「小さな祈りが大きく広がる」

本城 仰太

       マルコによる福音書1章35節〜39節
      イザヤ書 61章1節
61:1 主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。

1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

1.小さなところから始まる神の御業

 以前、聖書を読んでいて、ふと気づいたことがあります。それは、神の御業、神がなさることは、いつも小さなところから始まるということです。全能の神ならば、いきなり大きなことから始めることもお出来になります。しかし神のなさり方はそうではありません。小さなところから始められ、やがて大きくなっていく、そのようなやり方を取られる、それが神のなさり方です。
 例えば、旧約聖書の創世記にアブラハムという一人の人物が出てきます。アブラハムの話は、創世記の第12章からですが、第11章までに何が書かれているか。神が天地万物を、私たち人間を造られました。しかし神に造られた人間が、神に背き、罪を犯してしまいます。これも人間の罪と深くかかわる話ですが、ノアの洪水の話があります。バベルの塔の話があります。人間が罪により、話す言葉も住む地域もバラバラになってしまいます。私たちも人と人との心が通じ合わないことを多々感じることがありますが、聖書はその根源がここにあると見ています。それが第11章までの話です。
 そのバラバラになってしまった人間を、神がどうなさるのか。それが第12章以降の話です。神がなさったのは、まずアブラハムという一人の人を選ばれるところから始められました。アブラハムがやがて大きな家族になり、民族になり、イスラエルの国家になっていきます。そのイスラエルの中からイエス・キリストがお生まれになり、世界中に教会が生まれていった。神がそのようにして世界全体に救いをもたらしてくださいました。壮大なスケールの救いの物語ですが、その最初は、たった一人の人を選ぶところから神は始められるのです。
 クリスマスのイエス・キリストの誕生の仕方もまた、小さなところから始められた神の御業です。世界の救い主が来られるにあたり、全世界の人たちにその知らせが告げられ、みんなが注目している中、主イエスがお生まれになったわけではありません。クリスマスの出来事は、ほとんどの人が知らされていない出来事でした。誰も気づかないようなところで、世界の救い主が静かにお生まれになった。やがて主イエスが人々の前に姿を現し、十字架にお架かりになるわけですが、最初のクリスマスは小さな出来事として始まっていきました。
 教会の歩みもそうです。二千年前、ペンテコステの日に、使徒たちに聖霊が注がれて、そこに教会が誕生しました。エルサレムの神殿で、神の言葉が語られ、それが聴かれ、信じて洗礼を受ける者が起こされ、教会の歩みが始まりました。いきなり世界各地に教会が突如と現れたわけではありません。その後、時間をかけて、世界各地に教会が生み出されていきました。この中渋谷教会ができたのも、最初の教会が誕生してから一千九百年も経ってから、ということになります。
 神の御業はいつも小さなところから始まります。そしてゆっくり時間をかけて、その御業が広げられていきます。ある人がこのように言いました。「私たち人間には時間はないが、神さまには時間がたくさんある」。小さな私たち人間であります。考えること小さく、見るところも実に狭い私たちです。しかし私たちの神がこういうお方ですから、私たちは大きく思いを広げ、視野を広げていくことができます。
 本日、私たちに与えられた聖書箇所も、私たち人間の小ささを超えて、福音宣教の広がりを覚えることができる内容になっています。今日の聖書箇所には「宣教」という言葉が二度出てきます。この言葉は、もうすでにマルコによる福音書に出てきている言葉です。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(1・4)。「彼〔洗礼者ヨハネ〕はこう宣べ伝えた。」(1・7)。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(1・14〜15)。いずれも「宣べ伝え」という言葉になっていますが、今日の聖書箇所の「宣教」と同じ言葉です。洗礼者ヨハネの言葉が、そして何よりも主イエスの言葉が、どんどん広がっていったことがよく分かります。福音は一つのところにとどまらず、広がっていく性質を持っているのです。

2.主イエスの祈り

 本日の聖書箇所の状況が、こう記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)。「人里離れた所」というのは「荒れ野」のことです。主イエスがわざわざそこへ赴いて行かれました。
 先週の聖書箇所は、この一つ前の箇所になりますが、主イエスが実に忙しく働いておられたことが記されています。多くの人が癒しを求めて主イエスのところにやって来て、主イエスが大勢の人たちの対応をされたからです。疲れを覚えておられたと思います。しかしそれでも一人で静かな時を持たれました。祈りの時です。
 マルコによる福音書の中に、主イエスの祈りのお姿が三度、記されています。本日の聖書箇所が一回目です。二回目は、第6章のところに、五千人以上の人たちをたった五つのパンと二匹の魚で満腹にするという奇跡が記されていますが、その直後、弟子たちは舟に乗せて、ご自分は一人で山で祈られたことが記されています。三回目は、第14章に書かれているゲツセマネの園での祈りです。十字架にお架かりになる前夜の祈りです。弟子たちも連れていかれましたが、少し離れた所で、やはり一人で祈られました。もちろん主イエスは絶えず祈られていましたが、マルコによる福音書では特に主イエスのお一人での祈りの姿を描いていくのです。
 他の福音書も、もちろん主イエスの祈りの姿を大事にしています。特にルカによる福音書はそうです。マルコが記さなかった以外にも、主イエスの祈りの姿を記しています。例えば、主イエスが十二人の弟子たちを選ぶ時のことです。ルカによる福音書は主イエスの徹夜の祈りの姿を書いています。マルコによる福音書には「山に登って」とあります。マルコでははっきりとは書かれていませんが、山の上では主イエスの祈りがあったのです。お一人での祈りです。弟子たちはそのように主イエスの祈りに支えられて、弟子になっていきました。
 私が伝道者になる志が与えられた時のことです。私の思いを知ったある牧師が、後日、こう言われました。「私はあなたが伝道者になるように、ずっと前からあなたの具体的な名前を挙げて祈っていた」。私にとって大変な驚きでした。自分が実は祈られていたということを知った驚きです。その牧師によって祈られていた。ほどなくして、私が主イエスからも祈られていたことを知りました。
 これは何も私だけの話ではありません。例えば教会で長老に選ばれる、その背後に主イエスの祈りがあります。長老だけではありません。信じて洗礼を受けてキリスト者になる、その背後にも主イエスの祈りがあります。
 今日の聖書箇所では、最初はお一人だけだったかもしれませんが、主イエスの祈りがまずあって、その祈りが大きく広げられていきます。先週の聖書箇所からの話で言えば、カファルナウムの街に主イエスは赴かれました。その街で多くの人たちを癒しました。今、主イエスは荒れ野において一人で祈られています。主イエスはどんなことを祈られたのでしょうか。その内容までははっきり書かれていません。しかしおそらく、ご自分の使命を覚えられて、ここだけにとどまるべきではない、動かなくてはならない、そういうことを聴き取った祈りだったのでしょう。カファルナウムの街だけでなく、ガリラヤ中の人たちに出会い、その人たちを癒し、宣教をされます。主イエスのこの時のたった一人での祈りがあり、この祈りが広がっていったのです。

3.願い通りにならなくても

 しかし立ち止まって考えなければならないことがあります。36節から37節に、こうあります。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。」(36〜37節)。
 「みんなが捜しています」。みんなとは、カファルナウムの街のみんなのことでしょう。カファルナウムの街の人たちはどう思っていたでしょうか。昨夜の様々な癒しの出来事がありました。昨夜、来られなかった人もいたでしょう。今日のこの日も、癒しを期待していた人たちがいたと思います。いや、今日だけではありません。ずっとこの街にいて欲しいと思っていたことでしょう。このすばらしい人にもっと自分たちの街にいて欲しい、独占したいという心があったと思います。
 36節に「シモンとその仲間は」とありますが、主イエスの弟子たちにとっても、カファルナウムの街の人たちと思いは一緒だったと思います。自分の師匠である主イエスの人気に気をよくしていたかもしれませんし、何よりも弟子たちにとってここは顔なじみの多い自分たちの故郷です。主イエスの弟子であることの誇り高いような思いもあったでしょう。
 しかし、カファルナウムの街の人たちの願いも、主イエスの弟子たちの願いも、聞き入れられませんでした。私たちもよくこのことを考えておかなければなりません。私たちもいろいろなことを願います。もっとこの場に主イエスにいて欲しいと願う。この場にいてその力を振るってもらいたいと思う。そう思いながらも、主イエスが通り過ぎてしまう。遠くに行かれてしまう。そういうことがないでしょうか。祈りをしても聞き入れられない。そのことをどう受けとめればよいでしょうか。

4.祈りを広げよう

 その時こそ、私たちの思いを広げる必要があります。主イエスがどのようなお方であり、何をもたらしてくださるのか。その広がりの中で、広い視野を持つことができればと願います。
 マルコによる福音書の注解書を読みますと、この福音書には、場所的な広がりがある、というようなことが書かれています。最初はカファルナウムです。ガリラヤ湖畔にある一つの街です。しかし今日の聖書箇所を皮切りに、ガリラヤ湖周辺に広がっていき、遂にはエルサレムを含めた全土に広がっていきます。そして主イエスは最終的にはエルサレムに向かわれる。目的地のエルサレムを見据えながら、場所が広がっていくのです。
 エルサレムで主イエスは十字架にお架かりになります。マルコによる福音書のクライマックスですが、人間の罪を背負い、十字架にお架かりになるのです。墓に葬られます。三日目に復活され、墓が空っぽだった。そこでマルコによる福音書は閉じられています。
 そういう物語としての広がりがある中、主イエスが行く先々で、様々な人たちとの出会いがあります。カファルナウムの街の人たちとの出会いがあります。ガリラヤ周辺の街の人たちとの出会いがあります。ある意味では、これらの人たちの願いを退けてまで、先を目指して進まれます。なぜ人々の願いを聞かずに、次の街へ行こうとされるのか。なぜ最終的なエルサレムへ行こうとされるのか。それは、主イエスが単なる癒しだけを与える救い主ではないからです。私たちの罪を赦し、もっと根本から私たちを変えていく救い主だからです。主イエスがどのようなお方なのか、それをしっかり見据えた時、私たちの思いも視野も祈りも広げられていきます。主イエスは私たちの願い以上のことを与えてくださる救い主なのです。

5.私たちも主イエスと共に

 38節に主イエスのこのようなお言葉があります。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)。最初の文は、少し補って言うならば、「近くのほかの町や村へ『私たちは』行こう」です。かつての口語訳聖書ではこうなっていました。「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう」。「みんな」でも良いのですが、「私たち」です。お一人で祈られた主イエスでしたが、弟子たちを伴って、一緒に連れて行ってくださるのです。主イエスの祈りに私たちも加わることができるのです。
 そのようにして、主イエスと共に歩み、神の御業をたくさん弟子たちは見させていただきました。それゆえに、マルコによる福音書などの福音書を書くことができたのです。弟子たちは単に主イエスのなさったことを見ただけかもしれません。しかし見させていただいたことによって、このような福音書が生まれていきました。「私たち」の歩みだったからです。
 神の御業はいつも小さなところから始まります。今日の聖書箇所の話もまさにそうです。主イエスお一人の祈りが、広がりを持っています。カファルナウムの街の人たちがそうだったように、時に私たちの願い通りでないことが起こるかもしれません。しかし、私たちの思いを超えて、いや、私たちの思い以上に、さらに神の御業は広がっていきます。その御業を見るように、主イエスは弟子たちを招いてくださいました。そして、私たちをも招いていてくださるのです。

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