「神の国の秘密」

本城 仰太

       マルコによる福音書  4章 10節〜12節
イザヤ書  6章 1節〜13節
6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。
6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」
6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」

1.自分をどこに置いて聖書を読むか

 私たちが聖書を読む時に、いったい自分をどの位置に置いて聖書を読むのか、そのことはとても大事なことです。聖書を読んでいても、遠くから聖書の物語を眺めるかのように読む、そういう読み方もあるかもしれません。しかしその読み方だと、聖書に書かれているのは、あくまでも昔話であって、ちょっとだけ教訓を読み取るだけになってしまい、今の自分にとってはほとんど意味をなさないことになるでしょう。
 しかし聖書の登場人物に自分を重ね合わせるようにして読む、そういう読み方もあります。私たちのプロテスタント教会は特に説教することを大事にしてきました。もちろん聖書朗読もあります。中渋谷教会でも聖書朗読があり、説教者が聖霊を求める短い祈りをした上で、説教が語られます。聖書朗読だけでよしとはしない。今を生きる私たちに語られる言葉として、説教を聴くのです。
 ある教会で、福音書の連続講解説教を聴いていたある方が、こんな感想を牧師に寄せました。「自分もイエス様と一緒に旅に連れて行っていただいているような思いを抱きながら、毎週、説教に耳を傾けています」。そのように聖書を読み、そのように御言葉を聴くことは、とても幸いなことだと思います。

2.舟に乗っている者として

 このことを、本日、私たちに与えられた聖書箇所に当てはめて考えてみると、どうでしょうか。一〇節にこうあります。「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(一〇節)。ここに、「十二人」の弟子たちと「イエスの周りにいた人たち」という登場人物がいます。いったいこれは誰でしょうか。はっきりとは記されていません。しかしそこに意味があります。教会は自分たちのことを、ここに当てはめてこの聖書の言葉を読んできたからです。
 もう一つ、聖書から分かることを付け加えたいと思いますが、先週の聖書箇所はこの一つ前の箇所になりますが、最初のところにこうありました。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」(一節)。主イエスは舟に乗っておられた、まずそのことを覚えておきたいと思います。
 今日の聖書箇所で、一〇節のように始まるわけですが、主イエスは舟から降りられたのでしょうか。「イエスがひとりになられたとき」と書かれていますので、降りたのかと思われるかもしれませんが、はっきりとは書かれていません。先に進みましょう。来週の聖書箇所になりますが、一三節に「また、イエスは言われた」とあります。連続した続きの話です。二一節には「また、イエスは言われた」とあります。二六節にも「また、イエスは言われた」とあります。さらに三〇節には「更に、イエスは言われた」とあります。ずっと連続して話が続いていくのです。そして三三〜三四節です。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」(三三〜三四節)。
 ここで連続していた話が終わったかのように思えますが、こう続いていきます。「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(三五節)。同じ日の夕方の話です。そしてこう続きます。「そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(三六節)。「イエスを舟に乗せたまま」とあります。つまり、ずっと主イエスは舟に乗っておられる。十二人の弟子たちもそうです。「周りにいた人たち」もそうなのです。この箇所において、主イエスが舟から降りられずに物語が進んでいくのは、マタイやルカによる福音書には見られないことで、マルコによる福音書独特のものです。
 教会の人たちは、自分たちが主イエスと共に歩んでいると信じているわけですが、聖書に書かれている一つの表現で言うならば、主イエスと同じ舟に乗っているということです。礼拝堂の中の会衆席を、英語でnave(ネイブ)と言います。この英語の言葉の由来は、もともと教会が大事にしてきたラテン語の言葉で「舟」を表す言葉でした。会衆席はすなわち舟である。聖書の表現にしたがってそういう言葉が生まれたのです。
 今日の聖書箇所の話というのは、聖書の流れで言えば、舟に乗っていた時の話です。湖にいた群衆は聴くことができなかった話です。主イエスと一緒に舟に乗っていた人たちだけが聴けた話です。私たちも主イエスと一緒に舟に乗っている者として、今日の聖書箇所から御言葉を聴くことができるのです。

3.譬え話を聴く秘訣

 このことは、譬え話を聴く際の秘訣にもなると思います。どの立場で譬え話を聴くのか、それはとても大事なことです。福音書の中には、主イエスの語られたいろいろな譬え話があります。それらの譬え話は、けっこう激しいもの、私たちにとって厳しく聴こえるものも多いと思います。外の暗闇に投げ出され、泣き叫んで歯ぎしりをするだろう、とか、人々を右と左に分けて、右側の人に祝福が与えられるけれども、左側の人には呪いが下されるとか、けっこう厳しいものが語られていると思います。
 私が中渋谷教会の礼拝で初めて説教をしたのは、昨年六月のことです。まだ赴任前でした。その説教の当日に、確認したことが一つあります。それは、礼拝の終わりのところで、「派遣の言葉・祝福」があります。その際に、両手を挙げるのか、それとも片手を挙げるのか、ということです。「片手」という答えが返ってきました。その日も片手を挙げて、そして今でも片手を挙げて「派遣の言葉・祝福」をしています。どちらも聖書的な根拠はあります。ルカによる福音書の最後のところに、主イエスが弟子たちを祝福されて天に上げられることが書かれています。主イエスが手を挙げられた。複数形ですから、両手を主イエスが挙げられたことになります。これが両手を挙げる根拠です。片手はどうか。片手は右手になります。マタイによる福音書の第二五章に、人々を右と左に分ける話があります。右側が祝福、左側が呪いのわけですが、右手を挙げるということは、礼拝に出て祝福を受けている者は、すでに右側に置かれているという前提です。私たちはその前提で、この譬え話を聴くことができるのです。
 聖書を読む際に、自分をどの位置に置くかということをずっと考えてきました。先週の説教の感想を、何人かの方から伺いました。種を蒔く人の譬え、有名な譬えでしたので、いつもの週よりも反響が大きかったように思います。四種類の土地が出てきます。自分は実を実らせることができない最初の三つの土地のどれかで、「よい土地」の者ではないと思っていた、という声がけっこう見られました。
 しかし教会の人たちは伝統的に、自分たちは「よい土地」の者だと思ってこの譬え話を聴いてきましたし、今日の聖書箇所の「周りにいた人たち」は自分たちのことだと思って、御言葉を聴いてきたのです。もちろん、自分たちに優れたところがあるから、「よい土地」である、「周りにいた人たち」になれたというわけではありません。自分たちの力よりも、救い主である主イエスの力を信じた。その種蒔きを信じた。主イエスの蒔かれた種に与り続けている者として、御言葉を聴いたのです。

4.二つに分かれる

 その前提で、今日のマルコによる福音書の続きに進んでいきたいと思います。「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、【彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない】ようになるためである。』」(一一〜一二節)。
 普通、譬えというのは、話を分かりやすくするために用いられるものです。難しい話があれば、「例えばね…」と言って分かりやすく説明するためのものです。ところが主イエスはそれとは逆の意味で言われる。譬えを用いるのは、「外の人には」(一一節)分からなくするためのものだと主イエスは言われるのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第六章です。イザヤが預言者としての召命を受ける箇所です。天上の会議がなされています。イザヤの罪が赦されるという出来事があり、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ六・八)という神の問いかけに対して、イザヤが答えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(六・八)。イザヤに対して神は言われます。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」(六・九〜一〇)。
 これが、今日のマルコによる福音書の聖書箇所でも引用されている箇所になります。いつの時代であっても、神の言葉が語られ、それが聴かれるところにおいて、二つに分かれるということが起こってきました。聴く者と聴かない者、信じる者と信じない者の二つに分かたれるのです。イザヤの時代もそうでした。圧倒的多数の者たちが聴かない、信じない側に回ったわけですが、しかし二つに分かれたのです。
 イザヤ書のこの言葉は、マルコによる福音書だけでなく、新約聖書のいくつかの箇所で引用されています。マタイによる福音書の並行箇所でもそうですし、ヨハネによる福音書や使徒言行録でも引用されています。いずれもユダヤ人たちから反感を買い、信じる者と信じない者に分かれる箇所で引用されています。主イエスの時代も二つに分かれるということが起こりましたし、教会が始まったパウロの時代もそうでしたし、その後の時代もそうでしたし、今の私たちの時代もそうなのです。

5.聖書の難問に挑み続けるよりも…

 どうして二つに分かれるのでしょうか。その説明として、聖書が言っていることがいくつかあります。一つには、信じるか信じないかということは、聴いている側の人間の問題であるということです。しかしこれがすべてではありません。むしろもう一つ強調していることがあります。それは、そうなさっているのが神さまご自身であるということです。
 例えば、旧約聖書の出エジプト記の最初の方に、モーセとエジプトの王ファラオとのやり取りが記されています。イスラエルの民を去らせてくれ、とモーセはファラオにお願いするわけですが、ファラオの心が頑なで、なかなか去らせようとしてくれません。ファラオが自分で自分の心を頑なにしているかのように思えますが、聖書は神がファラオの心を頑なにさせた、と書いているのです。
 いったいどちらなのか、という難問が私たちの前に現れます。信じない人がいる。それでは信じない人は、その人が悪いのか。それとも神が信じないようにさせているのか。聖書にはどちらともとれるようなことが書かれています。聖書の難問の一つでしょう。
 けれども、私たちにとって大事なのは、この難問に挑み続けることではありません。そうではなく、私たちが舟に乗っていることを思い出すことです。なぜ私たちは舟に乗ることができたのか、なぜ信じることができたのか。それは私たちの功績か。それとも神がそうさせてくださったのか。主イエスがイザヤ書を引用しながらここで言われていることをひっくり返して考えてみると、舟に乗ることができたこと、主イエスの御言葉を聴くことができたこと、信じることができたこと、それらはすべて神からの賜物であるということです。私たち人間の力によってではありません。
 マタイによる福音書の今日と同じ話が記されている並行箇所には、さらにこのことを詳しく書いてくれています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ一三・一六〜一七)。

6.感謝して舟に乗り、伝道する

 聖書はまず私たちに、舟に乗ることができたこと、御言葉を聴くことができたこと、信じることができたこと、御言葉を聴き続けていること、それらを神からいただいた賜物として感謝すること、そのことを私たちに求めています。
 確かに舟に乗っていない者たちもいるかもしれません。それは事実です。しかしそうであるならば、私たちが舟に乗っている者たちとして、舟の上から網を下ろして伝道をして、舟の上に乗せることが大事になります。聖書はその明快の道を語っているのです。私たちだって、かつては舟には乗っておらず、舟の上にあげられたのですから。
 このことは、難問に躓いて足踏みしているよりも、ずっと大事なことです。まず、自分が舟の上に置かれていることを感謝すること、そして主イエスご自身も共におられる舟の上に一人でも多くの人に乗ってもらうことです。
 教会は最初期からこのことをきちんと受けとめてきました。マルコによる福音書を書いたマルコが生きていた教会においてもそうでした。マルコは誰かを切り離すために、この福音書を書いたのではないのです。むしろ教会に生きる人たちに、主イエスと同じ舟に乗っている「周りにいた人たち」であることを受けとめてもらうために、この福音書を書いたのです。自分たちは「周りにいた人たち」である、自分たちは「よい土地」の者たちである。主イエスの譬え話をそのように受けとめたのです。
 私たちも同じです。自分が優れているからそうしていただいたのではありません。ただ、神の賜物として与えられただけです。舟に乗せられた者として、聞く耳が与えられた者として、立ち帰って赦された者として、そのような神の国にはそのような赦しがあり、それに与っている者として、その秘密を知ることができた者として、私たちは歩んでいくことができるのです。
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