「何のための安息か」
21:1 ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。 21:2 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」 21:3 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。 21:4 それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」 21:5 祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」 21:6 ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」 21:7 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。 2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」 1.根本問題 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、安息日に関する問題のことが記されています。私たちの生活にも大いにかかわってくる具体的な問題です。ユダヤ人たちにとって安息日は土曜日になりますが、私たちにとっては今日のこの日曜日です。日曜日をどのように過ごすのか、ということがかかわってきます。 今日の聖書箇所は、このように始まっています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」(二三節)。弟子たちのこの行為を、ファリサイ派の人々が咎めることになります。「ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。」(二四節)。主イエスはこの問いに対してお答えになられますが、主イエスのお答えは、どのように安息日を守ればよいか、ということではありません。いったい何のために安息日があり、何のために私たちが安息日を守るのか、もっと根本的な答えを主イエスはされています。 この安息日に限らず、何でもそうですが、表面的なことの背後には、根本的なことがあります。私たちにとっての身近な問題で考えてみたいと思います。私たちはどんな仕事をしているでしょうか。仕事といっても、社会的な仕事に限らず、家庭やその他のところでなされている私たちの日常の営みにおいて、私たちは何をしているでしょうか。その務めや仕事を、私たちはどのようにしているでしょうか。また、休日に私たちは何をしているでしょうか。どのように休んでいるでしょうか。これらは私たちの生活にかかわる具体的な問題です。しかしその奥には、もっと大事な根本問題が潜んでいます。何のために仕事をし、何のために休んでいるか、何のために生きているかという根本問題です。 例えば、私ですと、職業は何かと聞かれたならば、牧師です、と答えることになります。牧師は何をしているのか、と問われたら、日曜日に礼拝をしています、説教を語っていますと答えます。それでは平日には何をしているのか、と問われたら、説教の準備をしたり、教会の様々な務めをしたり、訪問をしたり、面会をしたり、祈りをしたり、というようなことを答えていきます。これらはかなり具体的なことです。 しかしもっと根本的に問うこともできます。そもそもあなたはなぜ牧師になったのか。何を目的に働いているか。営利目的のためではありません。社会的な地位のためでもありません。自己実現のためでもありません。社会全体のためでしょうか、そうとも言えるかもしれません。では神はどのような社会が実現することを望んでおられるか、それを実現するために神のために働いている、そのように答えることができます。何のために働き、何のために休み、何のために生きているのか、いや、神に生かされ、使命が与えられているのか、そういう根本問題を問わなければなりません。 安息日をどう過ごすのか、平日をどう過ごすのか。これは単なる表面的なことでは終わりません。私たちの生き方、在り方が問われてくる根本問題になります。今日のこの聖書箇所は、私たちにその答えを教えてくれる箇所なのです。 2.安息日にしてはならないこと? 今日の聖書箇所の内容に具体的に入っていきたいと思います。先ほどもお読みした二三節に、「弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。他人の畑の麦です。今の時代ですと、確実に咎められることですが、こんなことをしてもよいのでしょうか。 旧約聖書のレビ記にこうあります。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ二三・二二)。これは、貧しい人や寄留者のために食べ物を残しておくことが定められた人道的な規定になります。 その規定に加えて、こういう規定も定められています。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記二三・二五〜二六)。食べるのに困ったならば、人の畑のものに手を出しても構わないが、ぶどうならば籠を使ってはならず、麦ならば鎌を使ってはならない、ということが定められています。その場で手で取って、お腹を満たすことは許されている、そういう規定です。 ですから、この時の弟子たちもお腹が空いていたのでしょうけれども、弟子たちが麦を手で取って食べること自体、何ら悪いことではありませんでした。しかしなぜ咎められたのでしょうか。それは、こういう規定もあったからです。「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。」(出エジプト三五・二)。ファリサイ派の人たちは、この規定をもとに、主イエスの弟子たちを咎めたわけです。安息日に関する規定があるではないか。その規定に則るならば、麦を手で摘むことは収穫の労働にあたるではないか。「死刑に処せられる」とありますが、何もいきなり死刑だなどと言っているわけではありません。しかしこのような形で警告を発しているのです。 それに対して主イエスは、かつてのイスラエルの優れた王であるダビデの話を持ち出されます。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(二五〜二六節)。 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に、この時の話が記されています。サムエル記では「アビアタル」ではなく「アヒメレク」となっています。福音書を書いたマルコの人違いではないか、とも言われていますが、いずれにしても、かつて、そのような出来事があったということです。聖別されたパンというのは、特別なパンでした。祭司以外は食べてはいけないものでした。そういう規定があったけれども、あの有名なダビデも規定に反するようにして食べたことがあったではないか、主イエスはその話を持ち出されるのです。 もちろん、この話が主イエスの話の本質というわけではありません。ファリサイ派の人たちの表面的なこだわりを非難しているのです。大事な本質を忘れてしまっている。ファリサイ派の人たちの考えでは、安息日の規定が大事でした。その規定が人を縛っている。それではその規定は、そもそも人を縛り付けるためのものだったのか、主イエスはそのことを問われているのです。 3.「生き方改革」をなさる主イエス そして続けてこう言われます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(二七節)。主イエスはファリサイ派の人たちの考えとは正反対です。安息日が人よりも大きいものとして人を縛り付けるのではなく、人のために安息日がある、と言われているのです。人が本当の安息を得ることができるように、それが安息日の定められた目的です。 最近よく「働き方改革」という言葉を耳にします。日本の社会では、働く人数がどんどんと減っていっています。働き手を増やすためにはどうしたらよいのか、働き手が減る中でも生産性を増やすためにはどうしたらよいのか、そのようなことが論じられています。対策としては、労働制度の抜本的な改革を行って、企業を変えようとする。あるいは労働生産を拡大させる。消費を押し上げる。いろいろなことが考えられています。しかしこれらはあくまでも「働き方」の改革です。あるいは「企業」改革、「経済」改革にすぎません。 では、あなたはいったい何のために働くのか、何のために生きるのか、こういう改革がいくらなされたところで、日本政府はそんなことまでは教えてくれないわけです。もっとも日本政府がそんなことまで押し付けるように教えてくれたら困るわけですが。 ファリサイ派の人たちも、当時の社会の中にあっては、改革的なところがありました。律法の規定によって、生活を信仰的に変えようとしていた。それなりに信仰的に、真面目に、取り組んでいた人たちです。しかし表面的なことばかりになっていました。働くにあたってはこのように働きなさい、休むにあたってはこのように休みなさい、麦の穂を手で積むこと自体は構わないが、安息日はいけない、それは労働にあたるから、そんな調子だったのです。 そういう表面的なことに対し、主イエスが言われるのは、もっと根本的なことです。何のために働くのか。何のために休むのか。そして何のために生きるのか。その根本問題は、主イエスが教えてくださるのであり、聖書が示してくれることなのです。主イエスは私たちの単なる「働き方改革」「休み方改革」をなさる方ではありません。私たちの「生き方改革」をしてくださるお方です。 4.『仕事と人間』 このことに関して、一冊の本をご紹介したいと思います。アラン・リチャードソンという人が書いた『仕事と人間』という小さな本です。この人は新約聖書学者です。この本のタイトルにある通り、聖書における仕事と人間の在り方、根本的な問題を取り上げている本です。 今日のこの説教とかかわりのある内容について言えば、この本の終わりの方に、「余暇と安息」という項目があります。「余暇」というのは「レジャー」のことで、リチャードソンはこう言います。聖書では「レジャー」については何も書かれていない、と。つまり、休日にどこに遊びに行って、どういうレジャーを楽しむか、などということに関しては、聖書は一切語っていないということです。当たり前のことかもしれません。 しかし「安息」について、「安息」とは「レスト」ということですが、これについては明確な教えがあると言います。旧約聖書の安息日の規定が取り上げられます。驚くことに、古代の時代では、他の宗教とか他の文明のどこを探しても、一週間に一度、安息日にきちんと休むようにということを定めた規定はないそうです。自分も家族も、奴隷や家畜も必ず休ませるように、という規定です。大昔は、自分は休んでも、奴隷は休みなく、こき使って働かせる、そういう風潮だったわけですが、きちんと休む。単に休むわけではありません。神が何をしてくださったのか、神のおかげで今の私たちがあるということを思い起こすための安息日です。 キリスト教会もこの安息日の根本的な考え方を引き継ぎました。一か月に一度でも、三日に一度でもありません。七日に一度、礼拝を行います。そしてこの本では、このような問題提起をします。「近年、キリスト教徒は老いも若きも含めて日曜日をどのように過ごすべきか、という問題がさかんに論じられています。それは牧会的・実践的な観点からはたしかに緊急で重要な問題でもあるでしょう。しかし、安息に関する聖書の教えは、そうした議論よりもはるかに根本的レベルで、私たちのリアルな在り方に触れるものです」(九四頁)。 つまり、休日にどのようなレジャーをするかなどということを表面的に問うていても駄目で、聖書が教えてくれる安息というのは根本的な問いかけであって、「私たちのリアルな在り方」が問われるものだ、と言うのです。それを問う中で、神が何のために私たちに安息を与えてくださるのかを問うていくことになります。 5.安息の日曜日に集う ユダヤ人たちにとって安息日は土曜日でしたが、教会は日曜日に安息日の礼拝を守ってきました。新約聖書のいくつかの箇所に、日曜日の礼拝のことが記されています。使徒言行録第二〇章七〜一二節に、日曜日の礼拝の話ですが、パウロとエウティコという青年の話が記されています。 「週の初めの日」(使徒言行録二〇・七)とあります。これは日曜日のことです。ちなみに当時の日曜日は、休みの日ではありませんでした。当時はまだ特定の休みの日がなかった時代です。夜に集まり、礼拝が行われていたことが記されています。なぜ夜なのでしょうか。多くの人が日中は働いていたからです。しかし日曜日に教会の人たちは集まりました。 その時、事件が起こります。礼拝の説教がなされていた時のことです。「パウロの話が長々と続いたので」(二〇・九)と書かれています。居眠りをしてしまった。窓のところに腰かけていたので、三階から転落死してしまうのです。人々は慌てて下へ降りていきます。しかしパウロによってこのエウティコという青年は息を吹き返す。そして一一節にこうあります。「そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。」(二〇・一一)。そのまま礼拝を続けるのです。そして最後のところにこう書かれています。「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」(二〇・一二)。多くの人は労働をして体は疲れていたはずでした。夜を徹して礼拝がなされました。しかし、「慰められた」のです。 教会の最初期の頃、日曜日は休みの日ではありませんでした。それでも、教会の人たちは日曜日に礼拝をし続けます。イエス・キリストがこの日にお甦りになられたからです。人間の罪を背負って十字架で死なれたのが金曜日。金曜日、土曜日、日曜日、三日目に主イエスはお甦りになられました。罪の力、死の力を打ち破って、主イエスがお甦りになられた。そのことを覚えて、日曜日を大事にし続けてきました。 ローマ帝国の中で、教会の信仰が公認されたのは、三一三年のことです。迫害の嵐の中を三百年歩み続けましたが、ようやく公認された。その後、日曜日が制定されました。教会の人たちが日曜日にきちんと礼拝することができるように、それが、日曜日が休みになった理由です。教会が三百年の闘いを経て、勝ち取った日曜日です。だから今でも日曜日が基本的にお休みの日なのです。 今日の日曜日、私たちはここに集いました。体に疲れを覚えているかもしれません。様々なことがあり、心にも疲れを覚えているかもしれません。今日は特に猛暑です。「不要不急の外出は控えた方がよい」というニュースまで流れている日です。電話で礼拝をしておられる方もあります。電話であっても、日曜日のこの時間に、電話をかけて礼拝をしなければならない。何のために私たちは日曜日に礼拝をしているのか。それは、イエス・キリストが私たちを罪の中から救ってくださった、日々の手の働きを止めて、そのことを思い起こし、赦しと愛を知り、使徒言行録に記されているように、慰められるためです。主イエスはそういう安息こそが、安息日だと言われたのです。 6.安息日の主 今日の聖書箇所の最後に、こうあります。「だから、人の子は安息日の主でもある。」(二八節)。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。主イエスが安息日の主でいてくださる。安息日の主ということは、安息に責任を負ってくださるということです。私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるのです。 主イエスが言われたお言葉、「安息日は、人のために定められた」という言葉を、きちんと受けとめたいと思います。ファリサイ派のように、周囲の人にきちんと働いているか、きちんと休んでいるか、物差しを振り回すようにした生き方をするのではありません。そんなことをしていたら、自分も周りの人たちも疲れるだけです。そうではなく、主イエスが私たちを罪から解放してくださった。私たちのために本当の安息を用意してくださった。その安息が日曜日の礼拝で与えられるのです。 |