「聞く耳のある者は聞きなさい」

本城 仰太

       マルコによる福音書  4章 1節〜 9節
 詩編 135編15節〜18節
135:15 国々の偶像は金や銀にすぎず/人間の手が造ったもの。
135:16 口があっても話せず/目があっても見えない。
135:17 耳があっても聞こえず/鼻と口には息が通わない。
135:18 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。

4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

1.ポイントは聞くこと

 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、譬え話が記されています。「たとえ」という言葉は、すでに第三章にも出てきた言葉です。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。」(三・二三)。すでに第三章で、短い譬え話が語られています。そして今日から第四章に入りますが、第四章ではいくつかの譬え話が語られていきます。
 この譬え話が語られた時の状況が記されています。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」(一節)。そして続く二節にはこうあります。「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。」(二節)。たくさん語られた譬えの中で、今日の聖書箇所に記されている譬え話は、最も有名な譬え話であるかもしれません。マタイによる福音書にもマルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されたた譬え話です。
 譬え話は何らかのことが譬えられているわけですが、これらの譬え話を聞く上でのポイントがあります。ポイントは、聞くことです。譬え話が始まるにあたって、まず主イエスはこう言われます。「よく聞きなさい」(三節)。そして譬え話が閉じられるにあたり、主イエスはこう言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(九節)。つまりこの譬え話は「よく聞きなさい」という言葉にサンドイッチのように挟まれているということになります。それが譬え話のポイントです。聞く耳があるかどうか、そのことが問われているのです。

2.聞く耳を持たない偶像

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一三五編です。この詩編は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放された時に、神を讃美している詩編と言われています。イスラエルは二千数百年前、バビロニアという国に滅ぼされ、エルサレムの街が破壊され、国を失うという出来事を経験しました。しかしそこから回復することができた。エルサレムの神殿を再建することができた。その前提がこの詩編にはあります。イスラエルの人たちががんばったからではなく、まことの神の力によって成し遂げられたことです。今日の聖書箇所の少し前のところになりますが、神が力あるお方であることが語られています。「天において、地において、海とすべての深淵において、主は何事をも御旨のままに行われる。地の果てに雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」(詩編一三五・六〜七)
 こういうまことの神に対比させるようにして、偶像の神々のことが語られています。「国々の偶像は金や銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻と口には息が通わない。」(一三五・一五〜一七)。偶像は当然のことですが、口、目、耳、鼻があっても機能しません。
 そしてとても興味深いのは、続く一八節です。「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(一三五・一八)。偶像を拝む者というのは人間です。口があり、目があり、耳があり、鼻があり、それぞれの器官は機能しています。しかし偶像と同じようになる、と言うのです。偶像と同じようにそれらが機能しなくなると言うのです。
 これは私たちに対する警告です。他人事ではありません。現代にも実に多くの偶像が生み出されています。口はきちんとあって自分の主張は一方的に口にするのかもしれませんが、人の言うことに耳を傾けようとしない。まるで偶像であるかのように聞く耳を持たないのです。この世の中には目を覆いたくなるような状況がたくさんあります。私たちの目でしっかり見てこの状況に対処しなければならないわけですが、見なかったふりをして通り過ぎてしまう。まるで偶像であるかのように見る目を持たないのです。私たちも偶像化と無関係ではいられません。
 だから詩編では、あなたがたは偶像のようになると、と警告するのです。まことの神がどのようなお方で、私たちのために何をしてくださったのか、きちんと受けとめて、感謝しようではないか、讃美しようではないか、私たちにはきちんと見ることができる目が、聞くことができる耳が与えられているのだから、そのようにこの詩編は言うのです。

3.譬え話の四つの土地

 そこで主イエスも、旧約聖書の詩編第一三五編と同じように、言われるのです。「よく聞きなさい」(三節)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(九節)。
 主イエスのお語りになられた譬え話の内容に入っていきたいと思います。四つの土地が語られています。「道端」(四節)、「石だらけで土の少ない所」(五節)、「茨の中」(七節)、「良い土地」(八節)の四つです。四つの土地にそれぞれ種が蒔かれ、それぞれの結果が異なるわけですが、これらの四つは四つがまったく並列に並べられているというわけではありません。そうではなくて、最初の三つは並列かもしれませんが、最後の一つだけは違う、という形で語られています。最初の三つと最後の一つは明らかに対照的です。
 対照的であることは、聖書の言葉遣いを読めば分かります。日本語だと分かりづらいのですが、最初の三つに出てくる種は、単数形になっています。それに対して最後の四つ目の種は、複数形です。そのような違いがあります。さらに、最初の三つの種は、こういう結果に終わってしまった、すでに過去のこととして書かれています。それに対して最後の種は、今なおその結果が続いている。文法で言うと未完了形ですが、「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(九節)ということが、今もなお続いているのです。

4.「種を蒔く人」の譬え

 この譬え話を聞いて、皆様はどんなことを思われたでしょうか。再来週はこの次の次の箇所になりますが、一三節以下から御言葉を聞きます。再来週、改めてこの箇所から御言葉を聴きますが、この箇所には四つの土地それぞれが、どのような人を譬えているのか、主イエスによって解説されています。種は御言葉です。その種がそれぞれの土地に落ちる。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」(一五節)。「石だらけで土の少ない所」「茨の中」「良い土地」それぞれについても、具体的なことが語られています。私たちが気になるのは、それでは私はどの土地なのか、ということでしょう。
 しかし主イエスご自身の解説が、まずこう始まっていることに注目したいと思います。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(一四節)。主イエスがお語りくださったのは、このような譬え話ですが、この譬え話にタイトルを付けるとすれば、どういうタイトルになるか。新共同訳聖書には小見出しが付けられています。聖書にもともとこんな小見出しがあったわけではありません。場合によってはあまりふさわしくない小見出しと思われるようなものもあり、参考程度に見ておけばよいものですが、ここでの小見出しは適切だと思います。「「種を蒔く人」のたとえ」となっているからです。
 別のタイトルも考えられたかもしれません。例えば、「種蒔きの譬え」、あるいは「土地の譬え」と付けてもよかったかもしれません。しかし教会の伝統的な理解では、主イエスの一四節のお言葉に従って、「種を蒔く人」の譬えなのです。
 譬え話にどういうタイトルを付けるのか、それは案外、重要なことだと思います。そのタイトルによって、譬え話の理解が変わってくるからです。例えば、ルカによる福音書第一五章に、三つの譬え話があります。三つバラバラというよりも、三つが同じようなことを表している譬え話です。一つ目が、羊を百匹持っている人の羊が一匹失われた、そこで羊飼いは九九匹を残してまでその一匹を捜し、見つけ出して大喜びをするという譬え話です。二つ目が、十枚の銀貨を持っている人が一枚の銀貨を無くす、そこで持ち主がその一枚を捜し、見つけ出して大喜びをするという譬え話です。三つ目が、兄と弟の二人の息子がいる父親の話ですが、弟の息子が、父親がまだ生きているにもかかわらず財産の分け前をもらって家を飛び出し、放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いし、何もなくなって悔い改めて戻って来る、そして戻って来た息子を大喜びして迎え入れる、そういう譬え話です。
 三つ目の譬え話は、「放蕩息子」の譬え話とよく言われます。確かに弟息子が放蕩するわけですから、間違っているわけではありませんが、もっとふさわしいタイトルがあると思います。むしろ一つ目と二つ目の譬え話と合わせて、「見失ったものの譬え」あるいはもっと丁寧に言うならば、「見失ったものを再発見し、大喜びする譬え話」です。見失ったものを取り戻して神さまが大喜びをする、そういう譬え話なのです。大喜びする神さまの姿を譬えている。そしてそれゆえに、神さまと一緒に私たちも喜ぼう、ということが後から続いていくのです。
 今日のマルコによる福音書も、「種を蒔く人」の譬え話です。私たちはどうしても土地のことが気になり、自分はいったいどの土地なのか、ということを考えてしまいますが、まずは「種を蒔く人」です。自分がどうだ、こうだということよりも、種蒔きをしているそのお方の姿に注目をしたいと思います。

5.惜しみなく、実りを信じて蒔くお方

 ある注解書を書いた聖書学者が、こんなことを言っています。この譬えは、譬えを語っている人と聞いている人との間に、信頼関係がなければならない、と。当たり前のことですが、譬え話を語っている人がいて、聞いている人がいることになります。聞いている人がその譬え話を聞いて、「なんだ、その譬え話は、つまらん」と言って理解を示さなければ、そこには信頼関係はありません。そうではなく、「ああ、本当にその通りですね」と頷くことができれば、そこに信頼関係があるということになります。
 これも聖書学者が教えてくれることですが、当時のパレスチナの地での種蒔きは、まず種を蒔き、次いでそこの土地を整える、ということをしたのだそうです。種を蒔いた後で鋤を入れる。場合によっては石を取り除き、茨を取り除きというようなことをしたかもしれない。いずれにしても、「種を蒔く人」が非常に大きな労苦をするのです。その姿を忘れるわけにはいきません。
 この「種を蒔く人」は惜しみなく種を蒔いていきます。けれども決して無駄遣いをしているとは思っていないでしょう。むしろ必ず良い実を結ぶことを信じて、種を蒔き続けています。私たちは、四つの中の土地のどれかと問われたならば、たしかに道端の土地であり、石だらけで土の少ない所であり、茨の中であるかもしれない。よい実を結ぶことができない罪多き者です。
 しかしそうであるならば、なおさらこの「種を蒔く人」の労苦のことを思わずにはいわれません。そんな私たちのために労苦し、土地を整え、実を結ぶことができるようしてくださる。聞く耳を与え、聞くべき言葉を与えてくださる。私たちの罪を背負って、十字架にお架かりになるほどの労苦をしてくださるのです。

6.御言葉を聴き続ける

 この「種を蒔く人」は、今もなお御言葉の種を蒔き続けてくださるお方です。それゆえに、私たちは御言葉を聴き続けることができます。御言葉を主イエスのもとに集い、御言葉を聴き続けていれば、私たちは必ず変わっていくことができます。
 私たち人間は確かになかなか変わることができないところがあります。相変わらずな自分がいますし、相変わらずな他人がいるでしょう。私たちはすぐに他人を変えたがります。どうしてあの人はこうなのだろう、どうして変わってくれないのか、私たちは他人に対してはすぐ変わってくれと思います。しかしそのくせ、肝心の自分はなかなか変わることができない、そんなところがあります。
 けれども、これは私の牧師としての実感ですが、御言葉を聴き続けている人は、確実に変わっていきます。毎週、御言葉を聴き続ける、そうするとどうなるか、幸いなことに、皆が変わっていくのです。良い方向に変わっていきます。信仰的になっていく。聖書的な考え方が身についていく。御言葉の種にはその力があります。
 主イエスが今日も御言葉の種を蒔いてくださっています。主イエスのお言葉に従いたいと思います。「よく聞きなさい」(三節)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(九節)、そのお言葉とともに、御言葉の種を惜しみなく与えてくださいます。種をもらったらそれで終わりではありません。種は成長し、やがて実を結びます。そのことを信じ、御言葉を聴き続けたいと願います。
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