「キリストの力の由来」

本城 仰太

       マルコによる福音書  3章 20節〜30節
       イザヤ書 49章24節〜25節
49:24 勇士からとりこを取り返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。
49:25 主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。


1.囲まれる主イエス

 「イエスが家に帰られると」(二〇節)という言葉から、本日、私たちに与えられた聖書箇所は始まります。私たちが外での務めを終えて家に帰ることができるというのは、ほっとするひと時でもあります。普通ならば家というのは、くつろぐことのできる場所です。
 しかしこの時の主イエスはそうではありませんでした。「家」とはいったいどこだったのか。主イエスの実家ではありません。そうではなくて、伝道の拠点としていた弟子のペトロの家であったと思われます。少し前に、ペトロの家に主イエスがおられた時、大勢の群衆が押し寄せてきたことがありました。今回もそうでした。「群衆」が再度、主イエスのところへ押し寄せて、主イエスは息をつく暇も、食事をする暇もありませんでした。
 出てくるのは「群衆」だけではありません。「身内の人たち」が出てきます。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」(二一節)。
 「身内の人たち」とはいったい誰のことでしょうか。今日の聖書箇所は三〇節まででありますが、本当は三一節以下も連続して続いていく話なのです。来週の聖書箇所になりますが、三一節にこうあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」(三一節)。「身内の人たち」とは、具体的には主イエスの母マリア、そして兄弟たち、つまり主イエスの弟たちということになります。父ヨセフに関して言及はありません。おそらくもうすでに死去していたのでしょう。主イエスは長男です。家を継ぐという立場にありました。実際に家業をされていたのかもしれません。しかし「身内の人たち」にとっては肝心な長男が家を飛び出してしまった。私たちがすでに読んできた聖書箇所に書かれている通り、ガリラヤ湖周辺で伝道活動を開始し、多くの人がそこに集まっていた。そういう状況だったのです。
 しかもここには「あの男は気が変になっている」(二一節)という言葉まで出てきます。これは「身内の人たち」が聞かされた主イエスに関する噂です。「気が変になる」というのは、英語の言葉で言うとエクスタシーという言葉です。日本語では恍惚状態などと訳されますが、この言葉には「自分の外に出る」という意味があります。自分があるべき領域に留まることができない状態を表します。「身内の人たち」にとって、本来ならば自分たちの手の中にいるべき長男が、外に出てしまった。理解することができない長男になってしまった。そのような悪い噂を聞いて、慌てて主イエスのところにやって来たのでしょう。
 さらに「律法学者たち」も出てきます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」(二二節)。悪い噂を二つも流しています。
 今日の聖書箇所について、ある人がこう言いました。「主イエスがサンドイッチになっている」、と。この人は「身内の人たち」「律法学者たち」の間に主イエスが挟まれていると言うのです。「身内の人たち」「律法学者たち」だけでなく、さらに「群衆」もここに加えることができると思います。主イエスは三つのタイプの人たちに囲まれながら、今日の聖書箇所の話が進んでいくということになります。

2.譬えを語られる

 こういう状況の中、主イエスがまず語られたのは、一つの譬えでありました。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」」(二三〜二六節)。
 これが「たとえ」であると聖書には書かれています。私たちがマルコによる福音書から御言葉を聴いてきたように、主イエスはこれまで多くの癒しをされてきました。少し前の説教でも申し上げましたが、しばらく主イエスは癒しを中断されます。誰も癒さない。その代わり、多くの言葉を語られます。今日の聖書箇所でもそうです。論争もありますが、主イエスは「たとえ」を語られるのです。有名な譬えは、第四章の冒頭にある「種を蒔く人の譬え」です。しかし今日の箇所で主イエスが語られているのも、一つの短い譬えなのです。
 いったい主イエスはこの譬えによって、何を語ろうとされているのでしょうか。律法学者たちは、わざわざエルサレムからやって来た人たちです。相当な意気込みで強い批判をしました。主イエスの力が悪に由来するという批判です。
 律法学者たちは一方では主イエスの力を認めざるを得ませんでした。信じ難いような力の持ち主である、そのことは明らかでありました。しかし他方からすると、主イエスのことをねたんだのです。律法の専門家として、自分のところに来なさい、教えてあげるから、そういう権威を持っていた人たちです。ところが主イエスが現れてからは、皆がこぞってそっちへ行ってしまう。そこで、彼らはこう批判してきたのです。主イエスの力は悪に由来する力だと。それに対して、主イエスはこのような譬えを語られたのです。

3.悪の内輪争いをする世

 今日の聖書箇所には「悪霊」「サタン」それに「ベルゼブル」という言葉が出てきます。「ベルゼブル」という名前の由来は諸説あるようです。その一つ一つをここでご紹介しても有益ではないでしょう。律法学者たちが言っているように「悪霊の頭」と理解すれば十分です。
 今日の聖書箇所をはじめとして、聖書には悪のことが確かに書かれています。「悪霊」が出てきたり、「サタン」が人間をそそのかしたり、今日の聖書箇所ではその頭の名前まで出てきます。しかしその悪が何に由来するのか、聖書ははっきりと教えてくれません。神が天地万物、すべてのものをお造りになられました。しかしこの世には悪があります。神が悪を創造されたのでしょうか。悪そのものを神が造ったとも言えなさそうです。しかし悪が存在する。私たちの生きている現実にも、確かに何らかの悪の力が働いています。私たちもその力と無関係ではありません。いや、その力に圧迫されています。それでは、その悪はどこに由来するのでしょうか。
 主イエスはこの譬えの中で、「内輪争い」について語られています。サタンのうちわ争い、国の内部の内輪争い、家の内部の内輪争い、三つの同じような内輪争いです。なぜこの世界がちっともよくならないのでしょうか。それは相変わらず内輪争いが続いているからとも言えます。人間の歴史の中で、この世の中がどんどん良くなっていくのではないか、そう楽観的に考えられた時代もありました。科学の力が増して進歩していく。人間の理性の力によって新たなことがどんどんと分かってくる。そのように世界がどんどん良くなると考えられた時代がありました。ところが、そういう中、大きな世界大戦が起こり、多くの悲惨な出来事を人間が次々と引き起こし、楽観ムードがしぼんでいく。そういうことの繰り返しです。なぜちっともよくならないのか。それは、まるでこの世界が悪と悪で内輪争いをしているようだからです。結局のところ、どっちが勝ったとしても、悪は悪でそのまま残るのです。

4.悪に勝利される主イエス

 そのように悪を引きずるこの世の中の歩みです。いったいどのように解決することができるでしょうか。いくら悪の由来が分かり、悪のことがよく分かったとしても、悪の問題が解決されなければ無意味です。
 聖書は悪の由来うんぬんというようなことは、ほとんど語りません。その代わりに悪がどのように退けられるのか、その解決方法が語られています。二七節のところで主イエスはこう言われます。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(二七節)。
 少々、物騒な譬えが語られている、そう思われた方もあるかもしれません。これが主イエスのなさり方です。悪を本当に断つのであれば、悪が内輪争いをするようにしてではなく、悪以外の力で根こそぎ払わなければならないのです。
 主イエスは何でもないように譬えでこの二七節の言葉を語られているようですが、この悪との戦いは本当に厳しい戦いです。ある人がこう言いました。「この二七節の言葉には、主イエスの十字架と復活のすべてが込められている」、と。主イエスの命懸けの戦いです。実際に十字架で命を落としてまでの戦いです。聖書は十字架を戦いと見ています。キリストが戦われる戦いです。何と戦われているのか。悪や罪や死との戦いです。キリストが十字架で死なれました。そうすると戦いに敗れてしまったのでしょうか。一時はそう見えました。しかしキリストはお甦りになられました。内輪争いでは決して達成することができなかった勝利をもたらしてくださったのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第四九章からの短い箇所です。「勇士からとりこを取り返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。」(イザヤ四九・二四)。これはイスラエルの人たちの嘆きの言葉です。不可能だ、という言葉です。しかしそういう中、神の御声が聴こえてきます。「主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。」(イザヤ四九・二五)。
 主イエスの戦いも同じでした。人間では不可能だった。誰がそんなことできるだろうか、と人間が言わざるを得ない状況の中、主イエスが戦ってくださり、主イエスが私たちに勝利をもたらしてくださったのです。

5.聖霊に由来する力

 マルコによる福音書に戻りますが、二八節にこう続いていきます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」(二八節)。譬えは二七節まででした。二八節からは主イエスが最も強調されている言葉です。もはや譬えではありません。「はっきり言っておく」と言われています。これは「アーメン」という言葉です。主イエスが大事なことを言われる際に使われる言葉です。
 二七節の譬えで語られたように、悪への根本的な勝利によって、すべての罪が赦されます。ただし、その後に合わせて二九節が続いていきます。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(二九節)。こういう言葉を聴くと、不安になるかもしれません。果たして自分はどうなのだろうか、こういう罪を犯していないと言えるのだろうか、そう思われるかもしれません。
 ここで言われていることから明らかなように、主イエスの力の由来は、聖霊による力です。聖霊によってこの戦いを戦い、勝利をもたらしてくださったにもかかわらず、その主イエスの力を悪に由来する力だと言ってしまう。悪に打ち勝ち、罪が赦される唯一の力にもかかわらず、それを否定してしまうのです。
 ある聖書学者がこんな指摘をしています。三〇節にこうあります。「イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。」(三〇節)。ここに「言っていたからである」という言葉遣いがあります。この聖書学者は「言っていた」という言葉が未完了形であることに注目しています。つまり、この動作はまだ完了していない。ずっと言い続けている。その立場に立ち続けることだと指摘するのです。
 主イエスの力が聖霊に由来するのではなく、悪霊に由来する、そう言い続ける。人間というのは、一つの考えを貫き続けるのが難しい存在です。この聖書学者は、果たして人間がずっとそんな考えを貫き通せるか、というように考えていくのです。聖霊を冒?することが、人間に本当に可能なのか、不可能なのではないかとさえ問うていきます。
 しかし私たちは、聖霊を冒?することをあれこれと考えるよりも、聖霊の力と導きを信じたいと願います。聖霊は私たちの信仰生活のすべてを導いてくださいます。聖霊によって、私たちは主イエスの語られる言葉が、その譬え話が分かるようになります。中渋谷教会では説教前に短く祈祷をします。これは聖霊を求める祈りです。説教を聴いて神の恵みと導きを感じた時、それは聖霊の力によるものです。私たちが信仰を言い表すことができること、主イエスを救い主だと告白することができること、これも聖霊の導きです。祈ることができるのも、すべて聖霊の導きです。私たちの信仰生活のすべてが聖霊の導きによっているのです。
 もはや聖霊を冒?することなど思いも寄らぬほど、私たちに聖霊が注がれています。冒?のことよりも、むしろ二八節の言葉に注目したいと思います。<b>「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」</b>(二八節)。主イエスの戦いの結果、もたらされる恵みがここにあります。私たちは感謝して、それを受け取ることができるのです。

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