこの福音書を書いたわけですから、文章を書く時の癖だったと言った方がよいのですが、この福音書の中で、実に四二回も出てくる言葉です。「それから」「すぐに」「そのとき」などと訳されています。
 しかし、私は単なる口癖ではないと思っています。マルコがこの言葉を多用したのは、この福音書の話に流れをつけたいから、連続性を持たせたいと思ったからでしょう。例えば今日の聖書箇所には「誘惑を受ける」という小見出しが付けられています。先週の聖書箇所には「イエス、洗礼を受ける」です。こういう小見出しはごく最近付けられたもので、聖書にもともとあったわけではありません。小見出しは一長一短なところがあります。まるでその部分だけ、他のところから切り離されているような感じを受けますが、もともとはつながりを持った、連続したものだったのです。
 今日の聖書箇所の最初のところに「それから」(「すぐに」)とありますのは、何よりも連続性を表しています。ちなみに先週の聖書箇所でも、主イエスが洗礼を受けられました。「水の中から上がるとすぐに」(10節)とありますが、この「すぐに」もまた同じ言葉です。立て続けに起こった出来事として、書かれている。主イエスが洗礼を受けられた、そして「すぐに」今日の聖書箇所のところで誘惑を受けられた、そのように話が進んでいくのです。
 関連することになりますが、私は以前、こんな経験をしたことがあります。教会の何名かの方々で、お茶を飲みながら話をしていた時のことです。それぞれの信仰の歩みの昔話になりました。ある方が、自分はこんな苦労をした、そんな話をされました。別の方も、別の苦労話ですが、こんな労苦を経験した、という話をされました。さらに別の方も、自分もこんな苦難を受けたという話をしました。三人くらいの方が、それぞれの苦労話をされたでしょうか。それを聴いていたある方が、三人の共通点を見抜いて、こう言われました。「皆さん洗礼を受けてから間もなく起こった出来事ですね」、と。
 これはもちろんたまたまだったかもしれません。三人とも、たまたま洗礼を受けられた直後に、別々の仕方ではありますけれども、何らかの苦難を経験された。もちろん、洗礼を受けた直後に、このようなことが「すぐに」必ず待ち受けているわけではありません。しかし、何よりもわきまえておかなければならないのは、洗礼を受けたからといって、このような苦難が消えてなくなるわけではないということです。
 主イエスもそうでありました。主イエスが洗礼を受けられた。そして「すぐに」、今日の聖書箇所に記されている出来事が起こることになるのです。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)。ここに「送り出した」と訳されている言葉があります。元の言葉のニュアンスとして、もっと激しいもので、「送り出した」ですと、生易しく訳されているところがあるかもしれません。元のニュアンスでは「追いやった」あるいは「投げ出した」というような言葉です。「霊」という言葉にダブルクオーテーションマークが付けられ「“霊”」となっています。これは「聖霊」と理解されているわけですが、聖霊によって、主イエスは洗礼直後に、そのような誘惑の場へと「追いやられる」あるいは「投げ出される」。主イエスはそのような経験をなさったのです。

2.荒れ野とはどんなところか

 いったいどこへ追いやられたのかというと、「荒れ野」です。当時のたいていの街は、一か所にひとまとめにして家が建てられ、街が形成されているわけですが、大きな街ですと城壁に囲まれています。小さな街でも、何らかの壁や柵のようなものがあり、街の入り口には門がありました。その街の外は、人が住んでいないところです。そのような人が住んでいないところが「荒れ野」と呼ばれています。マルコによる福音書でもこの言葉は、「荒れ野」以外に、「人里離れた所」とか「人のいない所」というように訳されています。
 あるいは別の翻訳をするならば、「孤独な所」と訳すことも可能です。人がいないわけですから、孤独な場所となります。物理的に人がいない場所。しかし「孤独な場所」というならば、人がいても、そこに「荒れ野」が存在する場合があります。現代の社会の真っただ中にも、「荒れ野」がしばしば存在してしまうことがあります。
 誰もが抱えている問題、あるいはやがて抱えることになる問題ですが、老いをどのように生きるかという問題があります。老いの問題の根源にあるのは、人から捨てられてしまうのではないか、という恐れだと思います。もしそういうことが起こってしまえば、そこに「荒れ野」が生まれることになります。
 若い人にとっても、「荒れ野」の問題を抱えることがあります。学校や社会が敷いたレール、あるいは自分はこうあらねばならないと自分で敷いたレールから、「荒れ野」に追いやられてしまうのではないかという不安がいつもあります。どんな人でも、何らかの不安を抱えています。仮に今は大丈夫だったとしても、いつでもそこから「追い出される」「投げ出される」不安があります。今の社会のどこにでも「荒れ野」がある。皆がその中で生活をしているのです。

3.荒れ野が荒れ野でなくなる

 しかしそういう「荒れ野」を主イエスがまず経験してくださった。教会に生きる者は、その「荒れ野」がもはや「荒れ野」でなくなっている。この社会にあっても、そういう中を生きることができるのです。  先週の木曜日と金曜日、訪問聖餐に出かけました。普段、教会に来ることがおできになれない方々のところをお訪ねし、聖餐礼拝を行いました。教会は、最初期の頃から、教会に訪ねてくることができなくなった方々のところに赴いて、礼拝をしていました。例えば、新約聖書のヤコブの手紙第5章13〜15節にこうあります。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5・13〜15)。
 ここで出てくる「長老」は、今の私たちの教会の「長老」とまったくイコールではないでしょうけれども、病気になって教会に来られなくなった方々のところへ、教会の責任ある方々が赴いて、小さな礼拝がなされていたことが分かります。そうすると、「主がその人を起き上がらせてくださいます」という出来事が起こると言われています。ここで使われている「起き上がる」というのは、「復活する」「甦る」と同じ言葉ですから、病気が治って実際の意味で「起き上がる」ことが意味されているというよりも、信仰における力を得るという意味でしょう。
 最初期の教会が病人を訪ねていたことは、新約聖書からの証言だけでなく、他の記録からも分かっています。例えば、社会から見捨てられたような病人を、教会の人たちは積極的に訪ねました。古代のローマの社会において、しばしば伝染病が流行ることがありました。その病にかかり、手の施しようがなくなると、その病人は「荒れ野」に追いやられることになります。感染する恐れがありますから、誰も近づかなくなるのです。
 しかしキリスト者たちは、そういうところを訪ね、水を飲ませ、食べ物を口に含ませ、讃美を歌い、共に祈りました。「荒れ野」だったところを、「荒れ野」ではなくさせる。病人にとって病との闘いは、あとは体力勝負というところがあるわけですから、食べ物を得ることができた、水を飲むことができた、そのことは大きな助けになったことでしょう。しかしそれ以上に、病の人たちにとって、自分が心に留められていることが、どれほど心強かったでしょうか。ここはもはや「荒れ野」ではない、そのことがどれほど心強かったでしょうか。
 先週の訪問聖餐の前に、祈祷会がありました。祈祷会は、教会としての祈りが献げられている場でもあります。木曜日と金曜日、訪問聖餐に伺う、そのことを覚えて祈って欲しいと申し上げました。その場にいた方々ももちろん、多くの方々が、心に留めてくださり、覚えて祈ってくださいました。聖餐訪問を受けられた方々も、いつも教会を心に留めてくださって、覚えて祈っていてくださる。もはや教会には「荒れ野」がないのです。その根本のところに、主イエスの「荒れ野」で戦いがあるのです。「荒れ野」をもはや「荒れ野」でなくしてくださった、その勝利があるのです。

4.荒れ野にいる野獣

 今日の聖書箇所の13節にこうあります。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(13節)。
 マルコによる福音書は、簡潔に書かれているところがあるかもしれません。同じ話が、他の福音書にも書かれています。小見出しの下のところを見ると、マタイによる福音書第4章1〜11節、ルカによる福音書第4章1〜13節に、並行記事があることが分かります。どちらも分量にすると10節以上も節を費やしています。改めて各自で読んでいただければと思いますが、こんなに長く何が書かれているかと言うと、サタンからの三つの誘惑が具体的に書かれているのです。サタンがどういう言葉で主イエスを誘惑したか、そして主イエスがどのような言葉でそれらを退けられたか、詳細に書かれているのです。
 マルコによる福音書には、そのようなことが書かれていません。たった2節だけのかなり簡潔な内容です。けれども他の福音書に見られない言葉があります。それは「野獣」という言葉です。主イエスは洗礼を受けて「すぐに」、人がいないところ「荒れ野」に追いやられ、「野獣」と一緒にいることを強いられたのです。
 13節の終わりには「天使たちが仕えていた」とあります。これはいったいどういうことでしょうか。聖書学者たちをはじめ、多くの者たちが考えていますのは、天使たちが野獣から主イエスを守ったのではないだろう、ということです。そうではなくて、主イエスが四〇日間、主として飲み食いするためなのでしょうけれども、そういう面で天使たちが主イエスを支えたという理解です。四〇という数字は、旧約聖書を読めばすぐに分かりますが、十分に長い期間という意味があります。その点では、四〇日間、断食して空腹を覚えられた時に、サタンの誘惑にあったというマタイやルカとの理解とも違います。マルコによる福音書は、この「野獣」のことをメインに伝えようとしているのです。本来ならば共存することができない「野獣」と共存されたのか、あるいは「野獣」に勝利をされたのか、その主イエスのお姿を伝えているのです。
 本日、私たちに合わせて与えられたイザヤ書第11章に、興味深いことが記されています。第11章の最初のところにある言葉は、クリスマスの時によく読まれる言葉でもあります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ11・1〜2)。主イエスのことが預言されている言葉として理解されているからです。
 今日お読みしたのは6節から11節までです。ここには、狼と子羊が共存し、豹と子山羊が共存し、乳飲み子と毒蛇が共存し、幼子と蝮が共存していることが記されています。まさに獣が獣ではなくなっていることが言われているわけですが、「その日が来れば」(10節)、そのようなことが起こるだろう、と言われているのです。そしてその出来事が主イエスの時に実現した、それがマルコの理解です。もはや「荒れ野」「荒れ野」でなくなったかのように、「野獣」「野獣」ではなくなる。主イエスにおいて、その現実を見ているのです。

5.「地には平和」

 先週、聖餐訪問に伺ったある方のところで、マタイによる福音書の第5章に記されている、「地の塩・世の光」の聖書箇所を朗読しました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・13〜16)。
 主イエスがここで語られたのは、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」ということです。「地の塩になれ」と言われているのでも、「世の光になれ」と言われているのでもありません。主イエスの弟子たるキリスト者となったからには、もうすでに「地の塩である」「世の光である」、その前提から出発することができます。とても大事なことです。訪問に伺う際に、いつも私が思わされていることがあります。それは、訪問先のここにも、地の塩、世の光たる方がここにおられるということです。  老いをどのように生きるのか、私たちにとって大きな問題でしょう。自分の周りが「荒れ野」になってしまうのではないか、自分が孤独の「荒れ野」の中に取り残されてしまうのではないか、その恐れがあります。その「荒れ野」にいる「野獣」との闘いがあります。
 この「野獣」という言葉、「獣」という言葉で、新約聖書の最後に収められているヨハネの黙示録に、たくさん出てきます。竜という言葉も出てきます。そこでの獣や竜は、例えば、教会を迫害した当時のローマの皇帝やその権力を表していると言われています。教会には厳しい戦いがありました。しかし主イエスがすでに「荒れ野」での戦いを制してくださっていた。主イエスによって「荒れ野」「荒れ野」ではなくなり、「獣」も「獣」としての力を失っていた。それゆえ、今日の説教の説教題を「地には平和」と付けました。「荒れ野にも平和」「私たちが生きるところにも平和」と付け加えてもよかったかもしれません。
 そのことが前提となって、主イエスが言われたことが「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」という言葉です。「荒れ野」のようなところにいるようでも、主イエスがその「荒れ野」を退けてくださったゆえに、「地の塩」が塩味を失うことはありません。「世の光」がその輝きを失うことはありません。主イエスがおられるところ、死への勝利があり、病への勝利があり、罪への勝利があるからです。わたしたちは、そこに置かれているのです。
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