「向こう岸に渡ろう」

本城 仰太

       創世記  1章 6節〜10節
マルコによる福音書  4章35節〜41節
1:6神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

1.譬え話と奇跡物語

 ここしばらく、私たちは主イエスがお語りになられた譬え話に耳を傾けてきました。主イエスの譬え話は、神の国の譬えです。その一連の譬え話が終わり、本日、私たちに与えられる聖書箇所以降、神の国と非常にかかわりのある話が続いていきます。
 ある人が、マルコによる福音書のこの箇所を指して、こう言いました。「三つの譬え話の後に、四つの奇跡物語が記されている」。三つの譬え話というのは、この直前のところにある三つのものでしょうけれども、数え方によっては、四つとか五つとして数えることもできるでしょう。いずれにしても、いくつかの譬え話があり、その後に四つの奇跡の話が続けられることになります。
 今日の聖書箇所が第一の奇跡物語になりますが、もしタイトルを付けるとすれば、主イエスが嵐を沈める話ですから、「自然を支配される主イエス」とでも付けることができるでしょうか。来週の聖書箇所になりますが、第五章一節から二〇節まで、悪霊を追いだす話ですから、「悪霊を支配される主イエス」となるでしょう。その次の第五章二一節以下の箇所には、主イエスが病を癒され、死人を甦らせる奇跡が記されています。「病を支配される主イエス」、「死を支配される主イエス」とタイトルを付けることができるでしょう。
 自然、悪霊、病、死、これらの四つは、人間を苦しめるものです。人間はこれらの力の前にまったくの無力です。これらの聖書箇所には、四つの脅威の前に右往左往している、そんな人間の姿が描かれています。
 今日の聖書箇所の終わりのところに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(四一節)とあります。これらの力を前にして無力な人間たちの問いです。自然、悪霊、病、死を静めることができる、この方はいったいどなたなのかという問いです。今日の聖書箇所はその問いだけで終わっていますが、それらを支配される主イエスが救い主であるという答えが引き出されます。そしてこの救い主がおられるところ、この救い主の力が及んでいるところ、それがまさに神の国なのです。一連の譬え話と、一連の奇跡物語のつながりを、そのように考えることができます。

2.嵐の中で人間の罪が暴き出される

 主イエスが一連の譬え話を語られた直後のことが、今日の聖書箇所の最初のところに記されています。「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(三五〜三六節)。
 主イエスがずっと譬え話を語ってこられ、お疲れになられたのでしょうか。夕方になってから舟を出しましたから、もう夜の時刻です。主イエスは眠られます。「艫の方で枕をして」とあります。私たちが使うような枕などはなかったでしょう。単に体を横たえたのでしょう。舟のどの位置かということまで記されています。「艫」とは、船尾と訳されることもありますように、舟の一番後ろです。なぜ艫と書かれているのか。理由はよく分かりません。沈む時にはまずここが真っ先に沈んでいくからだと考えている人もいます。いずれにしても、主イエスは嵐の中、何事もなかったかのように、ぐっすり眠っておられるのです。
 嵐の中、弟子たちも頑張ったと思います。弟子たちの中にはガリラヤ湖の漁師もいました。自分たちがよく知っている湖です。時折、ガリラヤ湖周辺から突風が吹きつけてくることもよく知っていました。同じような経験をしたことがあったかもしれません。
 しかし今回はどうしようもなかった。そこで、眠っておられる主イエスを起こして言うのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(三八節)。弟子たちはこの言葉をどういう態度で言ったのでしょうか。普通なら、「先生、おぼれそうです、助けてください」、そのように懇願する形で言うべきでしょうけれども、この言葉には、主イエスに対する非難が含まれていると思います。こんなに困っているのに、どうして助けてくださらないのか、という非難です。
 聖書が言う人間の罪というのがどういうものなのかを知りたければ、今日の聖書箇所を読めばよく分かると思います。人間として生きている以上、私たちにとっての何らかの不都合が生じます。不都合それ自体が罪というわけではありません。不都合が生じた時の人間の行動や思いに、罪が現れる。神を非難するところに、そういう罪が現れるのです。
 例えば、十戒の中に「隣人の家を欲してはならない」(出エジプト二〇・一七)とあります。「隣の芝は青い」ということわざがあります。他人が持っているものをうらやんでしまう心が、私たちにあります。自分と他人を比べて、あの人はあれがあるのに、私にはこれがない、あれもない、そのようにうらやむ心が出てきます。そしてその心が、神に向かってしまう。神さま、どうして私が欲しいものを、あの人には与えておられるのに、私にはくれないのですか、そのように不平、不満が神に向かうのです。
 嵐の中でもこれは同じです。風も波もない状況ならば、何事もなかったかもしれません。しかしこのような嵐の中、弟子たちは必死に漕いでいるのに、私たちに手を貸してくださらないとはいったい何事ですか、そのように不平や不満を言ってしまう。嵐の中で、人間の罪が暴き出されてしまうのです。

3.「向こう岸に渡ろう」

 それでは、弟子たちはいったいどうすればよかったのでしょうか。嵐に右往左往して主イエスを起こして、罪に満ちた言葉を主イエスに投げかけてしまいました。その結果、嵐は静めてもらえましたが、明らかに主イエスに叱られてしまっています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(四〇節)。
 それでは、どうすればよかったのでしょうか。主イエスと一緒に眠ればよかったのでしょうか。それも違うでしょう。私たちは普段の生活の中でも、弟子たちと同じように、オールを漕ぐようにして舟に乗って進んでいます。どうせ主イエスがなんとかしてくださるのだからと言って、オールを捨てて寝込む、何もしないというようなことは、やはりふさわしくないでしょう。
 それでは、どうすればよいのでしょうか。オールを持って、必死に漕ぐことだと思います。嵐の中で主イエスが眠っておられる、それでも漕ぎ続けるのです。出発前に主イエスがこう言われました。「向こう岸に渡ろう」(三五節)。今日の説教の説教題になるくらい、大事な言葉です。これは主イエスの意志が込められた言葉です。この言葉をどう聴いたかが問われるのです。
 私たちも自分の意志を言葉で述べることがあります。例えば、家の中でこのようにしたい、家族に対して自分の意見を言葉で言うことがあります。しかしその結果、家族の誰も聞いてくれなかった、自分の言葉がちっとも実現しない、そんなことを経験することもあるでしょう。
 しかし主イエスは違うのです。主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われた。それが主イエスのご意志です。必ずそのようになるというお言葉です。弟子たちはいったいどこまでその言葉を聴き取ったことでしょうか。必ずそうなる、そう信じてオールを持って漕ぎ続けることができる言葉です。たとえ嵐の中であっても。嵐の中を左右する、とても大事な言葉です。

4.『平和とは何か』

 先週、一冊の本が私の手元に届きました。ブルッゲマンという旧約聖書学者が書いた『平和とは何か』というタイトルが付けられた本です。九月三〇日に発行されたばかりで、まだ全部は読んでいません。旧約聖書の中に「シャローム」という言葉があります。「平和」「平安」と訳される言葉です。聖書が語る平和とは何か。それはどのように実現されるのか。教会が果たすべき役割は何なのか。ブルッゲマンが属する教会のグループで、ブルッゲマンが講演会を重ねてきました。それらの講演会をまとめたものが、この書物です。
 「平和」という言葉は、いつの時代でも、どの地域であっても語られ、聞かれる言葉でしょう。そして大衆受けする言葉です。ブルッゲマンが属する教会のグループでもそうだと言います。平和が大事なのだと言えば、みんながそれに賛成してくれる、そういう言葉です。
 けれどもブルッゲマンは言うのです。「シャロームへの取り組みは、われわれの多くが激しく引かれたけれども、皆が激しく引き付けられたシャロームの取り組みはロマンティックなところがあって…」(五頁)。そしてさらに、そういうロマンティックな平和は短命に終わってしまったと言うのです。みんながすぐに飛びつくけれども、長続きはしなかったと言うのです。
 平和とは何でしょうか。どういう状況が平和でしょうか。ある画家が、平和についての絵を描こうとしました。まず描いたのは、穏やかな春の絵でした。植物が芽生え、新緑の香りがしてきそうな、そのようなのどかな絵を描いた。しかしこの画家はこの絵に納得しませんでした。ブルッゲマンが言うような、ロマンティックすぎるからです。
代わりに別の絵を描きました。すさまじい嵐の絵を描いた。しかしその嵐の中心にたった 一か所だけ、嵐から守られている場所を描いた。そしてこの画家は納得するのです。これが本当の平和だろう、と。
 聖書が言うシャロームというのも、まさにそういうところがあると思います。ブルッゲマンがこの本の中で、シャロームという言葉が用いられている箇所をいくつか挙げ、考察をしていきます。その考察の結果、ブルッゲマンはこのように言います。ネガティブな現在とポジティブな将来がある、と。ネガティブな現在とは、旧約聖書が書かれている現在の時代に、様々な困難や苦難がある。場合によっては絶望をしている。涙で枕を濡らすようなこともある。しかし聖書はそれでは終わりません。やがて、神が与えてくださる平和がやって来る。それがポジティブな将来ということです。聖書の言う平和とは、まさにそういうものだとブルッゲマンは言うのです。
 ブルッゲマンは、今日の聖書箇所の主イエスのお言葉も取りあげて考察しています。「黙れ。沈まれ」と主イエスは言われています。英語の聖書では、たいていBe quiet, be still(日本語と同じ意味)となっています。ところが最初のBe quiet(黙れ)という言葉、割合としては少ないかもしれませんが、Peace(平和あれ)となっている英語の聖書があるのです。ブルッゲマンは、もちろんこの言葉が「静かにせよ」という意味合いが強い言葉であることを承知の上で、Peace(平和あれ)と理解した方がよいだろうと言うのです。
 それはなぜか。本日、私たちに合わせて与えられた創世記第一章が根拠です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記一・二)とあります。「混沌」で秩序がなく、「水の面」がありました。そのような世界が、第二日目に秩序づけられていく。それが今日の旧約聖書の箇所です。「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」(創世記一・六〜一〇)。
 昔の人にとって、海とは恐ろしい所でした。旧約聖書にも書かれていますが、海の中に怪物のようなものがいて、人間の命が飲み込まれてしまうようなところと考えられていたこともありました。しかし神が言葉を発せられて、秩序が生まれていく。そのように自然が形づくられていく。
 その創世記第一章と同じことが、今日のマルコによる福音書の箇所で、主イエスによって起こっているのです。「黙れ。沈まれ」「平和あれ」と主イエスが言われたのです。あの画家が描いたように、人間を飲み込んでしまうような混沌の嵐の中であるかもしれないけれども、「平和あれ」という言葉通りにすることができる、その力をお持ちの主イエスが舟の中におられる。それが本当の平和なのです。

5.必ず向こう岸に着く

 私たちは一方で嵐を経験します。今もなお、嵐のような状況の中、オールを持って漕ぎ続けています。しかし、私たちが乗っている舟に、主イエスがおられます。眠っておられるかもしれません。しかし眠られる前に「向こう岸に渡ろう」と言ってくださいました。その御言葉がすでに与えられています。先週までに聴いた譬え話の文脈で言えば、御言葉の種が与えられているのです。その種を信じて、舟で眠っておられる主イエスを信じて、そのお言葉を信じて、嵐の中、舟を漕ぎ続けることができるのです。
 行く手には困難が待ち受けています。さらに多くの嵐が起こるかもしれません。主イエスが眠っておられるかのような状況が続くかもしれません。しかし主イエスは共におられる。必ず向こう岸に着く。神の国を信じて歩むとは、まさにそういうことなのです。
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