「罪を赦す権威」

本城 仰太

       マルコによる福音書2章1節〜12節
       列王記上 17章17節〜24節
17:17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。
17:20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」
17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
17:23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。
17:24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

1.病の癒しと罪の赦し

 主イエスが人々の前に姿を現し、公の活動をすでに始められています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)、その言葉と共に、主イエスの歩みが始まりました。主イエスはどういう活動をなさったでしょうか。第1章に書かれていることは、癒しです。多くの病人を癒されました。
 主イエスは何のためにそのような癒しをなさったのでしょうか。目的は単に病を癒すことだけ、というわけではないでしょう。もっと深い目的があったはずです。本日、私たちに与えられた聖書箇所では、何のために主イエスが癒しをされたのか、その意味が明らかにされます。
 今日から第2章です。主イエスの癒しと並んで、罪の赦しのことが問題になってきます。5節のところで、主イエスはこう言われます。「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)。これは意表を突く言葉です。中風という体が麻痺してしまい、自分では動けない病を抱えている人です。その人に対して、「あなたの病は癒される」ではなく、「あなたの罪は赦される」と主イエスは言われたのです。
 もちろん、この中風の病を抱えた人が、特別に罪深かったわけではありません。特別に何らかの罪を抱えていたから、その報いとして中風の病を患っていたわけではありません。主イエスご自身も明確にそのような因果は否定されています。そうではなく、むしろ、誰もが病を抱えるように、人間の誰もが罪を抱えている。病と罪にはその関係があります。
 中風の人の癒しをめぐって、そこに居合わせた律法学者たちと論争になります。単に癒されただけでなく、癒しと罪の赦しをめぐって論争になり、それが今日の聖書箇所の後半に記されています。病を癒す力があることが、罪を赦す権威を持っていることへとつながっていくのです。

2.中風の人を運ぶ四人

 今日の聖書箇所の話の舞台は、カファルナウムという町です。第1章21節以下の話もまた、カファルナウムでの話です。弟子であったペトロの家もまた、このカファルナウムにあました。その後、主イエスはガリラヤ湖周辺へと活動の範囲を広げていかれます。そして今日の話は、再びカファルナウムに戻ってこられた時の話です。
 今日の聖書箇所の2節のところに、「イエスが御言葉を語っておられると」とあります。また、6節のところに、「律法学者が数人座っていて」とあります。どうも今日の聖書箇所では、癒しを求めてやって来た人たちだけでなく、少なからず、主イエスの話を聴きたいと思ってやって来た人たちもいたようです。
 話を聴いていた人たちの中には、座っていた人たちもいたのです。座っているわけですから動きません。癒しを求める人たちだけならば、順番を待っていれば、自分の番が回ってきます。病院で診察を待つように、順番が来れば「次の方」と呼ばれるわけです。しかしこの日は、人々の動きが少なかった。座り込んでいたのです。
 そこへ中風の人を運ぶ四人がやって来ます。この四人は、中風の人の家族だったのか、友人だったのかは分かりません。この四人がこの家の状況に対して、どういう行動をとったのか。「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(4節)。
 当時の家は、しばしば屋根を補修する必要があったようです。たいてい、一年に一回、雨期の前の秋頃に補修をするそうです。補修をするために、階段かはしごのようなものが掛けられていました。暑い夏の夕涼みにも利用されていたそうです。しかしいくらそういう屋根に登りやすく、そんなに頑丈な屋根ではなかったとしても、それは非常識な行動でありました。

3.何が何でも主イエスのところへ

 そのような行動に対して、主イエスはどうなさったのでしょうか。5節にこうあります。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」(5節)。この言葉に表れている通り、主イエスは非常識とも思えるような行動を、高く評価なさったのです。
 「その人たちの信仰を見て」とあります。その信仰とは、どのような信仰でしょうか。「その人たち」は、主イエスめがけて突進していきました。何が何でも主イエスのところへ病人を連れていくという思いがありました。主イエスなら、この病人を何とかしてくださると固く信じていたからです。どんなことにも先駆けて、主イエスを目指したのです。
 以前、何人かの方と一緒に聖書を読んでいて、ある方がこう言われました。「どうしてこの人たちは順番待ちをしなかったのだろうか」、と。なるほど、とも思わされました。皆様ならどう思われるでしょうか。この世のルールや常識からすれば、順番に並ぶべきかもしれません。他にも癒しを求め、順番を待っていた人たちもいたでしょう。しかしこの人たちは、この世のルールや常識にはとらわれていません。悪く言えば、ルールや常識破りです。しかしよく言えば、それだけ主イエスに一途だとも言えます。
 この人たちの行動、信仰を考える際に、案外大事なことと言えるかもしれません。主イエスもこの人たちのうちに、信仰を見出してくださいました。信仰とは、こういうものだからです。私たちはどれを優先するでしょうか。主イエスのところに一途に向かっていくことでしょうか。それとも、この世のルールや常識でしょうか。他にも、主イエスのところに一途に向かうよりも、優先してしまうようないろいろなことが出てきてしまうかもしれません。
 主イエスはご自分のところに向かってきたこの四人の信仰を喜んでくださいました。何が何でも主イエスのところへ行く、そう考えた四人です。主イエスならばどうにかしてくださる、それこそが信仰だと主イエスは言われたのです。

4.どちらが易しい?

 「あなたの罪は赦される」
(5節)、この言葉に対して、律法学者たちが心の中でつぶやきました。「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」(6〜7節)。律法学者たちの見解は、言葉としてはまったく正しい指摘です。この律法学者の心のつぶやきをめぐって、今日の聖書箇所の後半部分が始まっていくわけですが、主イエスが病を癒し、罪を赦す権威をお持ちであるならば、主イエスが神であるという結果に行きつくわけです。
 律法学者のこのつぶやきに対して、主イエスはこう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(8〜10節)。主イエスが一つの問いを出されています。罪を赦すことと病を癒すこと、どちらが易しいでしょうか。どちらも、「言うは易く行うは難し」です。口先だけで言うならば簡単です。しかし実際に行うことになるとどうでしょうか。
 主イエスはどちらが易しいか、どちらが難しいか、その答えは言われていません。しかし、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10節)と言われ、癒しをしてくださいました。その言葉から考えますと、病の癒しと罪の赦しが結びついていることが分かります。つまり、主イエスが病を癒す力があるならば、主イエスが罪を赦す権威をお持ちであるということにつながってくるのです。
 罪の赦しというのは、難しいものです。何が難しいのか。本当に赦されたか、あるいは赦されていないか、曖昧になることも多いですし、なかなかそれが目には見えないからです。しかし主イエスの癒しという目に見えるものがあって、罪の赦しが本当であることが証明される。いわば主イエスは証拠を示してくださっていることになります。その証拠を目の当たりにして、後は主イエスを信じるか信じないかです。

5.預言者エリヤの言葉が本物だということが分かる

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、列王記上に記されている預言者エリヤの話です。エリヤは最も偉大な預言者だと言われています。今日の聖書箇所の前後には、エリヤの多くの働きが記されています。
 このとき、エリヤはかかわりのあった母子の家庭に行きました。ところがその息子が死んでしまったのです。しかしエリヤを通してなされた神の奇跡によって、息子は生き返りました。その奇跡によって、エリヤの口から語られる言葉が、本当に生きて働く神の言葉であることが、この母親にとって分かった。「女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」」(列王記上17・24)、そのように書かれている通りです。
 主イエスもまた、癒しの奇跡を行うことによって、主イエスの力が本物であった。そのことが示されているのです。その教えにも権威があり、また何よりも罪の赦しの宣言が明確になります。本当に罪を赦すことができる、その権威は主イエスにだけしかないのです。

6.罪の赦しを与える救い主

 主イエス・キリストは、罪の赦しを与える救い主です。罪を赦すために、何らかの代価が支払われます。それは当然です。償いがなされなければなりません。ただでは赦されないのです。安くもありませんし、無償でもありません。
 それではどんな代価が支払われたのか。同じマルコによる福音書に、主イエスのこのような言葉があります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・45)。十字架にお架かりになる直前に、主イエスが言われた言葉です。「人の子」とは主イエスご自身を指している言葉です。主イエスの命が身代金として、代価として、償いとして支払われる。それが十字架の出来事です。
 人の罪を赦すというのは、大変なことです。病の癒しと罪の赦しと、どちらが易しいかと問われた主イエスです。私たちはもちろん病も癒せませんが、罪を赦すということをなかなかすることができません。「あの人のことを赦せない」と口にする私たちです。あるいは、「自分は赦されるはずがない」とも口にする私たちです。誰もが心当たりのある言葉です。相手からふさわしい代価を支払ってもらっていませんし、自分もまたそれなりの代価など支払えない、そう思う私たちです。自分が犯した罪、犯された罪に対する代価が重すぎるのです。
 それはその通りです。聖書の言う罪の赦しも、簡単な代価でなされるとは言わないのです。代価は重いのです。ものすごく重いのです。どのくらい重いのか。それは神であるイエス・キリストの命の重さです。それが代価です。その代価が支払われた。十字架の出来事によって、私たちの罪が本当に赦されたということが分かるのです。

7.教会の姿が見える

 ある人が、今日の聖書箇所を読んで、このように言いました。「この物語には、教会の姿が描かれている」、と。キリストの教会は、この時点ではまだ生まれていないと言わなければならないかもしれません。しかし教会の姿が確かにここに見えてきます。教会の原形と言ってもよいかもしれません。主イエスのところに向かった五人の人がいます。四人が一人を運んでいる。その姿が教会の姿です。
 四人は中風の人の重みをそれなりに手に感じながら、運んでいたことでしょう。その心には、この人を何とかしたいという思いがありました。愛があったのです。そして主イエスというお方ならば、この人を何とかしてくださるに違いない、その信仰がありました。
 何が何でも主イエスのところへ、その愛と信仰を、主イエスも喜ばれました。私たちも主イエスのところに人を運んだり、あるいは自分が運ばれたりします。それが教会の営みです。葬儀の際に、私はよくこう申し上げています。私たち人間の営みは、人を運んだり、人を運ばれたりする営みです。私たちは赤ん坊として生まれると、親たちによって運ばれます。成長すると、今度は人を運ぶようになります。愛する者の死に際しては、その人を運び、愛を込めて丁重に葬ります。そして最後は自分が死んで、自分が運ばれる。運んだり、運ばれたりする営みなのです。決して一人ではありません。これは葬儀に限った話ではありません。まさに教会の営みです。私たちの手で人を運び、そして私たちも運ばれるのです。
 どこへ向かって運べばよいのでしょうか。私たち教会の者たちはその目的地を知っています。救い主である主イエスのところへ、運べばよいのです。愛をもって運び、運ばれるのです。何が何でもそこを目指して運んでいく。主イエスなら必ずよいようにしてくださる。それが信仰なのです。
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