「神のヴィジョンを持とう」

本城 仰太

       イザヤ書 55章 8節〜11節
 マルコによる福音書  4章26〜34節
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


1.譬え話が分かるか?

 主イエスがお語りになった譬え話は、とても豊かなイメージがあります。聴いている私たちも、いろいろなイメージを膨らませ、あんなこと、こんなことを思うでしょう。
 しかし私たちは本当に主イエスの譬え話が分かっているでしょうか。私は牧師として、特に求道者の方と接する中で、「分からない」と言われることがあります。その方とお二人でお話をする時間があれば、「どこが分からなかったですか」と伺います。そうすると、実はその求道者の方はよく分かっている場合が多い。人間が罪人であることも分かる、私も罪人であることもよく分かる。その罪をイエス・キリストが代わりに背負って、罪を赦してくださる、そのことも分かる。その論理はよく分かるという答えが返ってきます。
 でもその先で、本当にそうなのか、というように戸惑ってしまう場合が多いのです。その論理は「分かる」けれども、果たして自分とかかわって来るのか。いまいち、ピンと来ない。そしてそのことが、「分からない」という言葉になるのです。求道者であった頃に、誰でも一度は引っかかったことがあるでしょう。
 今日の聖書箇所における譬え話も、イメージはとても豊かですし、譬え話それ自体はよく分かると思います。しかし今日の箇所の終わりのところで、このように記されています。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」(三三〜三四節)。主イエスは弟子たちにいったいどんな説明をされたのでしょうか。残念ながら、その内容までは記されていません。
 また、少し前の聖書箇所になりますが、主イエスがこう言われています。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(四・一〇〜一二)。群衆も譬え話を聴きました。豊かなイメージが心の中に沸いてきたかもしれません。譬え話それ自体もよく分かったかもしれません。しかし主イエスは、譬え話の持っている意味を分からなくするために、譬えで語ったと言われるのです。私たちも譬え話を聴いて、イメージを膨らませて、何となく分かったと思っているかもしれませんが、主イエスが意図されている本当の意味は分かっているのでしょうか。
 三四節に「すべてを説明された」とあります。日本語にはいろいろな翻訳の聖書があります。それらを読み比べてみると、たいていここでは「すべてを解き明かされた」となっています。「説明された」でも間違いではありませんが、「解き明かし」が必要なのです。今、私たちが聴いている「説教」が必要だと言い換えてもよいでしょう。譬え話は、何よりも主イエスの「解き明かし」が必要だと言うことが分かります。

2.神の国の譬え

 今日の聖書箇所には、主イエスの二つの譬え話が収められています。いずれも神の国を譬えています。「神の国は次のようなものである。」(二六節)。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。」(三〇節)。二六節と三〇節は、ほぼ同じ言葉でありながらも、微妙に違います。ある聖書学者が指摘していますが、三〇節の言葉遣いは、主イエスも少々考えながら、神の国を譬えたのではないかと言われています。二六節ではズバリこうだと言われていますが、三〇節では少々考えながら、譬え話を紡ぎだしている様子がうかがえます。
 神の国に関して、マルコによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちが忘れてはならない言葉があります。それは、この福音書の中で、主イエスの第一声ともなった言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(一・一五)。主イエスは、悔い改めたから神の国が近づいた、と言われているわけではありません。神の国がやって来たのです。だからこそ、悔い改めて福音を信じることが大事だと主イエスは言われます。ここでも主イエスは神の国とは何か、福音とは何かということは具体的に言われていません。今日の聖書箇所の三四節でも、「弟子たちにはひそかにすべてを説明された」とありますが、なぜ主イエスは何も明かしてくださらないのでしょうか。
 それは、主イエスのこれからの歩みを見なければ、神の国が分からないからです。この譬え話もそうです。主イエスのこれからの歩みを見なければ、この譬え話が分からないのです。神の国とは、神がおられるところ、神がご支配をされているところです。その神の国をどのようにもたらしてくださるのか、今日の聖書箇所以降の話が重要です。その線に沿って、私たちは「解き明かし」を聴かなければなりません。

3.「夜昼、寝起きしているうちに」

 そのことを踏まえて、譬え話に本格的に耳を傾けていきたいと思います。第一の譬え話です。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(二六〜二八節)。
 お気づきになられた方もあるかもしれません。「夜昼」「寝起き」となっています。そういう順番になっていることに注目したいと思います。些細なことでしょうか。案外、大事なことかもしれません。
 理由は二つ考えられます。一つは、ユダヤ人の習慣です。ユダヤ人と一緒に生活したことのある方から話を伺ったことがあります。ユダヤ人の時間感覚は、私たちとだいぶ違うところがあります。ユダヤ人は、日没と共に一日が終わり、新しい一日が始まると考えているのです。日本人は、朝日と共に一日が始まるという感覚があると思います。夜中の十二時になって、確かに日付的には古い一日が終わり、新しい一日が始まったということは分かっていますが、あまり新しい日が始まったとは思わないでしょう。夜休んで、疲れを取って、朝日と共に、新しい一日が始まったと思うのです。ところがユダヤ人はそうではない。日没と共に一日が終わって、新しい一日が始まる。新しい一日が始まって、さあ、寝るぞ、と思うところから始まる。そういう感覚はまるで違うのです。
 寝るというのは、私たちが最も無防備になる時と言ってもよいでしょう。ユダヤ人としては、自分がまどろんでいても、神がまどろむことなく、見守っていてくださるという信仰がありますから、夜に寝るということは、何よりも神に委ねなければならない、ということになります。「夜昼」「寝起き」となっている第二の理由がそこにあります。「夜」「寝る」ということが先になっているということは、私たちがまず委ねなければならないということになります。ですから、この譬え話は神に委ねるということが問われているのです。
 この譬え話を聴いて、確かにそうだと一方では頷きながらも、他方では、種を蒔いた後にもすべきことはたくさんあるではないか、そう思われている方もあると思います。水をやったり、肥料をやったり、いろいろな世話をするではないか。自分がそのように世話をするだけではなく、太陽の光を浴びたり、雨の水が降り注がれたり、種が成長していくためのいろいろな要因があるではないか、そう思われるでしょう。
 しかしこの譬え話はそんなことは言わないのです。「土はひとりでに実を結ばせる」(二八節)、これは英語で言う「オートマチック」という言葉です。人間の力によらず、自動的に実を結ぶ。不思議だなあと思っている間に、人間が「夜昼」に「寝起き」している間に実を結ぶのです。そういう思いも寄らぬ不思議な力、もちろんそれは神の力なのですが、私たちがそれに委ねることが問われているのです。

4.人間の思いを超えている神

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第五五章です。イザヤ書の後半は、イスラエルにとっての大事件、バビロン捕囚がすでに起こっている状況のことが語られています。国が滅ぼされ、主だった人たちが捕囚として異国に連れて行かれてしまう状況です。
 その時のイスラエルの民を支配している思いは、「もう駄目だ」というものでした。「神に見捨てられた」「もう今更、悔い改めても遅い」「もう駄目だ」という思いを抱いていたのです。ところが、今日お読みした箇所の直前のところに、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ五五・六〜七)とあります。あなたたちは「もう駄目だ」と思っているかもしれない。しかしそうではない。今すぐに悔い改めよ、赦していただけるから、という言葉を聴くのです。
 そして、今日の聖書箇所の言葉が続きます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ五五・八〜一一)。
 何もかも失ったイスラエルの民に、たった一つ残されたものが、神の御言葉でした。イスラエルの民は「もう駄目だ」と思い、それすら失ったと思ってしまったわけですが、失われていなかった。あとはこの言葉に委ねるだけです。それしか道はありません。何もできない。「寝起き」することしかできない。自分の思いを超えている。不思議だなあと思うことしかできない。しかしその神の御言葉に委ねることができるのです。まだ悔い改めることができる、まだ「ごめんなさい」と神さまに言って赦していただける。人間の思いを超えて、神が豊かな実りを備えていてくださいます。

5.空の鳥が巣を作る

 マルコによる福音書の二つ目の譬え話の方に進んでいきたいと思います。からし種の譬えです。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(三〇〜三二)。
 からし種が、木の一種であるよりも、「野菜」の一種であることを、マルコはきちんと知っていたことになります。このからし種は、種の大きさが一ミリメートルもくらいの小さなものです。それが、二メートルとか三メートルとか、人によって五メートルくらいになると言っている人もいるくらい、信じられないくらい大きく成長していきます。まさに不思議だなあ、という感覚の代表的なものです。
 三二節に「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とあります。いったいこれは何を言っているのでしょうか。単にからし種の成長のすごさを言っているのでしょうか。旧約聖書のエゼキエル書にこういう言葉があります。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」(エゼキエル一七・二二〜二三)。ここにも空の鳥が出てきます。ここでの空の鳥は、ユダヤ人以外の異邦人のことを表していると言われています。神さまにかかわりを持つのがユダヤ人だけではなく、この木とまったく関係のなかった空の鳥である異邦人までも、かかわりを持つと言うのです。
 なるほど、主イエスがこの譬えをお語りになりながら、異邦人のことも含めて語られているのかもしれません。主イエスがどこまで考えておられたかは、はっきりとしたところまでは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、その木とかかわりを持つようになることは確かです。その広がりがあるのです。

6.「球根の中には」

 この後、讃美歌二一の五七五番を歌います。「球根の中には」という讃美歌です。ナタリー・スリースというアメリカの女性の信徒の方が作られた讃美歌です。比較的新しい讃美歌で、一九八六年に作られ、あっという間に世界中に広まった、大変美しい讃美歌です。
 後で歌詞を味わいながら、歌っていただきたいと思いますが、この賛美歌も、様々な不思議だなあ、ということを歌っている讃美歌です。しかし不思議だなあ、というだけでは終わらず、神の力がその中に秘められているという信仰を歌っている讃美歌です。
 讃美歌を日本語に翻訳する場合、曲に合わせる必要もありますから、英語を寸分たがわず、そっくりそのまま日本語に翻訳することはできません。少しニュアンスが違ってくるところがどうしてもありますが、三番の歌詞を、私なりに英語から翻訳してみました。英語ではこういう歌詞です。「私たちの終わりの中に私たちの始まりがある、私たちの時間の中に無限がある、私たちの疑いの中に信仰がある、私たちの命の中に永遠がある、私たちの死の中に復活がある、ついに勝利があり、その時まで隠されていたものが〔明らかになる〕、神だけがご存知であることが」。
 日本語の三番の歌詞と比べて、いかがだったでしょうか。英語では「私たち」という言葉がはっきりと使われています。私たちの終わりがある、私たちの死がある。しかしそれでは終わりません。永遠があり、復活がある。「私たち」の歩みが、なぜそうなると言えるのでしょうか。なぜ終わりが永遠になり、死が復活になるのでしょうか。これを成り立たせているのは、キリストの死と復活があるからです。不思議だなあ、と私たちは思います。どうしてこんなに実を実らせることができない私たちに、永遠や復活という実りが与えられるのでしょうか。宿るところもなく、空をさまようように飛んでいた私たちでした。しかし、私たちが宿ることができるようにしてくださったのは神です。実ることができるようにしてくださったのも神です。だから私たちはこのような讃美の歌を歌うことができるのです。
 二九節にこうあります。「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(二九節)。讃美歌では「その日、その時は、ただ神が知る」と歌います。確かに「その日、その時」がいつなのかは私たちの知るところではありません。しかし「その日、その時」にどのようなことが起こるのかは、私たちに知らされています。実が実っているのです。神が刈り入れをされて、その実を喜んでくださいます。
 今日の説教の説教題を、「神のヴィジョンを持とう」と付けました。人間にはとても思いつかないヴィジョンです。しかし主イエスのゆえに、私たちが持つことができるヴィジョン、キリスト者が抱いている神の国のヴィジョンなのです。
マルコ福音書説教目次へ
礼拝案内へ