「あなたも神の家族の一員」
8:8 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。 8:9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 8:11 レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」 8:12 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。 3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 1.娘の通う教会に来た父 ある父親がいました。若い娘がいる父親です。その娘が教会に通っています。教会に通うこと自体は別に構わないと思っていました。しかし聞くところによると、その教会には青年会というグループがあり、若者たちが集っているとのことでした。この父親は少し心配になりました。そこにいる青年と男女の仲になってしまうのではないかという心配です。そこで、父親自らがその教会に出向いて、様子を見に行くことにしました。 日曜日の礼拝に行き、礼拝後も少し残って、教会の様子をいろいろと見ました。確かに青年会という交わりがあった。青年たちがいて、若い男性もいた。自分の娘とも親しく話をしている。そんな様子を見かけました。しかし目にしたのはそういう様子だけではありませんでした。若い人たちが教会のお年を召された方々に声をかけ、困っていれば手助けをする。力仕事も率先して行っている。同世代の若者たちだけで交わるのではなく、そういう様子を目の当たりにしたのです。 この父親は、今の時代にもこういう若者がいるのだということに感心し、考えを改めたそうです。もし自分の娘がここにいる青年と親しくなり、やがて結婚することになったとしても、それはそれで結構なことではないか、そう思うようになったそうです。 今、一つの具体的な話をしました。この父親は教会に足を踏み入れ、そこでいったい何を見たのでしょうか。この父親は、教会の交わりを見たのです。最初にそこで目にしたのは、若者たちとお年を召された方々が交わる、手助けをする、そのような表面的なことだったかもしれません。しかしこれは「神の家族」たる教会の姿の一面を表しています。その「神の家族」とはいったいどのような家族なのか、普通の家族とどこが違うのか、そのことを考えていきたいと思います。 2.外で立っている、中で座っている 「神の家族」とはいったい何なのか、そのことは本日、私たちに与えられた聖書箇所を読めば分かってきます。先週、私たちに与えられた聖書箇所はこの一つ前の箇所の二〇〜三〇節までですが、今日の聖書箇所と一続きの話です。 今日の聖書箇所の最初のところに、こうあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると…」(三一〜三二節)。 先週の聖書箇所の二一節のところに、「身内の人たち」という人が出てきます。二一節では少しだけ出てきましたが、今日の箇所では具体的に出てきます。主イエスの母マリアと弟たちです。それに対して「大勢の人」(三二節)も出てきます。この「身内の人たち」と「大勢の人」が対比して、記されている特徴があると思います。主イエスの母と弟たちは、外にいました。立っていました。主イエスの話を聴こうとしたのではありません。それに対して、「大勢の人」は家の中にいました。座っていました。そして主イエスの話に耳を傾けていたのです。主イエスのお言葉を聴いていたのです。 今日の聖書箇所の話は非常に単純です。血のつながりのある家族かどうか、という話ではありません。そうではなく、聴いているか聴いていないかという話です。その聴いている者たちのことを主イエスは「神の家族」であると言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(三四〜三五節)。 主イエスが「神の御心を行う人」と言われています。御心を行うとはどういうことでしょうか。何らかの具体的な奉仕や働きのことを思い浮かべるかもしれません。しかし主イエスがここで言われたことから考えると、神の御心を行うとは、何よりもまず主イエスの足元に座って、その声に耳を傾けるということです。そのことを指して主イエスは「神の御心を行う人」と言われたのです。 教会の牧師をしていると、しばしば教会の奉仕のことで心配を覚えている声を伺うことがあります。例えば、若い頃はたくさんの奉仕をすることができたけれども、年老いてだんだんとできなくなってきた、そのことが申し訳ないというような声です。それ以外にも、洗礼を受けて教会員になったらたくさんの奉仕をしなければならないのではないか、そういうような声です。しかしその都度、私が申し上げていることは、まず、主イエスの足元に座って御言葉を聴くことです。礼拝は英語で様々な言い方がありますが、一つの言い方として「サービス」と言います。「サービス」は奉仕をすることです。神が私たちを礼拝に招き、御言葉を聴かせてくださり、祝福を与えてくださっている、そういう奉仕を神さまが私たちにしてくださっています。私たちも礼拝を献げる、その奉仕をしています。礼拝こそが最大の奉仕である、主イエスの足元に座って御言葉を聴くことこそが、最大の奉仕なのです。 3.聖書の家族観 主イエスのこのお言葉にあるように、聖書はこういう家族のことを語っています。誤解のないように申し上げておきたいと思いますが、聖書は決してこの世のいわゆる家族のことを否定しているわけではありません。否定しているどころか、それは神によって与えられた家族として、感謝し、重んじなければなりません。 しかし肉による家族、血のつながりだけで、すべてがうまくいくかと言うと、そんなこともないわけです。むしろ、人間の罪によって、その大事な家族が引き裂かれてきた、血がつながっていても、兄弟同士で争ったり、親子で争ったり、聖書の中にもそんな話がたくさんあります。主イエスはそういう問題を抱えている私たちに、今日の話をしてくださいました。聖書は、「家族である」というよりも、「家族になる」ということを語っている書物です。 もう少し踏み込んでこのことを考えたいと思います。家族とは何でしょうか。最近、政治の話として、「家族は助け合わなければならない」などという文言を聴くこともあります。道徳的には当たり前のことなのかもしれませんが、国家としてなさなければならない助けの手を、「家族」に負わせようとしているのではないか、などということも言われています。しかし「家族は助け合わなければならない」と言ったときに、「家族」とは何でしょうか。どこの範囲までが家族なのでしょうか。昔は大家族が多かったといわれています。それが核家族化している。昔ながらの家族が成り立たなくなっている。それに伴い、様々な問題も生じている。しかし昔ながらの家族観に戻れば、今の問題がすべて解決するかと言ったら、そんなことはないでしょう。 聖書は家族をどう考えているか。聖書の家族観とは何か。例えば、新約聖書のエフェソの信徒への手紙に、いわゆる「家庭訓」が記されています。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(六・一〜四)。子育てのことが記されています。「父親たち」となっていますが、母親がもちろん無関係ではなく、母親も含めて語られているのでしょう。子どもたちには「従え」と言われています。あるアメリカ人の父親が、子どもたちにobey(従いなさい)と言っているのを見たことがありますが、もちろんそれだけで子育てが済むというわけではありません。聖書の言葉には続きがあります。「主がしつけ諭されるように」と言われています。主イエスならどうなさるか、そのことを考えなければなりません。 別の聖書箇所になりますが、主イエスが幼子を、乳飲み子を抱き上げて、祝福なさいました。弟子たちは主イエスが疲れておられることを考慮し、まだ一人前とは思われていなかった子どもを主イエスから遠ざけようとしました。しかし主イエスは弟子たちを叱り、子どもたちを近づけ、抱き上げて、祝福されたのです。主イエスはたとえ小さな子どもであっても、一人の人としてご覧になった。そういう思いで子育てをすることになります。 さらに聖書の家族観がよく表れている別の箇所を挙げるとすれば、創世記の最初にこうあります。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記二・二四)。「父母を離れて」とあります。訳し方によっては、「父母を捨てて」とも訳せるそうです。子は親の元を離れていく。親のものではもはやありません。そのようにして、結婚によって「二人は一体になる」。新しい「家族になる」のです。こういう聖書の家庭訓を踏まえて、ある牧師はこう言いました。「聖書は家族であることよりも、家族になることを重視している」、と。 4.神の家族としての聖徒の交わり 「家族になる」ということが大事であるとして、教会も神の「家族になる」。そうであるならば、そこにどんな交わりが生じるのでしょうか。その交わりのことを、私たちも礼拝で告白している使徒信条では、「聖徒の交わり」と言っています。 「聖徒の交わり」とは何か。私たちの教会でも重んじている「ハイデルベルク信仰問答」という問答書があります。今から四五〇年ほど前、ドイツのハイデルベルクという町で作られたものです。聖書をもとにし、信仰の筋道を分かりやすくたどったものですが、「聖徒の交わり」をこのように語っています。 問五五 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していいますか。 答 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。 答えのところで、第一と第二のことが言われています。第一でまずキリストとの交わりです。教会の者ならば誰もがキリストとの交わりを持っているということです。それゆえに、第二のことが続きます。私もキリストとの交わりを持っている。あの人もキリストとの交わりを持っている。その私とあの人が交わる。あの人もキリストとの交わりを持っているのです。その点で、同じ者として交わることができる。言い換えれば、その人と直接交わるのではなく、キリストを経由してその人と交わることができる。 同じキリストによって救われ、同じ神を信じ、同じ聖霊に導かれ、同じ御言葉を聴き、同じ聖餐の糧に与り、共に礼拝を献げている。それが聖徒の交わりです。それこそが聖徒の交わりです。それだけで聖徒の交わりです。 5.「一人の人のようになった」 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書はネヘミヤ記です。ネヘミヤ記はエズラ記と並んで、イスラエルの民がバビロン捕囚から回復していく様子が記されています。大国バビロンに滅ぼされ、国を失い、エルサレムの都も破壊されたところから、再び国を興していく様子です。ネヘミヤ記は、困難を乗り越えて、エルサレムの城壁が修復されることが記されています。 今日の聖書箇所は、ネヘミヤ記のクライマックスであり、城壁が修復され、完成を祝っている礼拝の様子です。涙を流している者がいます。感動の涙もあったでしょうが、どちらかというと、悔い改めの涙です。皆が御言葉を聴き、その意味を理解している。今日はお読みしませんでしたが、第八章の最初のところには、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった」(ネヘミヤ八・一)とあります。 大勢であっても一人の人のようであった。マルコによる福音書でも同じことが起こっていると言えます。三五節の「神の御心を行う人」というのも、単数形です。大勢のバラバラの人ではありません。群衆でもありません。そうではなく、主イエスの足元に座る、主イエスから御言葉を聴く、一人の人なのです。 6.マリアとヤコブの後日談 今日の聖書箇所では、主イエスの母マリアも弟たちも退けられてしまいました。外に立っていた人たちだったからです。しかし聖書には後日談が語られています。 主イエスの十字架の場面においてですが、母マリアが弟子の一人によって引き取られるという話が記されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ一九・二五〜二七)。主イエスの母マリアも神の家族の一員になっていったのです。 また、主イエスの弟になりますが、ヤコブという人がいました。使徒言行録の第一五章で使徒会議と呼ばれる会議がなされていますが、その会議で中心的な役割を果たしています。初代教会の中心的な人物になっていきました。弟ヤコブもまた神の家族の一員になっていったのです。 「家族になる」、私たちもそのことを大事にしたいと思います。どのようにして「神の家族」になるのか。共に座って、御言葉を聴き、共に聖餐に与り、共に礼拝をする。それだけの交わりかもしれませんが、それ以上の深い交わりはありません。キリストとの交わりです。キリストを経由した交わりです。血縁ではないかもしれません。人間的な親しさでもないかもしれません。しかしどんな絆よりも深い交わりがここにある。それが神の家族なのです。 |