「百倍のリターン」

本城 仰太

       マルコによる福音書  4章 13節〜20節
 エレミヤ書 28章 1節〜17節
28:1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。
28:2 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。
28:3 二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。
28:4 また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
28:5 そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。
28:6 預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。
28:7 だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。
28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。
28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
28:10 すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。
28:11 そして、ハナンヤは民すべての前で言った。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。
28:12 預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
28:13 「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。
28:14 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」
28:15 更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。
28:16 それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」
28:17 預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。

4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」


1.ある牧師のアンケート

 ある牧師がアンケートを取りました。百人くらいの教会員から回答があったようです。どんなアンケートか。何の説明も加えることなしになされたアンケートですが、今日のマルコによる福音書の聖書箇所を読んで、あなたは一体どの土地だと思いますか、と問うたアンケートです。
 そのアンケート結果はどうだったのか。自分は「良い土地」ですと答えた人は、たった一人だけだったようです。しかしその逆に、最初の「道端」と答えた人も少なかった。数名ほどしかいなかったようです。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」(一五節)。アンケートに答えたのは教会に来ている人たちですから、御言葉がすぐに取り去られるとは実感していないようです。多くの人が、「石だらけの所」(一六節)か「茨の中」(一八節)と答えた。御言葉が与えられて、御言葉とかかわっている、一応、聴いているけれども、なかなか実を結ぶことができない、多くの人がそう実感しているようです。
 今日の聖書箇所を読んで、アンケート結果に表れているように、多くの人が自分は「よい土地」ではないと実感した。しかしこれは本当の聴き方ではないと、この牧師は言います。アンケートではたった一人だけでしたが、本当は皆が「よい土地」だと答えられるはずだ、その牧師はそう言うのです。
 別の言い方で言えば、自分が「よい土地」ではないと答えるということは、主イエスの力を見くびっているということになりかねません。あるいは主イエスの存在を消して、自分一人がぽつんと取り残されている状態でアンケートに答えてしまっていることになると思います。
 私たちが信仰を持つということは、私たちが何らかのことを信じていることです。何を信じているのか。主イエス・キリストを信じている。それはもう少し詳しく言えば、キリストが救い主であることを信じているわけです。それではキリストは何から救ってくださったのか。罪の中から救ってくださった。そのことを信じるのが信仰です。今日の聖書箇所の言葉で言うと、実を実らせることができなかったのを、主イエスのゆえに、実らせることができるようにしてくださった。それを信じることが信仰です。つまり、信仰者は信仰を持った者としての譬え話の聴き方があるということになります。

2.忍耐の末に

 今日の聖書箇所の終わりにこうあります。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(二〇節)。この実りは、いきなり実った実りというわけではありません。その前の実を実らせることができなかった土地の内容と合わせて考えるならば、忍耐の末の実りであることが分かってきます。 私たちの人生において、どうしても忍耐をせざるを得ない時が必ずあります。皆様にも心当たりがあると思います。もちろん私たちはあれこれと手を尽くします。しかしうまくいかない。何も解決することができない。もう何をしてよいか分からなくなる。その後に残されていることは、ただ忍耐することだけです。
 私は牧師として、同じ立場である牧師にお会いしてお話を聴くことが時々あります。特にもうすでに教会の牧師としては隠退された方からも、お話を聴く機会もあります。ある隠退牧師からお話を伺った時のことです。その話の大部分が、いわゆる苦労話でした。若い時にこんな困難を経験した。地方の教会ではこんなことが大変だった。私も同じ牧師ですから、少し気を許して話されたのだと思います。いろいろな話を聴かせてくださいました。
 今日の聖書箇所で特に興味深いのが、「御言葉のために艱難や迫害が起こると」(一七節)という言葉です。これは「石だらけの所」に蒔かれた人の話ですが、聖書は「御言葉のために…」よい人生を送ることができますとは言いません。そうではなく、「御言葉のために…」かえって「艱難や迫害が起こる」のです。信仰者になっていなかったら、牧師になっていなければ味わわずに済んだ「艱難や迫害」なのかもしれませんが、そのような時に、ただひたすら忍耐する。
 しかしこの牧師の話はこれで終わりではありませんでした。ひたすら苦労話だけをしたわけではなかったのです。九割方、苦労話でしたが、最後に晴れやかな顔をして、このように言われました。「それでもこのように生かされてきました」、と。
 また別の牧師の話です。こちらの牧師もすでに隠退されていますが、夫婦で牧師だった方々です。会堂建築の時の苦労話を伺いました。会堂を建てる。その必要があった。そういう計画を建てた。ところが資金が不足する。皆で祈りに祈って、献げ物を献げて、でもそれでも計画を達成するのが困難であった。そんな中、奇跡としか言いようのない様々な出来事を経て、不思議に道が拓かれて、会堂が建てられた。会堂という実りがあったわけですが、そこに至るまでの苦労話を伺いました。
 しかしこの牧師夫妻も同じでした。苦労一辺倒だけで話が終わったのではない。最後にこのように言われました。「でも、あの頃は楽しかったわね」、と。

3.エレミヤの土曜日の忍耐

 今ご紹介した二組の牧師は、まさに今日の聖書箇所の言葉を生き抜いた人たちです。忍耐の末の実りを知っている人たちです。そして何もこのことは牧師だけに限った話ではありません。キリスト者ならば誰もがすることができる歩みであり、誰もが振り返ってみて最後に言うことができる言葉なのです。
 キリスト者の実りというのは、そんなにすぐには実る実りではありません。アンケート結果にあったように、まるで私たちも最初の三つの土地であるかのようなことを経験しています。なかなか実らない。もう駄目だったとさえ思ってしまうことがある。しかしそれでも私たちは忍耐せざるを得ないのです。そのプロセスを経て、実りが与えられるのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書第二八章です。ハナンヤという偽預言者との対決が書かれています。ハナンヤは「二年のうちに」(エレミヤ二八・三)と言いました。二年のうちに、イスラエルにとって平和な出来事が起こるだろう、と言ったのです。人々はたとえ嘘であったとしても、そういう言葉を聴きたいものです。ところがそう言ったハナンヤは、今年のうちに死んでしまいます。エレミヤはその後も生き続けました。命が危うくなることも何度もありましたが、その後も忍耐を強いられながらも、生き続けたのです。
 エレミヤが預言者として召命を受けた時のことが、第一章に記されています。神からこのように言われて、預言者の使命に就きました。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ一・九〜一〇)。
 「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」という言葉が出てきます。ごく最近、『エレミヤ書を読もう』(左近豊、教団出版局)という本が出版されました。左近先生は旧約聖書学者として、また教会の牧師として、エレミヤ書を読むための有益な示唆を与えてくれる本です。左近先生がこの「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために」という言葉の間には「間がある」と言われています。「間」というのは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」の後に改行があって、次の行の「あるいは建て、植えるために」に続いていくわけですが、この改行の「間」のことです。
 エレミヤがどんな言葉を預言者として語ったのか。一方では「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」という言葉です。イスラエルの民も街もそのようになっていく。そしてそれが終わった後、「間」が空いて、「あるいは建て、植えるために」が続いていきます。歴史的に言うならば、この「間」は数十年間ということになります。
 しかし左近先生は続けてこう言われます。「飛躍して言えば…」という言葉を付け加えてですが、十字架の金曜日から復活の日曜日までの「間」でもあると言われるのです。主イエスの十字架での受難は金曜日の出来事です。土曜日という「間」を挟んで、復活の日曜日を迎える。エレミヤは土曜日を生きた人だと、左近先生は言われるのです。
 聖書はいきなり日曜日になるとは言いません。いきなり実りが与えられるとも言われないのです。そうではなく、土曜日がある。間に「間」を挟む。今日の聖書箇所の言葉で言えば、実りの前に忍耐があるのです。

4.百倍の実りとは

 今日の聖書箇所の二〇節にこうあります。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(二〇節)。
 ここで強調されているのは、百倍という言葉です。ルカによる福音書に同じ譬え話がありますが、そこでは三十倍と六十倍という言葉はなく、百倍だけです。また聖書学者が教えてくれますが、当時の農業としては、せいぜい数十倍がいいところで、百倍というのは驚くしかないほどの数字だったそうです。
 聖書の中に、百倍という表現が使われているところが何か所かあります。まず、創世記にこうあります。「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」(創世記二六・一二)。また最も優れたイスラエルの王であるダビデが、人口調査をせよという命令を下した時に、部下のヨアブという人物がこう言っています。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」(サムエル記下二四・三)。百倍というのは、神さまの祝福の結果であったり、祝福を願う際に言われている表現であることが分かってきます。
 新約聖書の同じマルコによる福音書の別の箇所に、百倍という言葉が出てきます。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(一〇・二九〜三〇)。
 ここでの百倍とはいったいどうことでしょうか。前半のところに捨てたもののリストが出てきます。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」です。後半のところに百倍の祝福を受けたものリストが出てきます。「家、兄弟、姉妹、母、子供、畑」です。どういうわけか、後半には「父」が抜けていますが、それを除けば、まったく同じものが出てきています。
 百倍になるとは何でしょうか。畑が百倍になるならば、面積が百倍になるかのようにも思えます。しかしそうではないでしょう。母も百倍になると主イエスは言われています。母が百人になるわけではありません。むしろ同じリストが並んでいることから考えると、同じ母であっても、百倍の祝福をもって受け取りなおすことができるということです。
 主イエスが与えてくださる実りもまたこれと同じことです。説教の冒頭でご紹介したアンケートを思い起こしていただきたいと思います。実を実らせることができない、そんな罪ある自分であることは、確かにその通りです。しかし、実らせることができなかった自分でしたが、実を実らせることができるようにしていただいた自分として、受け取りなおすことができるのです。そのように「よき土地」の自分として、自分を受け取りなおすことができるのです。おそらく、たった一人だけアンケートで自分が「よい土地」だと答えた方は、そういう思いで答えたのだと思います。その人だけの話ではありません。みんながそう答えることができるのです。
 私たちの人生、これまで歩んできました。その人生を変えることはできません。自分の人生としてはそのままです。しかし受け取りなおすことができます。この説教でご紹介をした隠退牧師たちもそうでした。困難の中で忍耐をしながら生きてきた。しかし、最後に「生かされてきました」、「あの頃は楽しかったわね」と言うことができる。その言葉に表れされている人生として、自分の人生を受け取りなおしたのです。

5.実りは「種を蒔く人」のもの

 このようにして、私たちは「よき土地」にしていただくことができました。私たちの「よき土地」から、百倍もの祝福の実りが実ることになります。この実りは、いったい誰のための実りでしょうか。純粋にこの譬え話を聴くならば、私たちは土地ですから、私たちが実りを得たり、実りを楽しんだりするわけではないでしょう。実りを得る人は、「種を蒔く人」であり、この畑の管理者です。
 主イエスのゆえに、私たちは「よい土地」にしていただくことができました。「建て、植える」そこから実りが生じます。エレミヤ書の言う「あるいは建て、植えるために」がこの畑においてなされていきます。主イエスが喜んでくださる実りが生じます。私たちはそのために用いられている「よい土地」なのです。
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