「キリストに選ばれて」

本城 仰太

       マルコによる福音書  3章13節〜19節
       申命記  7章 6節〜 8節
7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


1.選んだ?選ばれた?
 「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネによる福音書一五・一六)。これは、弟子たちに対して言われた主イエスのお言葉です。弟子たちは自分の師匠として、自分が主イエスを選んだのだ、そう思っていたところがあったのかもしれません。しかし主イエスはその逆を言われます。私が選んだのだ、と。
 人間には自由な意志があります。神が人間をお造りになられた時、人間をロボットのようにではなく、自由な応答ができる存在として造られました。神からの語りかけを聴き、神からの働きかけに応答することができる、それが人間です。それゆえに、人間には選ぶ、あるいは選ばないという選択肢があります。私たちもその選択肢を用いて生きています。ある場所へ行く、行かないを選びます。前へ進む、その場にとどまるを選びます。右へ行く、左へ行くことを選びます。しかし私たちの人生のすべてを、それだけで説明することができるのでしょうか。
 ある人が教会の礼拝に初めて来た時の話です。礼拝の中の祈祷で、こういう祈りがありました。「神さま、今日の礼拝にお招きくださり、ありがとうございます」。その方は、初めてその祈りを聴いて、心の中で少し反発を抱いたようです。今日の日に初めて教会の礼拝に来る、それはどれだけ勇気のいることだったか、自分が一大決心をして、自分の意志で教会に来たのに、「招いてくださり感謝します」というのはどうも腑に落ちない。そう思われたようです。
 しかしそれでも礼拝出席を続けるようになります。相変わらず毎週のように「招いてくださり感謝します」というお祈りが続いていく。しかしだんだんとその意味が分かって来るようになります。自分が今、礼拝の場にいるということ、それは当たり前のことではない。かつての自分なら考えられないことである。なぜこんなふうに変わることができたか。その理由も説明できない。何かの導きがあったとしか思えない。自分が礼拝に来ることを選んだということだけでは、説明がつかないことが分かった。つまり、神さまからお招きを受けた、そのように受けとめるようになっていったのです。
 あるいは、私たちが洗礼を受けたことを考えてもよいと思います。なぜ私たちは洗礼を受けたのでしょうか。自分が選んだのでしょうか。私たちの信仰を、キリスト教という宗教の一つだと考え、キリスト教と仏教とイスラム教などを並べて、研究してみて、キリスト教が一番自分に合う、などと考えて洗礼を受けた人はいないでしょう。そもそも私たちの信仰というのは、宗教活動の枠などに留まるものではありません。
 そのことは、なぜ洗礼を受けてキリスト者になったかを考えてみれば、よく分かります。なぜ洗礼を受けたのでしょうか。はっきりとした答えを出せないのです。唯一、答えられるとしたら、そのように神に導かれた、それしか答えようがないのです。そのことをすなわち、神から招かれた、選ばれたと言います。

2.神に選ばれた
 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、選んだことではなく、選ばれたことが記されています。最初のところにこうあります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(一三節)。
 「山」というのは、そんなに高い山のことではありませんが、聖書では重要な場所です。例えば、山の上で神に出会うような話があります。あるいは、「啓示」と言いますが、神からの語り掛けを聴く場でもあります。あるいは、啓示とも関連しますが、その答えを聞くために、祈りをする場でもあります。主イエスもこのとき、神の御心を問い、祈るために山に登られました。同じ話がルカによる福音書にも記されていますが、その祈りは徹夜の祈りだったことが記されています。夜通し、祈り続け、主イエスは弟子たちを選ばれたのです。
 「これと思う人々を呼び寄せられると」(一三節)とあります。こういう記述を読みますと、私たちは弟子たちの選別がなされたかのように思ってしまいます。十二人だけでなく、何十人かの人たちがいて、その中から優れた人たちが選びだされたかのような印象を受けます。しかしここに書かれているのは、ごく単純なことです。主イエスの意志による人たちを呼び寄せて、ということだけです。他の人たちがいたのかどうかさえ分かりませんが、ただこの十二人を、主イエスのご意志によって選んだ、この聖書箇所が言っているのはそういうことだけなのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、申命記の第七章です。申命記という書物は、出エジプトのリーダーであるモーセが、イスラエルの民に語り掛ける形式を取っています。モーセの死の直前の語り掛けです。告別説教とも言えます。これからいよいよ故郷である約束の地へ入ろうとしている直前の出来事です。モーセは入ることができず、故郷を遠くから眺めることができただけでした。先ほど、讃美歌三一〇番を歌いました。三節に「そびゆるピスガの山のたかねより、ふるさとながめて…」という歌詞があります。申命記の終わりに、このピスガの山から故郷を眺めたことが記されています。その時のことを歌っている讃美歌です。
 モーセは申命記で、これから故郷での生活が始まろうとしているけれども、どのように生活すべきか、どのように生きるべきか、ということを語ったのです。出エジプトの旅は四十年にわたる旅でした。なぜ神がエジプトの奴隷生活から導き出してくださったのか、様々な困難がありながらも、なぜ神がここまで導いてくださったのか、その理由を語っているのが、今日の聖書箇所です。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記七・七〜八)。イスラエルに優れたところがあったからではありません。むしろイスラエルの民はどの民よりも貧弱でした。そうではなく、神の選びがあり、神の愛がただあったから、理由はそれだけです。

3.バラエティーに富んだ弟子たち
 マルコによる福音書に戻りますが、今日の聖書箇所では、選ばれた弟子たちのリストが記されています。バラエティーに富んだ弟子たちです。「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(一六〜一九節)。
 マタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書と、使徒言行録の第一章に、主イエスの弟子たちのリストが記されています。これらに記されている名前は、必ずしも一致するというわけではありません。名前の呼び方が変わっていたり、この人とあの人が同一人物なのではないかという推測がなされていますが、名前にこだわりすぎても、あまり有益ではないでしょう。しかしバラエティーに富んだ弟子たちであることは、どのリストを見ても間違いはありません。
 このリストの中の何人かの人たちだけを取り挙げてみたいと思いますが、先頭に出てくるのは「シモン」です。「ペトロ」という名前の方が馴染みがあるかもしれませんが、これはここに記されているようにあだ名です。「岩」という意味があります。岩のように頑固者だったのかもしれませんし、何よりも教会がこの「岩」の上に立てられたことを意味するニックネームです。主イエスが付けられました。
 続く二人は「ボアネルゲス」というニックネームが付けられています。「雷の子ら」という意味です。雷のように気性が激しかったのか、あるいは声が大きかったのかもしれません。四番目の「アンデレ」。ペトロの兄弟ですが、この四人目まではガリラヤ湖の漁師です。ここまでは漁師という共通性があります。
 しかし続くフィリポからは共通性が見いだせなくなってきます。「フィリポ」というのはギリシア語名です。ギリシア語を話せたのかもしれません。「マタイ」というのは徴税人です。十一番目は「熱心党のシモン」です。「熱心党」というのは、政治的な過激派のことで、このシモンは革命家でもありました。そして最後が主イエスを裏切った「イスカリオテのユダ」です。
 以前、この箇所を何人かで読んでいた時、その中にいたある人がこう言いました。「聖書はずいぶん寛容な書物ですね」。なぜ寛容なのか、と聞きましたら、裏切り者の名前など、普通ならばリストから削除して抹殺するものなのに、聖書はそれをしていないから、との答えが返ってきました。私も確かにその通りだと思わされました。
 ユダも含めて、ここに出てくる十二人というのは、似た者同士というわけではありません。優れた者たちだけが選抜された、そういう輝かしいリストというわけでもありません。それどころか、この十二人の共通性すら何も見出すことができない、そういう十二人を主イエスが選ばれたのです。

4.たった一つの共通点
 しかし一つのグループである以上、バラバラ一辺倒ではやはり困ります。例えば、私たちが何らかのグループやサークルを作ることを考えてみるとよいでしょう。同じ目的をもって集まります。似た者同士が集まります。活動の最初の頃はよいのかもしれません。だんだんとその活動が軌道に乗って来ることもあるでしょう。しかしだんだんと活動に陰りが見え始める。そしていつか必ず終わりを迎えることになります。解散をするのです。なぜ解散をしてしまうのか。それは、共通のものが薄れたり、なくなってしまったからです。
 バラバラの十二人ではありましたが、しかし共通点がありました。たった一つだけかもしれませんが、大事な共通点があったのです。それは、主イエスに出会い、主イエスによって選ばれたことです。
 中渋谷教会に私が赴任して、数か月が経ちました。家庭訪問や面会を少しずつ始めています。先週も数人の方々とお会いし、様々なお話を伺いました。どんなことを話したか。洗礼の時の話であったり、教会に導かれた時の話であったり、あるいはご自分の病の話、苦難の話など、いろいろなお話を伺いました。
 それらのお話を伺いながら、私は弟子たちのリストのことを思い起こしていました。先週は今日の説教を語るための備えの一週間でしたので、いつでも私の頭の中に今日の聖書箇所があったわけですが、この弟子たちのリストのことを思い起こしたのです。中渋谷教会のリストを作るとしたらどうなるでしょうか。この十二人と同じようなバラエティーに富んだリストになることは間違いありません。
 しかしお話を伺いながら、皆に共通していることがある、そのことがよく分かりました。それぞれの方々にいろいろな出来事が起こっていきます。しかし様々な出来事が一つにつながっていきます。いろいろなことが確かにあったかもしれませんが、教会に来られて、いや導かれて本当によかったですね、洗礼を受けることができて本当によかったですね、その言葉なら誰に対してかけることができることです。キリストと出会って選ばれて、今なお様々な問題を抱えていらっしゃるかもしれませんが、信仰の歩みができている、本当によかったですね、その言葉なら皆に共通しているのです。キリストによって選ばれた、それが唯一の共通点であり、大事な共通点です。

5.主イエスの選びが原点
 一四〜一五節にこうあります。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(一四〜一五節)。
 「任命し」という言葉があります。これは「任命し」と訳すのでも構わないのですが、基本的には「作る」という意味のある言葉です。英語で言うとmakeです。主イエスが十二人を選ばれて、弟子の集団を作られたということです。十二という数字は、イスラエルが十二部族でしたから、そのことを表しています。もちろん、十二人だけで限定されているのではなく、主イエスによって新たなイスラエルが作られる。それが教会の共同体として作られていく。その土台となったのが、この十二人なのです。土台からして主イエスから選ばれたのです。
 ある聖書学者が、主イエスの作る力に関して、このようなことを言っています。今日の聖書箇所で重要な言葉だけを抜き出すとしたらどうなるか。「彼(主イエス)は召した(呼び寄せた)、彼らは来た、彼は彼らを作った」。つまり、主イエスが弟子たちを選び、選ばれた弟子たちが主イエスのところに集まり、主イエスが弟子たちを作った、今日の話はそれに尽きる、と言うのです。
 バラエティーに富んだ十二人のたった一つの共通点が、主イエスに選ばれて作られたことにあります。この十二人が教会の土台ですから、教会の私たちも同じです。私たちも主イエスに選ばれて作られたのです。
 主イエスはなぜ選ばれて作られたのか。二つの目的が記されています。一つ目は、「彼らを自分のそばに置くため」(一四節)。まずは主イエスと共にいるということが大事です。実際にマルコによる福音書の十二人は、ただそれだけをしたとも言えます。主イエスの十字架の際には、ユダが裏切り、他の弟子たちは見捨てて逃げてしまったわけですから、それすらもできなかったということになります。
 もう一つの目的は、「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(一四〜一五節)です。本当にこんな権能が与えられたのでしょうか。この十二人の弟子たちが実際に主イエスによって伝道旅行へと派遣されている場面があります。そこにはこう書かれています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(六・一二〜一三)。
 ところがその逆にこんな話もあります。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(九・一七〜一八)。この箇所では、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかった話になっているのです。
 ある牧師が、こんなことを言っています。「悪霊を追い出すというのがどういうことを意味するのか、自分にはいまいち、よく分からない」、まずは正直にそう言います。しかし続けてこう言います。「しかし悪霊のみならず、様々な闘いのことならばよく知っている」。その闘いとは何か。それは、自分が牧会する教会の教会員を見れば分かると言うのです。教会員と共に歩めばよく分かると言うのです。病との闘いがあり、死との闘いがあり、罪との闘いがあります。しかしその闘いの中で、決して打ち負かされてはいない、そういう闘いならばよく知っていると、この牧師は言うのです。
 先週の聖書箇所においても、悪霊のことが出てきました。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」(三・一一〜一二)。ここではもはや悪霊は主イエスの権威の前に力を失っています。主イエスの権威が勝っている。そのように主イエスが私たちの内に生きて働いておられる、もうそれだけで十分ではないか、とその牧師は言うのです。
 弟子たちにとりまして、今日の聖書箇所で主イエスに選ばれたわけですが、やがて「使徒」(一四節)となっていきます。遣わされた者たち、という意味です。使徒言行録にその様子が記されていますが、多くの闘いがありました。しかしその闘いを支えたのが、今日の聖書箇所に書かれている出来事です。原点ともなる出来事です。主イエスによって選ばれ、派遣されたのです。
 これは私たちの原点でもあります。たとえどのような歩みであろうとも、悪霊がどんなに猛威を振るっていたとしても、私たちは主イエスによって選ばれた。主イエスの祈りに支えられている。そのことを原点として歩んでいくことができるのです。
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