「よろしい。清くなれ」
13:1 主はモーセとアロンに仰せになった。 13:2 もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。 13:3 祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。 13:4 しかし、皮膚の疱疹が白くて症状が皮下組織に深く及んではおらず、患部の毛も白くなっていなければ、祭司は患者を一週間隔離する。 13:5 七日目に祭司が調べて、患部が以前のままで、広がっていなければ、もう一週間隔離する。 13:6 七日目に再び調べ、症状が治まっていて、広がっていなければ、祭司はその人に「あなたは清い」と言い渡す。それは発疹にすぎない。その人は衣服を水洗いし、清くなる。 13:7 しかし、祭司に見てもらい、清いと言い渡された後に、その発疹が皮膚に広がったならば、その人はもう一度祭司のところに行く。 13:8 祭司が調べて、確かに発疹が皮膚に広がっているならば、その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。それは重い皮膚病である。 1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 1.神は心を持っておられる 神は人格的なお方です。私たちが信じている神とはどのようなお方か。いろいろな答え方をすることができるかもしれませんが、その答えの一つが、神は人格的なお方であるということです。 人格的と聞くと、どのように思われるでしょうか。英語ではperson(パーソン)と言います。英語の辞書を引くと、personは人間とか、個人とか、そういう意味と並んで必ず人格という意味が載せられています。personという言葉と似ていますが、personality(パーソナリティ)という言葉もあります。個性とか性格というような意味です。 神が人格的であるといった場合に、それは神が心をお持ちであるということになります。人格的とは、神が心をお持ちであり、感情をお持ちであるということです。何らかの宇宙的な法則が神でもなければ、自動販売機のような機械のような存在というわけでもありません。 そのことは聖書を読めばすぐに分かります。神は心を持っておられる。感情を持っておられる。もちろん、人間の心とそっくりそのまま同じというわけではありません。私たち人間は非常に感情に振り回されやすいものです。怒りを抑えることができなかったり、悲しい出来事を見たのに何とも思わない、憐れみの心を抱かないような、そういう心と同じというわけではありません。神は何よりもその心に愛のあるお方です。聖書でも「神は愛なり」と言っている通りで、神はそのような人格的なお方なのです。 それゆえに、神の独り子である主イエスもまた、人格的なお方であり、心をお持ちのお方であり、感情をお持ちのお方でもあります。主イエスのお姿が描かれている福音書の中で、主イエスの感情が表現されている箇所がいくつかあります。それほどたくさんあるというわけではないかもしれません。主イエスが笑ったとか、ほほ笑んだとか、あまりそういう記述はありません。むしろ、主イエスが憐れんでくださったとか、何かに対して非常に憤られたとか、涙を流されたとか、そういう表現がいくつかの箇所に見られます。本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、主イエスの非常に強い感情が表されています。 2.重い皮膚病 今日の聖書箇所には、重い皮膚病を患っていた人が出てきます。私たちが用いている新共同訳聖書では、「重い皮膚病」と訳されていますが、同じ新共同訳聖書でも「重い皮膚病」ではなく「らい病」と訳されている聖書をお持ちの方もあるかもしれません。これは、古い時代に出されたもので、「らい病」が「重い皮膚病」に訳しなおされたのです。社会的な問題にもなった「らい病」であります。聖書の記述をよく読みますと、そこに記されているこの皮膚病とらい病は、まったくイコールではないからです。それゆえに、新共同訳聖書では「重い皮膚病」という翻訳を採用しました。新改訳と呼ばれる翻訳では「ツァラアト」となっています。「ツァラアト」とは、ヘブライ語の言葉そのままの発音です。日本語に翻訳すると、どうしても違う意味合いになってしまうことから、ある意味では翻訳不可能だから、元の音の響きそのままにした、それも一つの理解の仕方だと思います。 いずれにいたしましても、重い皮膚病にかかってしまった人は、このように生活しなければなりませんでした。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ記13・45〜46)。 主イエスがこの時、出会ってくださったこの人もそうでした。普段は共同体の中で一緒に生活することができませんでした。しかし主イエスがやって来た時に、主イエスのところに赴いて、そして願ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)。 そうすると主イエスはどうされたか。41節にこうあります。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると…」(41節)。主イエスがこの人に対して手を伸ばして触れられた、ということがはっきりと書かれています。他の周りの者は誰も触れない中、主イエスは触れられた。少なくとも主イエスは、周りの人たちとの考えとは違いました。周りの人たちとは同じように、この重い皮膚病の人を見ておられなかった。触れられて、「よろしい。清くなれ」(41節)と言われたのです。 3.憐れみか、憤りか この重い皮膚病の人に対する主イエスの感情が、ここに表されています。「深く憐れんで」という感情がここに記されています。 聖書という書物は、非常に深く研究されている書物です。これほど研究されている書物は他にはおそらくないでしょう。聖書にはたくさんの写本があります。二千年前に書かれたオリジナルのものは、もはや残されていません。たくさんの写本があります。どれもが一言一句、同じかというとそうではなく、写本の間で食い違いもたくさんあります。それらを比べて、どれが元々のオリジナルな言葉か、深い研究が長年なされてきたのです。それは今もなお続けられています。 今日の聖書箇所のことに関して言いますと、この「深く憐れんで」という言葉、実は写本によって食い違いがあります。「深く憐れんで」という言葉になっている写本ももちろん多いわけですが、少なからず多くの写本が「憤られて」という言葉になっているのです。聖書学者によっては、この「憤られて」という言葉がオリジナルなのではないか、そういう主張も根強くあるのです。 「深く憐れんで」と「憤られて」、まるで正反対の感情のように思えます。しかしどちらにしても、主イエスの深い感情が表されています。「憤られて」という場合のことを考えますと、主イエスはいったい何に憤られたのでしょうか。重い皮膚病の人に対して憤られたのでしょうか。明らかにそれは違います。もしこの人に憤られたのでしたら、「よろしい」などとは言いませんし、癒すようなこともなさらないでしょう。そうだとしたら、主イエスは何に憤られたのでしょうか。それは、この人を蝕んでいる病に対してです。別の聖書箇所に、主イエスが憤っておられる様子が書かれているところがありますが、主イエスは人間が死ななくてはならい、その死や人間の罪に対して憤っておられる、そういう箇所があるのです。今日の聖書箇所でも、同じように考えることができるでしょう。 そして、このような「憤り」があるからこそ、罪や死や病に取りつかれている人間に対する「憐れみ」が生じることにもなります。「深く憐れんで」という言葉、この言葉は、人間の「内臓」を意味する言葉です。日本語でも「はらわた痛い」あるいは「断腸の思い」という言葉がありますが、それに似ているのかもしれません。相手を憐れんで心が動かされるあまり、自らが痛くなる。自らが痛くなり、相手に何かをせざるを得ない。そういう意味の言葉です。つまり主イエスはそれほど強い感情を、この重い皮膚病の人に対して示してくださった。主イエスとはそのようなお方なのです。 神は人格的なお方である、そういう話をしてきました。神はそういう感情を私たちに抱いておられるのです。この世界に、人間の社会に、様々なことが起こります。なぜこのような悲劇が起こるのか、そう思わざるを得ない出来事もたくさんあります。私たち一人一人の現実にも起こってきます。神はその時、何をしておられるのでしょうか。どういう思いでこの世界の現実を見ておられるのでしょうか。今日の聖書箇所から分かるのは、神は私たち人間を憐れんでおられるということです。そして罪や死や病に対しては憤っておられるということです。 4.神のご意志 重い皮膚病の人は、「御心ならば」と言いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)。正確に翻訳いたしますと、「あなたのご意志でしたら」となります。これがこの人の言った言葉なのです。 マルコによる福音書には、たくさんの癒された人たちが出てきます。今日の聖書箇所は第1章の終わりのところですが、今日の箇所に至るまで、たくさんの人たちが癒されてきました。しかしこれらの癒された人たちが、癒していただく際に主イエスに対して何と言ったか、その言葉は記されていません。しかし今日のこの人は、何と言って癒していただいたのか、その言葉が記されています。それだけ大事な言葉ということになります。 この言葉に対して、主イエスは何と言われたか。「よろしい。清くなれ」(41節)。これも正確に翻訳いたしますと、「わたしの意志だ。あなたは清くなれ」となります。つまり、「あなたのご意志でしたら癒してください」と言ったのに対して、「わたしの意志だ」と主イエスはお答えになられたのです。その意志の中に、主イエスの深い感情が込められていたことは、言うまでもないことです。 私たちにとっても、「御心ならば」というのは大事な言葉です。私たちは祈りをします。何らかの願いを祈ります。その際に、私たちは自分の願いを押し通そうとするかもしれません。他者に対しても自分の考えや願いを押し通そうとしてしまう私たちですが、神に対しても押し通そうとしてしまいます。御心を尋ねないのです。その時に何が起こっているか。私たちの祈りが独り言になってしまうのです。 しかし神は人格的なお方です。心をお持ちのお方です。心と心を通い合わせなければなりませんし、心と心を通い合わせることができるのです。どうしたら心と心を通い合わせることができるか。他者と心を通い合わせる際にもそうですが、相手の心を聞いていくことです。御心を問うことです。あなたのご意志は、と問うていく。あなたのご意志ならば、あなたの御心ならば、そのように問うていくことは、とても大事なことです。 5.誓約においても御心を問う 昨日、教会で結婚式が行われました。結婚式は礼拝です。神を拝む礼拝です。讃美を歌い、祈りを献げ、聖書が読まれ、御言葉を聴く、そういう点は普段の礼拝と同じです。しかし普段の礼拝とは違う要素もあります。いくつかありますが、何よりも大事なのが、誓約です。結婚する二人に対して、夫として、妻としての誓約が求められます。神の御前でなされる誓約です。 来週の午後、就任式があります。中渋谷教会本城仰太牧師就任式です。この就任式もまた礼拝です。同じように、普段とは違う要素があります。それは誓約がなされることです。誰が誓約するのでしょうか。私と教会員の皆様です。私は、中渋谷教会の牧師として召されたことを誓約する。教会員の皆さまは、この牧師を自分たちの牧師として迎えることを誓約する。双方が神の御前に立って誓約をする。その意味では、結婚する二人が神の御前で誓約する結婚式と似ているところがあるかもしれません。 夫婦であれ、牧師であれ、教会員であれ、皆が不確かな人間です。主イエスも言われているように、聖書では、一方では誓うな、と言われます。あなたがたは軽々しく誓ってはならない、そう言われています。それゆえに、私たちの人生において、神の御前で誓約する場面というのは、そう多いわけではありません。信じて洗礼を受ける際に、結婚をする際に、就任する際に、長老などに任職される際に、私たちは神の御前で誓約します。 不確かな人間による誓約だからこそ、神に助けてください、そのように願いながらの誓約です。あなたのご意志によって、誓約したことを果たすことができるように助けていただく、その思いが必要です。この結婚相手が、この牧師が、この教会員が、神であるあなたによって、あなたのご意志として与えられた。そのことを信じなければ、誓約をすることはできません。神の御心を信じ、神の御前で、誓約をするのです。 6.主イエスの向かう先 この重い皮膚病の人が癒された直後の話が、今日の聖書箇所の後半のところになります。主イエスがこの人に対して、何も話すなということ、祭司のところに行けということを言われます。なぜ祭司のところに行けと言われたか。それは、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のレビ記に書かれていた通りです。重い皮膚病が治った証明を、祭司にしてもらうためです。そのようにして、共同体に復帰することができたのです。 しかし、主イエスはどうして何も話すな、と言われたのでしょうか。それは、45節の記述から明らかだと思います。「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」(45節)。主イエスのもとに人が殺到します。この人たちは何を主イエスに求めたのでしょうか。単なる癒しを求め、本当の救いを求めたのではないことは明らかです。 主イエスの本当の救い主としてのお姿は、この福音書を読んでいけば分かります。罪や死や病に憤られ、それも深く病んでいる私たちを深く憐れんでくださるお姿です。今日の聖書箇所もまさにそうです。それゆえに、主イエスは一つの街に留まることはなさらない。なおも先へ進まれます。カファルナウムという一つの街から、ガリラヤ湖周辺に活動の範囲を広げられます。さらに広がり、エルサレムへ赴かれます。エルサレムで主イエスは十字架にお架かりになります。人間の罪や死や病をすべて背負い、十字架にお架かりになるのです。今日の聖書箇所の場所だけに留まることはなさらず、本当の救いを成し遂げるために、十字架へと進んでいかれます。それが主イエスのご意志なのです。 今日の聖書箇所に出てくる重い皮膚病を患っている人は、主イエスの御心によって癒してもらいました。しかし主イエスの憐れみが注がれているのは、この人だけではありません。私たち一人一人を含めて、すべての者たちを憐れんでくださるのです。主イエスのご意志の中に、私たちが入れられているのです。 |