「あなたの名医キリスト」

本城 仰太

       マルコによる福音書2章13節〜17節
       エレミヤ書 17章5節〜14節
18/07/01「あなたの名医キリスト」 エレミヤ書17:5-14, マルコ2:13-17 17:5 主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
17:6 彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
17:7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
17:8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない
。 17:9 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
17:10 心を探り、そのはらわたを究めるのは
主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
17:11 しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように
不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て
ついには、神を失った者となる。
17:12 栄光の御座、いにしえよりの天
我らの聖所、
17:13 イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。
17:14 主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。

2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

1.名医キリストを紹介する

 今日の説教の説教題を、「あなたの名医キリスト」と付けました。名医というのは、優れた医者ということですが、どのような医者が優れた医者なのでしょうか。もちろんのこと、病を治してくれる医者が名医です。
 私がこのことに関して、伝道者として心に留めている言葉があります。それは植村正久という人の言葉です。日本のプロテスタント教会の最初期の頃の牧師だった人で、私たちの中渋谷教会の創設にも深くかかわった人です。101年前、植村正久が指導する日本基督教会というグループの一教会として、私たちの教会は発足しました。初代の牧師が森明です。森明牧師の指導者ともいえるのが、植村正久でしたが、この人が「手続に終る伝道」という小さな論文を書いています。その中にこうあります。一部だけを抜粋してお読みします。

 「多くは基督如何にして人を救ふや、信仰は如何にせば養はるるや等の分解的に講釈するに止まり、基督自身を紹介し、其の恵を真正面より宣伝して人の信仰を催すの気合に乏しと謂はざるべからず。専ら庸医が病人の傍らにて病理解剖の講釈のみ事とするに同じ。…即ち人を教へんとするよりも、寧ろ人を悔改に導かんと試みるものならざるべからず。」(『植村全集』第五巻、525頁)。

 昔の日本語で少々難しいところがあったかもしれません。要するに植村正久が言いたかったことは、こういうことです。当時の説教者の説教を批判している言葉です。キリストがどのように人を救うのか、信仰はいかにしたら養うことができるのか、そういう解釈ばかりの話になっていて、ちっともキリストご自身が紹介されていない。その気合が足りないと批判しています。
 「庸医」という言葉も出てきています。庸医というのは、いわゆる「やぶ医者」のことです。植村正久は説教者のことを医者に譬えているわけですが、最近の説教者は「やぶ医者」だと言うのです。どういう意味でやぶ医者なのでしょうか。それは、病気についてはよく知っている、あなたの病気はこういう病気で、ここの部分の機能がうまくいかなくて、というように、病についてはよく知っているのです。そのように、病については見事に説明するけれども、しかしちっとも治すことができない、そういう意味で「庸医」だと言うのです。
 今の私たち、特に説教者である私がそうですが、耳を傾けるべき言葉だと思います。聖書について、いくら深く説明だけをしても意味をなさない。キリストを紹介する説教になっているか。キリストの恵みを真正面から伝えているか、そのことが問われているからです。牧師自身が名医というわけではありません。そうではなくて、名医であるキリストを紹介する。説教はそのことに尽きると、植村正久は言うのです。

2.徴税人レビ

 本日の聖書箇所に、主イエスのこのようなお言葉があります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)。なぜこのような言葉が主イエスの口から出てきたのでしょうか。文脈をきちんと押さえておく必要があります。今日の聖書箇所では、レビという人物を弟子にしています。その直後、レビの家で宴会が開かれます。この宴会に文句を言う人が表れます。その文句に対して、主イエスがこのように言われたのです。
 主イエスがご自分の弟子を召される。マルコによる福音書では、これが二度目のことです。第一回目、主イエスは漁師たちを弟子にしました。第1章16〜20節の箇所です。第二回目が、今日の聖書箇所です。レビもそうでしたが、普段の仕事をしている中で、主イエスの弟子にされました。
 考えてみますと、主イエスのもとには、度々、大勢の群衆が集まってきました。病の癒しを求めて、あるいは主イエスの話を聴きに、実に多くの人たちが集まってきていたのです。今日の聖書箇所にも、そのような様子が記されています。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」(13節)。ところが、主イエスはこの群衆の中から弟子たちを選ばれませんでした。
 前回は漁師、今回は徴税人です。徴税人とは、税金を集める人のことですが、徴税人と言っても、いろいろな徴税人がいるでしょう。聖書の中にも、様々な立場の徴税人が描かれています。ルカによる福音書に、ザアカイという徴税人が出てきます。この人は「徴税人の頭」でした。トップとも言える存在です。その他にも、例えば徴税人にくっついて動いている兵士たちが出てきます。税を徴収するために、力で訴える必要があったのでしょうけれども、こういう徴税人付の兵士たちがいたのです。さらには、レビのように、収税所の窓口に座って、税の取り立ての実務をする人がいました。おそらくザアカイのような徴税人の頭に命じられて、下っ端のような働きをしていたのでしょう。
 窓口に座ることを考えてみていただきたいと思います。当時の徴税人というのは、今の税務署職員と同じわけではありません。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。敵である支配者のローマに税金を納めなければなりません。そのとりまとめを、徴税人がしなければなりません。同胞のユダヤ人たちからは、敵国に魂を売ってしまったかのような人と見られていました。しかも必要以上の税金を取り立てて、私腹を肥やしていたのです。罪人の最たる者とみられていました。そういう立場として、窓口に座らなければならなかったのです。徴税人の頭は後ろに引っ込んでいればよかったのかもしれませんが、収税所の窓口に座っているレビは、そうはいきませんでした。批判を鋭く浴びせられる立場であり、冷たい視線をいつも受けなければならない立場に置かれていたのです。
 レビは、積極的に主イエスとかかわりを持とうなどとは考えていませんでした。群衆たちは主イエスに熱狂していたわけですが、レビは群衆とは対照的です。どこか冷めたところがありました。自分は関係ないのだ、と。どうせ俺なんか、俺の手はすでに罪に染まっている、そんな思いもあったかもしれません。

3.主イエスのまなざし

 そのレビが主イエスと出会いました。「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(14節)。
 主イエスがどこかへ向かおうとされている。その通りがかりに、レビのことを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われるのです。「見かけて」という言葉、この言葉はちょっとだけ見るという意味ではなく、じっと見るというような意味です。主イエスのまなざしがレビに注がれました。
 レビは漁師たちと同じですが、立ち上がって、主イエスに従いました。ごく単純にそう書かれています。なぜレビは従うことができたのでしょうか。聖書には、人間側の事情はすべて省略して書かれています。漁師たちも網を捨ててすぐに従いました。レビも収税所に座っていて「立ち上がって」、その仕事を捨てて従ったのです。  レビが従った理由、聖書は二つのことだけしか言いません。一つは、主イエスのまなざしが注がれたこと。もう一つは、「わたしに従いなさい」という言葉、それだけです。この二つだけが、レビが弟子になった理由です。レビはこのようにして主イエスの弟子になりました。

4.レビが開いた宴会

 このようにして弟子になったレビですが、レビの名前は、この聖書箇所以降のところには出てきません。マルコによる福音書では、今日の聖書箇所だけにしか名前がないのです。第3章13節以下に、主イエスが十二人の弟子たちを選ばれる場面があります。この弟子のリストを見ても、レビの名前はありません。もっとも、このリストに出てくる「マタイ」(3・18)が、マタイによる福音書では徴税人ですので、レビなのではないかとか、あるいは「アルファイの子ヤコブ」(3・18)が、父親が同じ名前ですのでレビのことを言っているのではないかとか、いろいろな推測はなされています。
 少なくともレビの名前は、今日の聖書箇所以外に出てきませんし、目立った活躍をしているわけでもありません。ただし、今日の聖書箇所のところで、主イエスの弟子になり、自分の家に主イエスを招いたことが記されています。レビが主イエスをもてなしたのです。多くの徴税人や罪人もいました。おそらくレビが招いた人たちだったのでしょう。
 15節にこうあります。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15節)。「実に大勢の人」とは、徴税人や罪人たちのことですが、「イエスに従っていた」と書かれています。レビもそうでした。従いました。それと同じ「従う」という言葉です。レビと同じように十二弟子としてというわけではないでしょうけれども、主イエスの弟子として多くの者が従っていた。そのような宴会が開かれたのです。
 その場に居合わせたファリサイ派の律法学者たちから、このことを非難されます。ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、そもそも「分離」とか「区別」を意味する言葉でした。自分たちは律法に従った生活をしている、徴税人や罪人たちはそうではない、そのように「分離」をし、「区別」をしていたのです。それゆえに、一緒に食事をするようなことはしませんでした。しかし主イエスは一緒に食事をしている。これはいったいどういうことか。そういう文句を言ったのです。その文句に対して、主イエスが言われたのが、あの言葉です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)。

5.教会に訪ねて来る人たちに

 主イエスのこの言葉は、私たちの周りにいる多くの人にも聞いてもらいたい言葉です。教会には様々な人が訪ねてきます。先週もそうでした。それ以外にも電話をかけて来られる方々おられる。自分の生活上で困っていることがある、辛いことがある、悩みがある、そういう様々なお話を伺います。
 いろいろなお話を伺いながら、それぞれの状況が好転していくことを願いながら、しかし教会がこの世的には何もすることができない状況があります。一方では、そのことをはっきり認めながら、他方では、機会があれば、気が向いたら、日曜日の礼拝にいらっしゃいとお勧めをします。
 あなたが今すぐに欲しいと思っている答えは見つからないかもしれないけれども、長い目で見れば、あなたが最も欲している答えを手に入れることができる。そう願いながら、礼拝に来ることをお勧めしています。
 レビにとっても、名医であるキリストとの出会いは突然のことでした。いつものように収税所に座っていました。まさか今日、自分の人生を変えてしまう出会いがあるなどとは夢にも思っていませんでした。その救い主であるキリストと出会うことができるように、キリストを紹介することだけが、牧師である私がすることができることです。

6.聖餐

 今日はこの後で聖餐を祝います。主イエスが定めてくださった食卓がここに整えられています。パンと杯をいただきます。このパンは、十字架でキリストが裂いてくださった肉を表し、杯は十字架でキリストが流してくださった血を表しています。
 聖餐に与るのは洗礼を受けた方だけです。洗礼を受けるとは、自分が罪人であることを素直に認めて、主イエス・キリストの救いをいただくことです。キリストの十字架によって、私たちの罪が赦され、私たちに救いが与えられました。そのようにして、キリストが名医として私たちの罪の病を癒してくださるのです。主イエスも今日の聖書箇所にあるように、罪人と共に食事をしてくださいました。
 今日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書です。かつて預言者エレミヤが語った言葉です。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ17・9)、エレミヤはまずそのように言います。徴税人のレビだけではありません。誰もがそうなのだと言うのです。それに対して神が言われます。「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17・10)。この神の言葉に対して、エレミヤが再び言います。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」(エレミヤ17・14)。
 罪によってとらえがたく病んでいる、それほどまでに私たち人間は病んでいます。その病の癒しは、名医であるキリストにしか治せないものです。キリストが収税所のようなところに座っている私たちのところに来てくださいます。声をかけて立ち上がらせてくださいます。そして、キリストがおられる宴会の食卓に私たちを招いてくださいます。名医であるキリストから処方される聖餐のパンと杯に与りましょう。
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