「権威ある新しい教え」

本城 仰太

       マルコによる福音書1章21節〜28節
      コヘレトの言葉 12章9節〜14節
12:9 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。
12:10 コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。
12:11 賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
12:12 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
12:14 神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

1. 教会の始まり

 今日はペンテコステです。ペンテコステは日本語で言うと、聖霊降臨日です。ペンテコステ、聖霊降臨日の日の出来事は、聖書の使徒言行録の第2章に記されています。主イエスが天に上げられた後の出来事です。地上に残された弟子たち、使徒たちと呼ばれるようになりますが、使徒たちに聖霊が注がれます。使徒たちによって神の言葉が語られ、その言葉が聴かれ、聴いた者たちの中から信じて、洗礼を受ける者たちが起こされます。そのようにして、信仰者が生まれ、教会生活が始まり、ここに教会が誕生したのです。教会の誕生日とも言われている日です。
 私たちの中渋谷教会は、今年で創立101年を迎えます。昨年度は百周年の年でもありました。昨年度は中渋谷教会の出身の教職たちによる説教も行われました。そして今年の6月、創立百年の記念の伝道礼拝とオルガンコンサートが予定されています。正式な教会として発足してから101年目の歩みを送っています。
 しかし正式な教会として発足する前からも、発足にかかわる歩みがすでに始まっていました。1914年12月24日、クリスマスの時ですが、ある方への伝道を覚えて、「日本基督教会講和所」というものが開設されました。「日本基督教会」というのは、中渋谷教会が発足時に属していたグループの名前です。そのグループに属する「講和所」として、三〇人から四〇人ほどが最初から集っていたようですが、その歩みが始まっていきました。中渋谷教会の初代牧師になった森明が1917年の夏に日本基督教会の教師試験に合格しましたので、1917年9月29日、中渋谷教会が正式に設立されました。日本基督教会の代表的な牧師である植村正久によって、牧師就任式も行われました。この年の9月29日の時点では会員が七八名でした。それが同じ年の年末には九六名になっていたそうです。この数字に関しても驚きですが、最初は「講和所」だったところが、3年後には「教会」になっていた。このことも驚きです。
 私が3月まで仕えていた松本東教会もそうです。今から百年と少し前に、学校の先生たちの聖書研究会が発足しました。それから数年して、聖書ばかりを研究しているだけでは済まなくなった。神を讃美し、礼拝する群れとなり、そして正式な教会が発足した。教会が生まれるというのは、本当に不思議なことです。それは、使徒言行録に書かれている二千年前の最初の教会もそうでしたし、この中渋谷教会も、他の多くの教会にとっても、教会が生まれ、その後も歩み続けてきたとのは、驚くべきことです。
 私も中渋谷教会に赴任し、過去の中渋谷教会の歴史をいろいろと読んでいます。特に今年は9月に向けて百年史の発行の準備を進めていますから、なおさらのことです。中渋谷教会はなぜ百年前に生まれたのでしょうか。その時のことがつづられている文章を読めばそれは明らかで、皆が伝道の熱意に燃えていたからです。森明をはじめとする人たちを動かす力があったからです。今日の聖書箇所の言葉で言えば、皆が主イエス・キリストというお方の権威に驚き、その驚きから教会が生まれたのです。

2.権威と驚き

 中渋谷教会では4月からマルコによる福音書の連続講解説教が続けられています。ペンテコステの日に、別の聖書箇所から御言葉を聴いてもよかったのかもしれませんが、今日はいつも通りの連続講解説教です。たまたま今日の聖書箇所になったとも言えるかもしれません。しかしふさわしき聖書箇所が与えられたと感謝しております。  今日の聖書箇所の最初のところにこうあります。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(1・21〜22)。まず語られているのは、主イエスの教えについてです。その教えの具体的な内容については、省略されています。
 マタイによる福音書の第5章から7章にかけて、山上の説教があります。主イエスが山の上で語られた一連の説教です。聖書の中の主イエスの有名なお言葉がたくさん収められています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「思い悩むな」「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。これらの言葉を聴き終わった後、聴いていた者たちは非常に驚きました。主イエスに権威があったからです。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7・28〜29)。けれども、マルコによる福音書のこの箇所には、これらの具体的な主イエスの言葉は記されていません。ただ単に、主イエスの言葉に権威があり、皆が驚いたことだけです。
 しかし続きがあります。もう一つの驚きがありました。主イエスの権威を感じた驚きです。23節以下に、汚れた霊を追い出す話が記されています。27節にはこうあります。「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」」(27節)。二つ目の驚きになりますが、ここでも権威に対する驚きが記されているのです。

3.汚れた霊に取りつかれた人とは?

 汚れた霊とは何でしょうか。汚れた霊に取りつかれた人とはどんな人のことでしょうか。以前は、例えば精神的な病、心の病のことが考えられていたこともありました。しかしそれは間違いです。一部の人だけの問題ではなく、むしろ私たちの誰もがかかわる問題です。
 24節に「かまわないでくれ」とあります。元の言葉のニュアンスで言えば、「我々とあなたに何の関係があるか」ということです。つまり、関係がないだろう、こっちはこっち、あなたはあなた、そう言っている言葉です。
 ここで使われている言葉は、「我々」という言葉なのです。その次のところにも、「我々を滅ぼしに来たのか」(24節)とあります。一人の男から出てきた言葉ですが、汚れた霊が語っている言葉で、しかも「我々」と言うのです。複数の汚れた霊が語っていることになります。言い換えると、この一人の男の中に、複数の存在が入り込んでいるということです。この男の言葉から、そういうことが分かってきます。
 この「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24節)という言葉を、いったい誰がいったのでしょうか。もちろんこの男が言った言葉ですが、しかしこの言葉はこの男の言葉であって、この男の言葉ではありません。汚れた霊が主イエスの本当の正体を知っていたのも驚きですが、汚れた霊がこの男に言わせている言葉です。
 私たちは、様々な言葉を口にしています。自分が口にした言葉であっても、それらの言葉が一貫していると断言できるでしょうか。全部が自分自身の責任で語った言葉である、しかも誰に聞かれても恥ずかしくないと責任もって言い切れるでしょうか。
 使徒パウロは、ある手紙の中で、自分自身をよく見つめてみた後で、自分自身が分裂していることを正直に告白しました。善をなす、つまり神に従ってまっすぐに生きようとする、そういう意志はある。けれども、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。二つの自分を見出したのです。自己分裂している自分を見出したのです。そしてこう言います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7・24)。そんな私をいったい誰が救ってくれるか。キリストしかおられない。パウロはそう語っていくのです。

4.かまわないでくれ?

 こう考えますと、汚れた霊に取りつかれた人とは、特定の誰かのことを指しているのではない。私たちの誰もが今日の聖書箇所に当てはまるということになってきます。
 「かまわないでくれ」と汚れた霊は言いました。「我々は我々、あなたはあなた」、こんなところでかかわりを持つのではなく、あなたはあなたの道を行けばよい、私は私の道を行く。それぞれ別の道をいったらよいだろう、ということです。
 これは、実はかつての私たちがよく言った言葉ではないかと思います。「ナザレのイエス」、二千年前にイエスというユダヤ人がいた、そのことは歴史的には分かったとしても、そのイエスという男と、私自身に何のかかわりがあるか、それぞれの道を行ったらよかろう、それがかつての私たち自身の声でもありました。
 この汚れた霊を追いだしてもらった人も、かつてはそう思っていたのです。しかし主イエスが出会ってくださり、汚れた霊を追いだしてもらった。そうなって初めて、この男の本来の自分の姿になったのです。そのようにして「あなたはあなた、私は私」ではない新しい関係が始まりました。この男がその後、何を言ったのかは聖書には記されていません。しかし28節にこうあります。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(28節)。誰が主イエスの評判を伝えたのでしょうか。この出来事を目の当たりにしていた人たちであり、そして何よりもこの男自身だったでしょう。そのようにして主イエス・キリストとのかかわりが始まっていくのです。
 主イエスは決して、「構わないでくれ」、そのように言われて退散なさる方ではありません。むしろ積極的に私たちにかかわりを持ってくださるお方です。きちんと主イエスとかかわることができるように、正気な私たちを取り戻してくださるお方なのです。

5.信仰は驚くことから始まる

 今日の聖書箇所に出てくる人たちは、みんな驚いた人たちです。22節にこうあります。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(22節)。27節にもこうあります。「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」」(27節)。
 驚くという言葉が二か所出てきます。しかしそれぞれが違う言葉です。最初の22節の驚くは、普通に驚くのではない、びっくり仰天するような驚きです。27節の驚きも、非常に大きな驚きですが、畏れを伴う驚きです。畏れは畏れでも、恐怖の恐れではなく、本当にここに神がおられる、神が生きて働いておられる、その意味での畏れ、畏怖の驚きです。
 ある人がこのように言いました。「信仰とは、驚きである」。あるいは「信仰とは、驚くことから始まる」。その通りだと思います。今まで誰も持っていなかった権威を、主イエスが持っておられるのですから。そのお方に触れて、驚き、畏れ、そして信じるのが自然の成り行きです。
 ペンテコステの日、使徒言行録の第2章に記されていることは、三千人もの人たちが洗礼を受けたということです。この数字も驚きですが、この人たちは、何よりも主イエスの権威に驚いた人たちです。その権威に驚き、信仰を持ち、教会が生まれたのです。
 中渋谷教会の歩みを振り返ってもそうです。多くの者たちが主イエスの権威の前に驚きました。人間の力では決して解決することができない問題を解決することができる。分裂した自分ではなく本当の自分を取り戻すことができる。病や罪や死に打ち勝つ力を持っておられる。その権威に多くの者たちが驚き、主イエスを信じて歩んだのです。
 今日はこの後、教会墓地に赴きます。そこで墓前礼拝、埋骨式を行います。三名の方々の埋骨が予定されています。埋骨にあたりまして、それぞれの方がかつて書かれた文章を読みました。私は4月から中渋谷教会の牧師として赴任しましたから、直接はお会いしたことのない方々です。しかし文書を通して出会うことができました。いろいろな思いを持ちながら歩まれたことがよく分かりました。場合によって、自分の中にある様々な声と正直に闘いながら歩まれたこともよく分かりました。しかしそれぞれの歩みの中で、主イエスと出会い、信仰の歩みを送られてきた方々だということがよく分かったのです。主イエスならば、病や罪や、死の力さえも屈服させることができる権威をお持ちである。私たちの信仰の歩みは、主イエスがなさることに驚きながら、従っていく歩みなのです。
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