「神の国は近づいた」

本城 仰太

       マルコによる福音書1章14節〜15節
     イザヤ書 66章1節〜5a節
66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
66:2 これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。
66:3 牛を殺してささげ、人を打ち倒す者
羊をいけにえとし、犬の首を折る者
穀物をささげ、豚の血をささげる者
乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者
これらの者が自分たちの道を選び
その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。
66:4 わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び
彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず
わたしの目に悪とされることを行い
わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
66:5 御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

1.「神の国は近づいた」

 マルコによる福音書における主イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)です。主イエスはたくさんの大事な言葉を語られた方です。福音書を書く著者にとって、主イエスの大事な言葉の中で、どの言葉を最初に書くのか、そのことは極めて大事なことでしょう。  主イエスが実際に登場されたのは、マルコによる福音書では第1章9節のところからです。まだ主イエスは一言も言葉を発してはおられません。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる、そういうお姿が描かれています。洗礼を受けられてすぐに、荒れ野で誘惑を受けられる。そして、どのくらいの時間が経ったのかは具体的には分かりませんが、少し時間が空いて、今日の聖書箇所の出来事が起こっていくのです。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。これは主イエスの第一声ですけれども、主イエスのお言葉全体の要約であると言われています。主イエスは様々なことをお語りになりました。様々な教えを語り、譬え話を語り、愛を説き、赦しを語りました。そういう主イエスのたくさんある言葉を一言で要約するとすれば、どうなるのか。この言葉になると言うのです。ですからこれは第一声でありますが、この言葉を最初に語られた後、もうあとは同じことを語られなくなったというわけではありません。いつでもどこでも、絶えずこの言葉を語っておられた。そういう意味でも、まさに第一声を飾るのにふさわしい言葉でありましょう。
 「神の国は近づいた」と言われます。このニュアンスをよく聴き取っていただきたいと思います。私はもう十年以上も前になりますが、あるミッションスクールに教育実習に行きました。伝道者というのは、教会の牧師になるだけでなく、ミッションスクールで聖書の授業を担当し、学校での伝道の務めにあたるという道もあるのです。その場合は教員免許が必要になります。そのための教育実習です。その教育実習で、中学一年生の授業を担当する際に、「主の祈り」の授業を行うことになりました。実習は六月のことでした。中学一年ですから、ミッションスクールに入ったばかりの生徒たちです。聖書に触れて間もない生徒たちです。そこでまず、主の祈りの現代語訳をしてもらうことにしました。ご存知の通り、主の祈りの言葉は少し古い日本語です。何も解説をせず、現代語訳してもらったものを提出してもらいました。
 第一回目の授業で提出してもらった現代語訳に目を通してから、第二回目の授業に臨みました。その際に、ある生徒が主の祈りの「御国を来たらせたまえ」のところを、このように現代語訳してきました。「天国に行かせてください」。この生徒だけでなく、けっこう多くの生徒たちが、このような現代語訳をしてきました。これは明らかに誤解です。「御国を来たらせたまえ」ですから、「御国」「天国」「神の国」が来ますように、というのが正解ですが、そちらに行けますように、というのは誤解していることになるわけです。
 このことは、教育実習の生徒だけの問題ではなく、けっこう多くのところで見られる誤解かもしれません。天国や神の国というと、私たちとは違う、どこか遠いところにあるように思ってしまうかもしれません。しかし主イエスは「神の国は近づいた」と言われたのです。こっちが行くのではなく、向こうから近づいてきた。主イエスの登場と共に、主イエスのお言葉と共に近づいてきた。私たちが信仰の歩みを送るにあたって、こういうイメージの転換が大事です。

2.預言者の時代の終わり

 14節には、「ヨハネが捕らえられた後」とあります。簡単に書かれていますが、洗礼者ヨハネが捕らえられた後にどのようなことが待ち受けていたのか。第6章14節以下のところまでそのことは触れられていません。ここを読みますと、洗礼者ヨハネが首をはねられて殺されてしまう事件が記されています。この出来事に際して、実はこういう事情でヨハネが逮捕され、監禁されていたのだ、ということが記されているのです。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(6・17〜20)。
 今日の聖書箇所では短く「ヨハネが捕らえられた後」とあります。何気なく書かれている言葉ですが、重要な意味が込められています。一つの時代が終わり、新しい時代が幕を開けた。その意味が込められているからです。
 中渋谷教会に赴任して、ひと月が経ちました。礼拝だけでなく、様々な集会も行われています。それらの集会を一通り経験したことになります。ある集会で、こういうやり取りがありました。「中渋谷教会には、よき伝統があるのです」、ある方が私にそう言われました。私が「どのような伝統ですか」と尋ねますと、「それは、集会の場で、牧師を質問攻めにすることです」と返ってきました。なるほど、と思わされました。確かにその通りだったからです。集会に出て、一通り話をして、終わりのところで、いろいろな質問が出て、いろいろな話になります。私も質問に答えながら、いろいろと考えさせられて、楽しんでおりますが、ある方がこんな質問をされました。「今も預言者はいるのですか?」。その集会では、旧約聖書のエレミヤ書を読みました。預言者エレミヤが出てきます。その他にも旧約聖書にはたくさんの預言者たちが出てきます。そういう預言者たちは、今も登場しているのか、という質問です。
 この問いには、様々な角度から答えることができるでしょう。預言者というのを、文字通り、神から言葉を預かってそれを伝える人と考えるならば、現代の説教者も預言者のような働きをしていると言えるかもしれません。しかし別の角度から考えるならば、旧約聖書の預言者たちの時代はもう終わったと答えなければなりません。その意味から答えると、洗礼者ヨハネが最後の預言者だということになるのです。
 どういうことでしょうか。もう少し深く考えてみたいと思います。旧約聖書の時代に、預言者たちが次々と現れました。イザヤが現れ、エレミヤが現れ、エゼキエルが現れた…。人々に悔い改めを求めました。多くの人たちが耳を傾けようとしませんでしたが、中には耳を傾けて悔い改めた人たちもいたかもしれません。しかしその預言者が去り、また別の預言者が現れる。また同じように悔い改めが求められ、悔い改めない者もいれば、悔い改める者もいた。ずっとそのようなことが続いたのです。
 そのような中、遂に主イエスが登場されます。主イエスが登場したのちに、また預言者が現れたらどうでしょうか。それはつまり、主イエスでは不十分だった、主イエスに足りないところがあったということになってしまいます。預言者が次々と現れるということは、裏を返せば、かつての預言者では不十分だったということになるのです。
 しかしマルコは「ヨハネが捕らえられた後」と書きました。これは預言者の時代が終わったことを意味しています。もうそういう不十分な時代は終わったのだ。新しい時代が始まったのだ。実際にこれ以降、ヨハネも目立った活躍はしていません。ずっと牢屋の中です。そして首をはねられてしまいます。主イエスによって完全に新しい時代が「神の国」と共にやって来たことになるのです。

3.時は満ちた

 新たな時代がやって来たことを、主イエスは「時は満ち」(15節)という言葉で言われています。新たな時の始まりです。
 教会の前に看板があります。毎週の説教題や礼拝・集会の時間などが記されています。その中に、月間の聖句を掲げています。牧師が聖句を選ぶわけですが、五月の月間聖句は「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレトの言葉3・11)が掲げられています。
 コヘレトの言葉の第3章のところを開いてみますと、まず「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3・1)とあります。そして様々な時が列挙されていきます。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時。殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」(3・2〜4)。この後も様々な時が続いていきますが、結局、こうだと言うのです。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3・11)。
 この聖書箇所では、様々な時に関して考察されてきましたが、一方では人間にはその時が分からないことが言われています。人間はこれらの時の中で生きているわけですが、「生まれる時、死ぬ時」をはじめとして、自分でその時を定めることができない。一方では、はっきりとそう言うのです。しかし他方で、それらの時は、神が定められた時なのだとも言う。人間側から見ると何も時が分からないのに対して、神側から見ると、それらの時がきちんと定められていたということになるのです。
 マルコによる福音書で、主イエスが何よりも最初に言われたのも「時は満ち」という言葉でした。神によって定められた決定的な時がやって来た。預言者の時代が終わり、新しい時代がやって来る、その時が満ちたと主イエスは言われるのです。
 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、新約聖書のギリシア語では、時を表す言葉が主に二つあると言われています。カイロスとクロノスという言葉です。今日の聖書箇所に出てくる「時は満ち」というのはカイロスという言葉ですが、ある事典に、カイロスとクロノスをめぐって、このように書かれています。「「時」という意味を表す新約の主要な表現はカイロ15スである。それは、重要な箇所において、キリストの出来事によって性格づけられる時を言い表している。それに対してクロノスは新約においても広く<時間><期間>を意味する」。
 時は時でも、ゆっくりと時間が流れている時もあれば、何かの出来事が起こる決定的な時もあります。カイロスというのは、この決定的な出来事が起こる「時」という意味です。主イエスの救いにかかわる「時」です。主イエスが到来され、「時は満ち、神の国は近づいた」という第一声の言葉と共に、新しい時代が始まっていったのです。

4.悔い改めと福音

 「時は満ち、神の国は近づいた」
と共に、「悔い改めて福音を信じなさい」(15節)という言葉も主イエスは言われました。悔い改めに関しても、新しい時代の到来とともに、悔い改めの仕方が根本的に変わったのです。
 主イエスが「悔い改め」という言葉を使われていますが、すでに4節のところにも使われています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(4節)。洗礼者ヨハネも、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたと言うのです。悔い改めの洗礼とは、悔い改めを人々に求め、悔い改めた者に洗礼を授けていたということでしょう。しかしヨハネの洗礼を受けたその結果、本当に赦されるかどうかはよく分からないのです。何も書かれていないからです。
 旧約聖書から、悔い改めと赦しについて考えてみたいと思います。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、イザヤ書第66章の箇所です。ここでも悔い改めが求められています。「牛を殺してささげ、人を打ち倒す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。」(66・3)。いろいろなことが書かれていますが、ここには形ばかり悔い改めているけれども、本当の意味では悔い改めていない点が、鋭く指摘されています。「牛を殺してささげ」とか「羊をいけにえとし」というのは、礼拝で献げる献げ物のことです。きちんと形ばかりは整えて悔い改めをしているようだけれども、その裏では「人を打ち倒す者」であり「犬の首を折る者」である点が鋭く指摘されているのです。
 しかし神が求めておられるのは、真の悔い改めです。「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」(66・2)。「霊の砕かれた人」というのは、不思議な表現です。聖書にも「砕く」という表現がよく出てきます。私たちは石のような頑なな心を持っています。悔い改めないような心です。しかし悔い改める心とは、それが完全に砕かれた心です。そういう心をもって悔い改める者を、神は必ず顧みてくださる、必ず赦してくださる。神はそういうお方だと言うのです。
 マルコによる福音書に戻りますが、主イエスは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めと福音がワンセットです。神の国と共に、福音が向こうから近づいてやって来ました。福音はよき知らせです。主イエスと共に、神の国と共に、向こうからやって来たのです。ですから私たちが悔い改めるとき、私たちは必ず赦されるのです。

5.新しい時代の幕開け

 主イエスの到来によって、新しい時代が幕を開けました。何もかもが新しくなりました。神の国が向こうから自分のところへ近づいてきたのもそうです。時が満ちたのもそうです。悔い改めの仕方が変わったのもそうです。必ず赦されるようになりました。主イエスにはその新しさがあるのです。
 昨年のことになりますが、二〇一七年九月に、及川信先生の『神の国』というタイトルの説教集が刊行されました。私は昨年、松本におりましたが、及川先生がその本を私のところにも送ってくださいました。この説教集は、ルカによる福音書の「神の国」が出てくる箇所を抜粋した説教集になります。送っていただいた時の手紙にも書かれていましたが、この本のあとがきのところに、このようなことが書かれています。及川先生が病に倒れ、療養中に思わされたこと、それは、主イエスが神の国をもたらすために来られたということ。当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、主イエスの十字架と復活、あるいはその後の教会の歩みのこと、その他、すべてのことが、この神の国をもたらすためのものであり、すべての中心に神の国があるのではないか、及川先生はそう考えるようになったと書かれています。
 そしてあとがきのところに、こういう一文があります。「私は今既に「神の国」に生きるからこそ、何年も何年もかけて考えて行きたいと思う」。とても大事なことを言われていると思います。ずっとこれから「神の国」について考えて行くわけですが、もうすでに「神の国」に生きている者として考えていく、及川先生はそう言われているのです。
 私たちにとっても大事なことです。私たちもすでに、神の国に置かれています。神の御手の中に置かれています。私たちが何もしないところに、悔い改めもままならないところに、主イエスが到来してくださいました。私たちが何もしないところに、神の国が向こうから近づいてきました。私たちが何もしないところに、時が満ちたのです。私たちにも決定的な時があります。私たちはその時が起こるまで、何も分からないかもしれませんが、神が備えてくださる決定的な時があるのです。私たちが救われる時、主イエスと出会う時、主イエスのお言葉を聴く時、悔い改める時…。もうすでにそれが起こった、それが主イエスの第一声の言葉なのです。
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