「人間の頑なな心、キリストの熱き心」
13:1 主はわたしにこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。」 13:2 わたしは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。 13:3 主の言葉が再びわたしに臨んだ。 13:4 「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい。」 13:5 そこで、わたしは主が命じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。 13:6 多くの月日がたった後、主はわたしに言われた。「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい。」 13:7 わたしはユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた。 13:8 主の言葉がわたしに臨んだ。 13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。 13:10 この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。 13:11 人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 1.祈りは想像力 祈りは想像力が大事である、という言葉を聞いたことがあります。想像というのはイマジネーションのことです。例えば誰かのために執り成しのお祈りをする。この人の病が癒されるように、あの人に平安が与えられるように、そのような祈りです。このような祈りをするにあたって、大事になるのは、いかにその人が置かれている状況をイメージすることができるかどうかということです。その方の悩みや苦しみが自分のことのように分かれば、祈りもより深くなってくると思います。 最近、西日本豪雨がありました。豪雨の時には、テレビや新聞の報道が盛んになされました。教会の被災状況も次第に明らかになってきました。床上浸水の教会もあります。床下浸水の教会もたくさんあります。それらの被害に遭った教会は、その後、どのように歩んでおられるでしょうか。今日の礼拝はどうしているのでしょうか。会堂の再建の計画も徐々に立てていかなければなりません。あるいは、かなり多くの教会で雨漏りの被害もありました。今日は台風です。今頃、雨雲が西日本にかかっていることでしょう。雨漏りをしている教会では、屋根にシートをかけているかもしれませんし、それでも雨漏りがして、礼拝堂にバケツが置かれているかもしれません。水滴がバケツに落ちる音を聴きながら、礼拝の説教に耳を傾ける。そのような教会があるかもしれません。 そのように想像力を膨らませて考えていくと、私たちの祈りが変わってくることでしょう。想像力が豊かであるということは、それだけ自分の祈りが広がっていくことにもつながっていきます。自分の心を柔らかにする。想像力を膨らませていく。それが、自分が変わっていく秘訣になります。 2.人間のかたくなな心 主イエス・キリストはとても想像力が豊かだったお方です。特に本日、私たちに与えられた聖書箇所で、主イエスはどのようにここに出てくる人たちのことをご覧になっているでしょうか。その心で何を思われたでしょうか。今日の聖書箇所には、片手の萎えた人が出てきます。主イエスはこの人のことをどう思われたか。また、主イエスを訴えようと人たちがいます。おそらくファリサイ派の人たちでしょう。主イエスはこの人たちのことをどう思われたでしょうか。 今日の聖書箇所では、主イエスの心の様子が記されています。五節にこうあります。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら…」(五節)。主イエスは、怒りと悲しみの心を抱かれた。それに対して、人間の心はどうだったか。「かたくなな心」だったと記されています。 「かたくな」という言葉は、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のエレミヤ書でも出てくる言葉です。帯を岩の裂け目に隠し、しばらく経ってから探し出すと、帯はもう使い物にならなかったという話が記されています。エルサレムのことがこの帯に象徴的に表されているわけですが、エルサレムの民のことを「かたくなな心のままにふるまっている」(エレミヤ一三・一〇)と言っています。 「かたくな」というのは、意地を張って、自分の考えや態度を変えようとしないことを意味しています。よく言えば一途なのかもしれませんが、あまり良い意味で使われることはないでしょう。頑固であり、どんなことによっても自分の考えを変えようとしない様子を表しています。 マルコによる福音書に戻りますが、今日の聖書箇所で、いったい何が人々の心をかたくなにさせていたのでしょうか。一節から二節にかけてこうあります。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(一〜二節)。 前回の聖書箇所のマルコによる福音書第二章の終わりの箇所から、安息日に関することが続いています。第二章の終わりの箇所には、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことに対して、それは労働ではないか、という咎めを受けたことが記されています。今日の聖書箇所でもその続きの話です。今度は主イエスご自身の行為に目が向けられます。安息日に病を癒されるかどうか、働いてはいけない日に、その労働をするかどうかを見ていたのです。 3.善か悪か、命を救うか殺すか そのように見ていた周りの人たちに対して、主イエスは言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(四節)。 ここに善と悪の問題が出てきます。この善悪の問題は、意外と難しいところがあります。善と悪という言葉は私たちがよく使ったり考えたりする言葉でありますが、しかしいったい何が善いことで何が悪いことなのでしょうか。基準が曖昧なところがあります。自分勝手に善と悪を定める場合もあるでしょう。これが善であり、これが正義なのだ、と。その正義同士がぶつかり合って、国と国との戦争になってしまう場合すらあります。 今日の聖書箇所に出てくる主イエスを訴えようとしている人たちにとって、自分たちの善は、安息日を守ること、律法の規定をきちんと守ることでありました。労働するな、ということを自分にも人にも課していた。それがこの人たちにとっての正義でありました。しかし主イエスの善は違いました。彼らの正義と主イエスの正義がぶつかっているということになります。 四節のところで言われた主イエスの言葉には、二つの問いがあります。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(四節)。一つ目が「善か悪か」という問題であり、二つ目が「命を救うか殺すか」という問題です。これは二つの問題があるようですが、主イエスは一つに結び付けておられます。つまり、善とは命を救うことであり、悪とは命を殺すことです。 そして主イエスの問われ方は、あれかこれか、ということです。二つのうちの必ずどちらか、ということです。善でも悪でもないし、その中間である、というようなことはないのです。必ずどちらか一つだということです。 中渋谷教会の祈祷会でも学んでいるハイデルベルク信仰問答という問答書があります。信仰の筋道を、問答形式で学ぶことができるものです。聖書は人間誰もが罪人であることを言っていますが、その罪人としての人間の姿を、このように言っている問答があります。「あなたは愛をもって生きることができるか」と問うのに対して、こう答えます。「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」(問五)。私は愛どころか、憎しみの方に傾いているから、と答えるのです。愛か憎しみか。そのどちらなのか、と問われたのに対し、憎しみと答えざるを得ない。それが罪人としての人間の姿だと言うのです。 マザー・テレサは、愛の反対は無関心だと答えました。憎しみと無関心は違うのかもしれませんが、結局のところは相手を愛さないのですから同じことです。無関心。特に日本に来日した際に、そのように答えました。日本の状況を見て、愛が欠如している、そう感じての発言です。どういうところに愛の欠如を見抜いたのか、無関心というところです。無関心という字は、心という漢字が含まれています。関係を持とうとしない心です。まさに想像力が欠如している状態です。 今日の聖書箇所で言うならば、片手の萎えた人に対する無関心です。主イエスを訴えようとしている人たちにとって、片手の萎えた人は何でもない存在だったのでしょう。人間としての価値すら見出していないような見方をしていました。彼らにとっては、律法の規定の方がはるかに価値を持っていたのです。主イエスが労働するかどうか、そのことだけを見ていた。片手の萎えた人には無関心でした。 これは何も聖書のここに出てくる彼らだけの問題ではありません。私たちの問題でもあります。マザー・テレサからの問いかけに対して、自由でいられる私たちでもありません。どこまで想像力をもって、他者に目をかけているでしょうか。 主イエスがここで言われている善とは、とても単純なことです。命を救うことです。この手の萎えた人は「片手」の萎えた人とわざわざ言われています。両手ではありません。片方の手で、不自由ながらも、それなりの生活もできたかもしれません。命の切迫があったというわけではない。しかし主イエスは命を救わなければならないと言われました。ここでの「命」とは「魂」という言葉です。この人の「萎えた手」を癒すということに、この人の「魂」を救うということが重ね合わせられているのです。 その意味からすると、主イエスは別に安息日の掟を破ったわけではありません。むしろ、本来の安息日の意味を見失っていたのは、彼らの方でありました。細かい規定ばかりにこだわり、命や魂を救うことを忘れていたわけですから。そのように魂に本当の憩いを得ることが安息日です。主イエスがその安息日を取り戻してくださったのです。 4.キリストの十字架への出発点 このようにして、形ばかりの正義を貫いていた彼らは、主イエスに問われて黙ってしまいます。今一度、四節をお読みします。「そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。」(四節)。 このような状況をご覧になり、主イエスの心が動きます。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」(五節)。 主イエスの癒しの行為は、人々の真ん中でなされた行為でした。みんなが見ている中、こういう言葉を言われ、こういう行為をなさったのです。その結果、主イエスへの殺意が生まれます。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(六節)。暴力というのは、何も言い返すことができなくなった時に起こると言えるのかもしれません。相手を黙らせる手段がそれしかなくなったわけですから。ここに「ファリサイ派」と「ヘロデ派」という人たちが出てきます。「ファリサイ派」はここしばらくずっと出てきていた人たちですが、「ヘロデ派」というのは初めて出てきました。「ヘロデ派」というのは、あまり詳しいことは分かっていないそうですが、この時の王の名が「ヘロデ」でした。「ファリサイ派」はそういう世俗権力とは敵対するような関係ですが、しかしここでは犬猿の仲同士の者たちが相談し始めているのです。主イエスという共通の敵が現れた。何とか排除したい。そういう思いから、ここで手を握り合っているのです。敵を排除するためならば手段を選ばないといったところでしょうか。 以前、教会のある集会で、こんな話をしたことがあります。みんなでキリストの生き方について話をしていました。例えば、キリストは汝の敵を愛せよ、と言われる。自分を愛してくれる人を愛し返すのは当たり前かもしれない。しかし自分を憎んでくる者を愛することができるか、それが本物の愛である。キリストはそう言われます。キリストが言われている意味はよく分かります。確かに本物の愛はその通りであるかもしれない。しかし誰がいったいそんな愛に生きることができるか。もしもそんなキリストが今の私たちの間にいたとしたらどうか。そんなことをみんなで話し合いました。ある人がこう言いました。「イエスさまの生き方って、ちょっと周りからは理解されないわよね」。私はすかさずこう言いました。「その通りです。だからキリストは十字架に架けられて殺されたのです」。 今日の聖書箇所もまさにそうだと思います。キリストの正しさの前に、誰も何も言い返すことはできません。あまりの正しさの前に、何も言い返せなかった。罪人の基準からすると、理解することができないのです。それゆえに、今日の聖書箇所からもう十字架が見えてくるのです。マルコによる福音書もそうですが、四つの福音書はすべて主イエスの十字架へと集約していきます。今日の聖書箇所は、十字架への出発点とも言えます。 人間のかたくなな心のゆえに、十字架への道行きが始まります。かたくなな心の持ち主である私たちの罪を赦すために、その罪を代わりに背負って十字架に架かるために、十字架へ主イエスは向かわれるのです。私たちのかたくなな心を柔らかな心へと造り変えるためです。 5.キリストの心を知る 先週の日曜日、朝の礼拝において、疋田國麿呂牧師をお招きし、説教を語っていただきました。「神の形を生きる」という説教題です。説教の中で強調されていたことですが、神の形を生きるとは、神に応答することができる存在として生きるということです。 説教の冒頭で、中渋谷教会の昔の話をしてくださいました。いろいろな話がありましたが、特に私が心に留めたのは、自分のこれからの歩みに悩みを抱えておられた時の話です。これからの人生の歩みに悩みを覚え、疋田先生はどうされたか。教会の長老に相談をします。そうすると、長老から言われたのはこういうことです。「イエス様は朝早くに祈っておられた。疋田君、君も朝早く起きて、祈ってみたらどうかね」。疋田先生はこれを聞いて、朝四時半に起きて、神宮の森に行って祈る日々が続いていきました。その祈りの中から、伝道献身者への道が拓かれていきました。 伝道者になるということ、それには必ず祈りが必要です。本当にそれが御心ですか、そのようにして、主イエスの心を問うていくのです。そのようにしてキリストと心と心を通い合わせて、自分の歩みを整えていくことになります。 疋田先生の例は、一つの例です。私たちの誰もがそうなのです。キリストと心を合わせていく。そのために、キリストがどのようなお方であり、どのような心でいてくださるのかを知らなくてはなりません。私たちはかたくなな心の持ち主かもしれません。しかしキリストは罪を怒り、悲しみ、私たちを憐れんでくださいます。そして私たちを赦し、受け入れ、愛してくださいます。このキリストの心が分かってくると、キリストの十字架がよく分かってきます。キリストの赦しと愛が分かってきます。このキリストの心が、私たちの心を変えていきます。かたくなな心が溶かされて柔らかくなっていくのです。 |