「神が私にしてくださったこと」

本城 仰太

       詩編 22章23節〜32節
              マルコによる福音書  5章 1節〜20節
22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31-32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

1.「主人交代物語」

 キリスト者には、それぞれの洗礼物語、洗礼を受ける際のストーリーがあります。私は牧師として、皆さまが洗礼を受けられた時のお話を伺うことがあります。十人十色です。若い頃の自分の罪に苦しみ、ようやくその思いから解き放たれた、そういう思いをもって洗礼を受けられる方があります。あるいは、何も分からずに洗礼を受けた、洗礼を受けて周りの方々から「おめでとうございます」と言われたけれども、いったい何がおめでたいのかよく分からなかった、そういう方もあります。あるいは、子どもの頃に親に教会に連れてこられ、そのまま自然と洗礼を受けた、そういう方もあります。
 それぞれの洗礼物語、ストーリーがあります。それらは同じではありません。けれども、皆に共通していることがあります。それは、洗礼を受けることによって、自分の主人が変わったということです。洗礼を受けても直ちに自分自身には何も変化が起こらないように思える、それは正直な思いかもしれません。しかし直ちに起こる変化があります。それが、自分の主人が変わるということです。
 私たち人間というものは、何らかのものに影響を受けながら生きています。自分がまったく自由に生きているようなつもりであっても、何らかのことに影響を受けている、それは誰も否定できないでしょう。もっとはっきり言えば、何らかのものに支配されているのです。そして、自分のことをよく省みてみると、多かれ少なかれ、何らかの悪いものに流されているところがあります。なぜまっすぐ生きることができないのか、なぜ愛に貧しいのか、なぜ人を簡単に傷つけてしまうのか、自分でもよく分からないうちに、気が付いたらそうなってしまっていることが多い私たちですが、なぜそうなってしまうのか。私たちが何らかの悪いものに流されてしまっているからです。聖書ではそれを「罪」と言います。聖書は私たち人間のことを「罪人」であり、もっとはっきり言えば、「罪の奴隷」であるとみなしています。自分の主人が「罪」であり、「罪」に支配されているのです。
 しかし洗礼を受けると、主人が変わります。今までは罪が自分の主人であり、罪の支配下にありました。しかしキリストの十字架によって罪が赦され、私たちはもはや罪の支配下にはいなくなった。イエス・キリストが主人になった。それゆえに、私たちは単に「イエス」と呼ぶのではなく、「主イエス」というように「主」という言葉をつけて、「主イエス」をお呼びするのです。主イエスが私たちの「主人」であるということです。洗礼を受ける際に、私たちそれぞれに「主人交代物語」があるのです。

2.悪霊に取りつかれた一人のゲラサ人

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の箇所にも、一人の人の「主人交代物語」が記されています。
 先週の聖書箇所になりますが、主イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」(4・35)と言われました。その湖で嵐が起こってしまい、主イエスがその嵐を静めてくださいました。今日の聖書箇所では悪霊を静めてくださる。次の聖書箇所では、病と死を静めてくださる話が続いていきます。
 このようにして向こう岸に渡って行かれた主イエスたちが到着したのは、「ゲラサ人の地方」(1節)です。この町はユダヤ人の町ではなく、異邦人の町でした。それゆえに、ユダヤ人が決して飼うことも食べることもない豚が登場しているということになります。
 そこへ、一人の人が主イエスのところにやって来ます。「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」(2〜5節)。この町の人たちが、悪霊に取りつかれた人を足枷や鎖でつないでおこうとしました。かかわりを持ちたくないからです。町の中に入って来てもらっては困るからです。墓場というのは、今の私たちが想像するような墓場というよりも、山の中腹に洞穴を掘って墓場にしていたようです。つまり空いている墓ならば、その洞穴の中に入ることができたというわけです。
 舟から降りた主イエスを出迎えたのは、たった一人のこのような人だったのです。主イエスと言葉のやり取りがなされます。主イエスが名をお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」(9節)という答えが返ってきます。「レギオン」というのは、ローマ帝国の軍団のことを意味します。ローマ帝国は地中海世界一帯に広がる広大な国でした。いくつもの軍団が点在し、国境の警備に当たっていることになります。一つの軍団の定員は六千人だったようですが、たいていの軍団は四千とか五千くらいの兵力で成り立っていたようです。ちなみに、豚の数が記されていますが、その数は「二千匹ほど」(13節)です。いずれにしても、それほどおびただしい数の悪霊どもに取りつかれていた人だったのです。
 主イエスとのやり取りの中で、この人はこう言っています。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)。「かまわないでくれ」、この言葉は、私とあなたの間にどんな関係があるというのだ、関係ないだろう、ほっといてくれ、という言葉です。悪霊どもは主イエスにそう願ったのです。
 私たちもかつてはそうだったかもしれません。主イエスに対して「ほっといてくれ」と言っていたかもしれません。イエスという男が二千年前に、歴史上は存在していた、そのことを知っていたかもしれないけれども、その男と私といったいどんなかかわりがあるのか、そういう思いを私たちも抱いていたところがあるでしょう。ところが洗礼を受けて、このお方とかかわりを持つようになった。今や「主イエス」とお呼びしている。それが今の私たちです。

3.主イエスとのかかわりが正常なのは?

 このようにして、この人の主人が変わっていきました。主イエスに悪霊を追いだしていただき、悪霊の支配から解き放たれて、このお方を主人にする歩みが始まっていったのです。この人は願います。「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」(18節)。
 ところが、その直前の17節にはこうあります。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」(17節)。町の人たちが「出て行ってもらいたい」と言い出したのは、豚の事件が起こったからです。一連の出来事にすっかり恐れをなしてしまったからです。だから、主イエスに「出て行ってもらいたい」と言ったのです。
 聖書には、けっこう皮肉なことが書かれていると思います。この悪霊に取りつかれた人は、町の人たちからは異常な人だと見られていました。だから足枷や鎖で縛っておいたのです。町の人たちは自分たちのことを正常だと思っていたでしょう。ところが、主イエスに悪霊を追いだしていただいて癒されたこの人は、主イエスとかかわりを持つようになりました。町の人は主イエスに「出て行ってもらいたい」と言い出したのです。つまり「かまわないでくれ」と言ったのです。私たちとあなたといったいどんなかかわりがあるのか、と言ったのです。悪霊に取りつかれていた人が言ったのと同じセリフを、町の人が言い出したのです。
 聖書にはこんな話も記されています。目の見えない人がいました。主イエスと出会い、主イエスの力によって目を開けていただき、見えるようになります。そして主イエスを信じるようになります。ところが、ずっと目が見えていた人たちが、一向に主イエスを信じようとしない。そんな皮肉な話が記されています。私たちも他人事ではありません。いったい何が正常なのか、そのことを考えさせられます。
 主イエスはこの人に対して、一緒に行くことを許されませんでした。その代わりにこう言われます。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)。今まで相手にされてこなかった家族や周りの人たちのところへ帰るように言われます。主イエスと出会い、主イエスに新たに造り変えていただき、新たな歩みが始まっていくのです。

4.詩編第二二編の詩人

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第22編の後半の部分です。この詩編第22編は、前半と後半でガラリと様子が変わるという特徴があります。
 前半は、この詩編第22編の詩人が味わった大きな苦難ばかりが記されています。そしてこの前半の内容は、実は主イエスの十字架と非常に深いかかわりがあります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」(詩編22・2)。この言葉は主イエスが十字架にお架かりになった時に言われた言葉と同じです。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。」(22・8)。これも主イエスが十字架にお架かりになった時に、十字架の周りにいた人たちがこれと同じ様子を示していました。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」(22・9)。この言葉も、主イエスが周りの人たちから浴びせられた言葉です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」(22・16)。主イエスも十字架上で渇きを覚えられ、「渇く」と言われました。「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」(22・19)。主イエスの着ていた服がはぎとられ、見張りをしていた兵士たちが、くじを引いてそれを自分のものにしました。そのような苦難のことが、前半のところを埋め尽くしています。
 ところが、22節から23節にかけて、この詩編の調子がガラリと変わるのです。「獅子の口、雄牛の角からわたしを救い、わたしに答えてください。」(22・22)、そう言ったのに、突然、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。」(22・23)となるのです。何が起こったのかはよく分かりません。大きな苦難があり、深い嘆きがありました。主イエスもその苦難と嘆きを十字架の上で負ってくださいました。そのような苦難と嘆きの中から、具体的なことは分かりませんが、救い出されたのです。
 そして最後のところに、こうあります。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(22・30〜32)。かつては大きな苦難と嘆きを経験しました。しかしそこから救い出された。そして、今、私はそのことを伝える。神が自分にしてくださったことを伝える、その生き方に徹しているのです。

5.「自分の家に帰りなさい」

 主イエスも、この詩編第二二編の詩人と同じように生きていきなさいと、この人に言ったのです。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)。
 「自分の家に帰りなさい」、この言葉は、マザー・テレサがよく言った言葉だと言われています。マザー・テレサは修道女です。インドのカルカッタへ派遣されて、そこでの修道女としての生活を始めます。修道女ですから、基本的には修道院の中だけで生活します。しかしマザー・テレサは、自分が生きているこの町、カルカッタの町の貧しい人が気がかりでした。どうしても助けたいという思いが与えられます。粘り強く、許可をきちんともらって、修道院の外へ出て行き、貧しい人たちを助ける働きをします。特に、道端で死につつある人を引き取って、せめて最期は安らかに息を引き取ることができるようにと世話をします。
 その活動がやがて有名になります。ノーベル平和賞まで受賞することになります。そんなマザー・テレサのもとに、世界中から多くの女性たちが訪ねて来ることになります。「あなたのようになりたい」「あなたのように生きたい」という女性たちに、マザー・テレサはしばしば言ったそうです。「自分の家に帰りなさい」、と。あなたが住んでいる家に、あなたが住んでいる町に、あなたの力を必要としている人たちがいるでしょう、それがあなたの生きていく場所だと、多くの人を諭し、家に帰したのです。
 今日の聖書箇所の終わりのところに、こうあります。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(二〇節)。この人は今までは墓場での生活でした。それが人々の間で生活をするようになったのです。与えられた場で、自分の使命に生きる生き方に徹するようになったのです。
 私たちの生き方もそこにあります。自分が主人になるように、自分を主語にして生きるのではない。そうではなく、主イエスを主語にして、主イエスが何を自分にしてくださったのか、そのように自分のことを語り、主イエスが与えてくださった生き方に徹すればよいのです。私たちそれぞれに生きる場が与えられています。そして主イエスが私の主人になってくださった。主イエスによって私が生かされている。私たちもそのように歩むことができる。まさに私たちの「主人交代物語」の結果なのです。
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