「あなたの使命」

本城 仰太

       マルコによる福音書1章16節〜20節
      エレミヤ書 1章4節〜8節
1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。
1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。
1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す」と主は言われた。

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

1.按手礼式

 先週の月曜日、西南支区の准允式・按手礼式が行われ、そこへ出掛けてきました。准允というのは、説教を語る務めが与えられることですが、教会に赴任すると伝道師と呼ばれることになります。按手礼というのは、さらに聖礼典を執り行うことができる牧師として立てられることになりますが、先週の月曜日には、お二人の方の准允式、お一人の方の按手礼式が行われました。
 按手礼式というのは、その言葉の漢字が表しているところもありますが、手を置いてなされます。すでに按手礼を受けた牧師たちが前に出て行って、按手礼を受けられる方の頭に手を置いて、その式がなされます。たくさんの牧師たちが出ていきましたので、私はその方の頭に直接手を置くことはできませんで、前にいる牧師の肩に手を置く形になりましたが、たくさんの手がその頭の上に置かれることになります。
 なぜ手を置くのか。聖書的な根拠に基づいて、そういうことがなされているわけですが、たくさんの根拠となる箇所を挙げることができるでしょう。旧約聖書の中に、頭の上に手を置いて祝福している箇所がいくつもあります。さらに大事な箇所としては、新約聖書の使徒言行録を挙げることができるでしょう。例えば、第6章のところに、「執事」と呼ばれる人たちを選出する場面があります。教会に献げられた物を、きちんと分配することができるように、そのお世話をする者たちが「執事」になりますが、七人の執事が選ばれます。その際に、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」(使徒言行録6・6)とあります。
 また、使徒言行録の第13章には、アンティオキア教会がパウロとバルナバの二人を伝道旅行に遣わす際に、教会の者たちはこのようにして二人を送り出しました。「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(使徒言行録13・3)。手を置くという行為は、何よりも祈ることを表しています。これからの務めに神の祝福があるように、そのための祈りです。祈りをもって、その務めが始まっていくのです。
 按手礼式も同じです。その按手礼式で新たな牧師が誕生します。祈りなくしては誕生しないことになります。この務めは、祈りなくしてはできないからです。自分がこの務めを選んだわけではありません。自分の力でこの務めをなしていくのでもありません。神が選んでくださったのです。すべての根拠は神の側にあるのです。

2.人を使命に召される主イエス

 本日、私たちに与えられた聖書箇所も、すべての根拠は主イエスの側にある物語です。先週の聖書箇所には、「神の国は近づいた」(1・15)という主イエスの言葉で、伝道が始まっていったことが記されています。それではどのようにして近づいたのでしょうか。主イエスが伝道を始めるにあたり、いきなり教えを語られたわけではありません。いきなり癒しを行われたわけでもありません。いきなり人々の罪を背負って十字架にお架かりになられたわけでもありません。そうではなく、主イエスがまず人を使命に召されることによって、伝道が始まっていきました。
 今日の聖書箇所では、四人の者たちが弟子としての使命に召されています。二人と二人の組み合わせです。説教の準備にあたって、いろいろな解説を読みましたが、ある解説にこんな面白いことが書かれていました。まずは最初の二人、「シモンとシモンの兄弟アンデレ」(16節)であります。シモンというのはペトロのことです。この二人は「湖で網を打って」と書かれています。どういう情景を思い浮かべるでしょうか。この解説者は、ペトロたち二人は、膝までか、腰までか、あるいは胸までか、湖につかりながら、文字通り網をうっていたと考えるのです。舟という言葉がないからです。それに対して、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ(19節)はどうでしょう。「舟の中で網の手入れをして」と書かれています。この二人は舟を持っています。しかも父親と共に雇い人たちも残して主イエスに従っていったわけですから、この二人は経済的な力のある漁師だったわけです。
 四人の同じような漁師が主イエスの弟子に召されたというわけではない。経済的に力のない二人の漁師と、経済的に力のある二人の漁師が同時に召された。ここらへんも、人間的な状況を考えるとなかなか面白いところかもしれませんが、主イエスの側としては、そんな事情は一切お構いなしです。16節に「御覧になった」とあります。19節にも「御覧になると」とあります。主イエスがちらっと見られるではなく、じっと見つめられました。どちらのタイプの漁師にも、同等のまなざしを注がれました。主イエスが選ばれたのです。
 このようにして主イエスが人を選ばれ、主イエスをリーダーとするグループが出来上がっていきます。来週、再来週の聖書箇所になりますが、21節と29節のところにそれぞれ「一行は」という言葉があります。主イエスたちご一行のことです。聖書の元の言葉では「彼らは」と訳した方が良いのかもしれませんが、しかし「一行」と訳している。なかなか味のある訳だと私は思います。主イエスが人を選ばれ、「主イエスのご一行」になっていく。そのようにして「主イエスのご一行」が赴くところで、汚れた霊が追い出され、病の癒しがなされていく。「主イエスのご一行」が赴くところには、あたかも神の国が実現しているかのような書き方です。本当にそのようにして「神の国が近づいた」のです。
 主イエスは人を使命に召されます。先週の水曜日、祈祷会がありました。昼間の祈祷会では、コリントの信徒への手紙一を少しずつ読み進めています。先週の箇所に、「宣教という愚かな手段」という言葉が出てきました。この手紙を書いたパウロは、自分が福音を宣べ伝えるために召された、自分は十字架の言葉を伝えているのだ、その文脈の中で、「宣教という愚かな手段」という言葉が出てくるのです。伝道をするにあたって、人が使命に召される。使命に召された人が、別の人へと伝えていく。人間が召されるなんて、神ならもっと効率的な方法を取られることも可能だったのに、私のような者が用いられるなんて…。そんな思いを表している「宣教という愚かな手段」という言葉です。しかし主イエスもまず人を使命に召されたのです。
 中渋谷教会の伝道を考える際にも、このことは大変重要なことです。伝道のために何が必要でしょうか。立派な舟が必要でしょうか。大きな網が必要でしょうか。それらは必ずしも必要なものではありません。必ず必要なのが、人です。だからこそ主イエスも、まず人を使命に召された。それを、人間をとる漁師と表現しているのです。

3.すぐに?

 最近の説教でも申し上げましたが、マルコによる福音書には「すぐに」という特徴的な言葉が繰り返し出てきます。今日の聖書箇所においてもそうで、18節と20節に出てきます。「二人はすぐに網を捨てて従った。」(18節)。「すぐに彼らをお呼びになった。」(20節)。
 ペトロたちは本当に「すぐに」主イエスに従ったのでしょうか。今日の聖書箇所の出来事を、他の福音書を比較すると、いろいろなことが分かってきた面白いのですが、ペトロが主イエスの弟子になるまでの経緯も、ルカによる福音書では多少違う書き方がなされています。ルカによる福音書によれば、ペトロの姑が病気にかかり、主イエスがその家を訪ねて来て癒してくれた、そこから主イエスとペトロの接点が始まります。ほどなくして、湖にいた主イエスのところに大勢の群衆が押し寄せてきます。押しつぶされてはいけませんので、主イエスがペトロに舟を出してくれるようにお頼みになるわけです。ペトロはこの時は舟を持っていたように書かれていますが、姑の命の恩人ですから、聞かないわけにはいきませんでした。主イエスを乗せて、岸から少し離れたところに行き、そこから主イエスが群衆に語り掛けるための手助けをするわけです。群衆への話が一通り終わったところで、主イエスから漁をするように言われる。今朝は何も獲れなかったし、こんな時間に漁をしても無駄だと分かっていましたが、主イエスの言葉通りにやってみると、網が破れそうになるほど魚が獲れる。ペトロは大変驚き、そして主イエスに畏怖の念を抱きます。そういうところに「あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5・10)と言われるのです。「あなたは…になる」と言われているわけですから、もう選択の余地はありません。ルカによる福音書によれば、ペトロはそのようにして主イエスの弟子になったのです。
 マルコによる福音書には、姑の行気を癒してもらったとか、主イエスの力に畏れをなしたとか、そういう記述は一切ありません。もちろん、この福音書を書いたマルコも、そういう事情は知っていたのだと思います。しかしマルコは、そういう人間側の事情は一切無視しました。神からの目線で「すぐに」、そう書いていったのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書の冒頭の箇所です。エレミヤが預言者としての使命に召された時の出来事です。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書1・5)、いきなり神からそう言われてしまいます。エレミヤの事情としては、若者にすぎないから、そうお断りをするわけです。エレミヤ側には「すぐに」とは言えない事情がありました。しかし神が選んでしまったわけですから、結局はなす術がないのです。神の網の中に架かってしまった魚のようです。もう捕らえられてしまったのです。これが神の選びの出来事です。福音書記者のマルコが、もしエレミヤの出来事を書いたとすれば、おそらく「エレミヤはすぐに従った」と書くでしょう。神の出来事の中では、人間側の事情は取るに足らないものなのです。

4.日常の中に入られる主イエス

 主イエスは私たちの日常の中に入ってこられる方です。私たちの用意や状況が整ったのでは、それでは弟子になります、ということではないのです。私たちはどうしても弟子としてのふさわしさを考えてしまうところがあるかもしれません。私はふさわしいのか、まだ用意が整っていないし、主イエスに従う状況も整っていないし、あれこれ自分の側で考えて、ふさわしくないという答えを出してしまいがちです。
 しかし主イエスはそんな私たちに待ったなしです。そのままの私たちの日常生活の中に入ってこられます。そしてむしろそのままで私たちを使命に召されます。私たちはそのようにして主イエスの弟子になる。私たちが弟子である、その唯一の根拠は、ただ主イエスの招きがあったからです。私たちが条件を整えたからではない。主イエスのまなざしが注がれ、主イエスが声をかけてくださったから、それだけが根拠なのです。
 この点は、マルコによる福音書の冒頭に出てきた洗礼者ヨハネとの大きな違いになるでしょう。洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていました。人々は日常生活を中断して、離れた場所、特殊な場所で洗礼を受ける必要がありました。
 しかし主イエスは違います。主イエスは漁師の日常生活の中に入り込んできてくださいました。ペトロたちは、いつも通りの生活をしていたはずです。何の準備もありませんでした。今日が主イエスと出会う特別な日だなどとは夢にも思っていませんでした。いつも通りの日でした。けれどもそこへ主イエスが来られた。人間をとる漁師である主イエスが来られたのです。ペトロを含め、四人の者たちが網にかかる。そうすると今度は自分たちも主イエスといっしょに人間をとる網を打つようになるのです。

5.生活転換

 このようにして主イエスと出会った私たちに、生活転換が起こりました。以前、ある方からこんなことを言われたことがあります。「私は以前、教会に来る人は暇な人だと思っていました。時間があるから日曜日に教会に来られるのだと思っていたのです。かつての私がまさにそうでした。日曜日は何かと予定が入ります。予定が入らなかったとしても、自分で予定を入れたり、他の選択肢を考えたり、教会もその選択肢の中の一つにすぎませんでした。条件が整えば、日曜日に教会に行くという感じでした。しかし、洗礼を受けて、その考えが変わりました。日曜日は相変わらず何かと予定が入りそうになります。しかし少なくとも日曜日の午前中は教会に行く、それが自然になりました。暇になったわけではありません。神さまに礼拝を献げる大事な時間になったのです」。
 弟子になっていくとは、まさにこの言葉に表されているようなことが起こるということです。ペトロがまさにそうでした。弟子になった直後は、何も変わっていません。むしろ失敗ばかりです。福音書には特にそんな姿が描かれています。しかし明らかにペトロは変わりました。以前とは違う自分になっていった。そういう変化は、弟子にならないと起こらないのです。
 私たちも同じです。自分の準備が整ったから、自分が変わったから、ようやく弟子にしていただけるのではありません。整わないまま弟子になる。礼拝に対する思いなんかもまさにそうでしょうが、以前と違う自分になっていくのです。皆様も必ず変わったところがあるはずです。

6.キリスト者の原点

 キリストの弟子になったペトロたちにとって、今日の聖書箇所は原点になった出来事です。ペトロたちはやがて伝道者になりました。どうしてあなたは伝道者になったのか、繰り返しそう問われたでしょう。ペトロたちは、今日の聖書箇所に書かれていることを何度も繰り返し答えたのでしょう。
 牧師もまたよくそのことを聞かれます。あなたはなぜ伝道者になったのか、と。私もかつて、多くの牧師たちの手が置かれて、按手を受け、牧師になったわけですが、それは自分で選んだ道ではありません。主イエスが呼んでくださったから、主イエスが招いてくださったから、本日の聖書箇所のように、私も答えることになります。
 これは何も伝道者だけの話ではありません。キリスト者ならば誰にとっても当てはまる話です。なぜあなたは洗礼を受けてキリスト者になったのですか、そう問われたらどう答えることができるでしょうか。私が選んだからではありません。主イエスに招かれたからです。呼ばれたからです。皆様ご自身、確かにいろいろなことがあったかもしれません。洗礼を受けようか、どうしようかと悩み、迷い、ある時期には反発して教会から離れたこともあったかもしれません。しかしキリストの招きがあった。だからこそキリスト者になった。ただそれだけです。誰もがこの物語を原点として持っているのです。
 マルコによる福音書には「すぐに」とだけ書かれています。私たちの誰もがそうなのです。神の出来事の前に、人間の事情は一切、無に等しいものになります。それほどキリストの招きは強い。私たちの人生を根本から変えてしまう招きなのです。
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