「病を支配する主イエス」

本城 仰太

       マルコによる福音書  5章 1節〜20節
              詩編 22章23節〜32節              
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


1.宗教改革記念日

 今月末の10月31日は、「宗教改革記念日」と呼ばれる日です。ドイツの一部地域では祝日になっているほどの日です。いったいどのような日なのか。今から五百年ほど前に、マルティン・ルターという人が、教会改革の引き金を引いた日です。正確に申し上げると、1517年のことになりますから、今から501年前のことになります。昨年はちょうど500周年だったわけですが、ルターは当時の教会の在り方に疑問を抱き、みんなで議論をするために問題提起をした。その日付が10月31日なのです。その問題提起をきっかけに大きな議論が巻き起こり、教会が改革され、プロテスタント教会が生まれていった。今日はそのような出来事が始まっていった日です。
 日本語では「宗教改革」と呼ばれています。しかし宗教改革というよりも、教会を改革した運動であると言った方がよいでしょう。英語でもReformation of Church(教会改革)と名付けられています。しかし今の私たちが想像する以上の変化が起こっていきました。教会だけでなく、政治面でも社会面でも大きくヨーロッパ社会を動かしていった、そのような出来事が起こったのです。
 このような改革の結果、いったい何が変わったか。いろいろな定義をすることができますが、ある人がこのように定義しました。「宗教改革とは、人間から権威を取り上げて、キリストにその権威をお返ししたことだ」、と。本当はキリストに権威があったはずなのに、その権威が人間に移されてしまった。ルターの目からすると、当時のカトリック教会にはそのようなところがありました。ルターは何よりもその問題提起をしたのです。そして改革の結果、再びキリストに権威をお返しした。ある人は宗教改革を、そのように評価したのです。
 この説教の後で、讃美歌二六七番を歌います。これはルターが作った讃美歌です。音楽の面においても豊かな賜物が与えられていたルターです。たくさんの讃美歌が残されています。今日は「宗教改革記念日」に近い日曜日ですから、ルターの讃美歌を二曲選びました。この後で歌う二六七番「かみはわがやぐら」は、ルターの讃美歌の中でも最も有名なものでしょう。後で歌詞を味わって歌っていただきたいと思いますが、二節はこのように歌います。「いかに強くとも、いかでか頼まん、やがては朽つべき、人のちからを。われと共に、戦いたもう、イエス君こそ、万軍の主なる、あまつ大神」。
 この讃美歌の歌詞からも明らかなように、ルターの決意は固いものがありました。当時のカトリック教会を批判して改革をしたのですから、当然、迫害を受けます。命の危機にもさらされます。改革を投げ出してしまおうと思うようなこともあったようです。しかし踏みとどまった。もう一度、人間の権威によってではない、主イエスの権威に立つ教会を建てよう、その思いがあったからです。

2.サンドイッチ構造

 本日、私たちに与えられた聖書箇所もまた、主イエスの権威を語っている内容です。今日の聖書箇所より少し前のところからになりますが、主イエスの奇跡の話が続いています。第四章の終わりのところには、主イエスが嵐を静められた話が記されています。自然に対する主イエスの権威の話です。第五章の初めのところには、悪霊を追い出す話が記されています。悪霊に対する主イエスの権威の話です。今日の聖書箇所には、病を癒し、死者を復活させる話が記されています。病と死に対する主イエスの権威の話です。
 主イエスがガリラヤ湖の向こう側から帰ってこられるところから、今日の話が始まります。「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」(21節)。その中の一人、会堂長ヤイロという人物が主イエスを迎えます。娘が病で死にそうなので、助けて欲しいと主イエスに懇願するのです。それから群衆の中に、「十二年間も出血の止まらない女」(25節)がいました。そういう二つの話が取り上げられているのです。
 聖書の解説をしてくれる注解書などを読みますと、このような書き方は「サンドイッチ構造」である、というような言葉に出会うことがあります。日本語で言えば、挟み込み構造とでも呼べばよいでしょうか。つまり、ヤイロの娘の話から始まっているわけですが、いったんそれが中断されるようにして十二年間も出血の止まらなかった女の話が途中で出てきて、そして再びヤイロの娘の話に戻っていく。そういうサンドイッチのような構造があるわけです。私たちがサンドイッチを食べる場合、サンドイッチのまま味わって食べます。サンドイッチを分解して、パンはパンだけ、具は具だけで食べる人はいないわけです。両者の話に共通点もたくさんありますし、何よりもこの福音書は読者にその味わい方をしてもらいたいと思っているのです。
 今日の説教の説教題を「病を支配する主イエス」と付けました。来週の聖書箇所は、今日と同じ箇所です。説教題は「死を打破する主イエス」と付けました。似たような説教題です。今日は主として十二年間も出血の止まらなかった女の話に焦点を当て、来週は主としてヤイロの娘の復活の話に焦点を当てていきますが、貫かれているのは、主イエスの権威です。病に対する権威、死に対する権威です。私たち人間は病と死に苦しんでいるわけですが、主イエスの権威は病や死に勝ります。このようなサンドイッチ構造を意識しつつ、御言葉を聴きたいと思います。

3.「癒す」と「救う」

 サンドイッチになっている二つの話の一つの共通点は、信仰、信じることです。いったい何が信仰なのでしょうか。十二年間も出血の止まらなかった女は、どういう状態だったのか。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(26節)。医療関係者には申し訳ないような言葉遣いですが、「多くの医者たちによって多くの苦しみを受け…」と書かれています。しかも全財産を費やしてしまった挙句、ますます病は悪くなっていく、そういう状態でした。
 では、この女にとっての信仰とは何だったのか。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」(27〜28節)。わざわざ鍵括弧が付けられていますが、それがこの女にとっての信じていることだったのです。
 「いやしていただける」とあります。続く二九節にも「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあるように、ここにも「いやされた」とあります。日本語にすると同じ言葉ですが、実は二八節と二九節は違う言葉なのです。二八節の言葉は、「救っていただける」と訳した方がよい言葉で、二九節の言葉は、「治った」と訳した方が分かりやすいと思います。
 そして後ろの34節に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」という主イエスのお言葉があります。これは28節と同じ言葉で、この通り「救った」という言葉です。つまりまとめてみますと、言葉遣いとしては、女は「救い」を求めます(28節)。その結果、「治ります」(29節)。そして主イエスが「救い」の宣言をしてくださいます(34節)。そういう流れになっているのです。
 このことから、信仰とは何かを考えることができます。信仰とはいったい何でしょうか。私たちが求めているものがあります。それぞれ、切実な求めがあります。病気を抱えた方は、その病の癒しを求めるでしょう。この女にとっても同じでした。十二年間も願い続けてきたこと、それは病が癒されることでした。しかし自分が思っていた以上のことが起こります。
 この女のように、病からの救いだけを求める、それは不十分な信仰なのでしょうか。決してそうではありません。この女は多くの医者にかかりました。しかし駄目でした。人間の力は潰えたのです。そこで最後の手段として、主イエスにすがりました。このお方しかいない、そういう思いでした。これが信仰なのです。事実、主イエスもこの女を群衆の中から探し出し、「あなたの信仰があなたを救った」とまで言われたのです。

4.病の中で聴くべき言葉

 十二年間も出血の止まらなかった女の癒しの話は、サンドイッチの真ん中の25節から34節までですが、この話の前半が癒される前の話で、後半が癒された後の話になります。聖書の奇跡物語の特徴の一つでもありますが、癒された人物あるいは周りにいた人物たちが、どのように変わったのかということが必ず記されています。この話は、癒された後の話がけっこう長く続きます。単に癒されました、よかったですね、幸せに暮らしました、という話では終わらないのです。
 主イエスに出会って、どのように変えられたのでしょうか。教会は、二千年間、伝道を続けてきました。しかし癒しを宣伝して、伝道をしてきたわけではありません。教会に来れば、あなたの病が癒されるなどとは言わない。そんな力ももちろんありません。教会に来ている人だって、病になります。病に苦しみます。そして死の現実の前に苦しみます。事実その通りです。この女と同じように癒されるわけでもないのです。しかしそれでも教会は、この奇跡物語を聴き続けてきました。なぜでしょうか。私たちの誰もが聴くべき言葉があるからです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34節)。
 これはとても大事な言葉です。この言葉を言うために、主イエスはこの女を群衆の中から探し出したのです。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」(30〜32節)。このように弟子たちもいぶかるほどに、主イエスが異常なまでにこの女を探し出そうとしたのです。私たちにとっても、病や死との闘いにおいてこそ、聴かなければならない言葉なのです。

5.「派遣の言葉・祝福」

 この癒された女は、恐れながらも、ありのまますべてを話します。そうすると主イエスから言われたのは、「安心して行きなさい」という言葉です。「安心して」でもよいのですが、元の言葉をそのまま訳すと、「平和のうちに」という言葉です。
 中渋谷教会の礼拝の最後のところで、「派遣の言葉・祝福」があります。この言葉は、聖書の言葉から成り立っています。「願わくは主があなたがたを祝福し…」というのは、旧約聖書の民数記第6章24〜26節の言葉、イスラエルの民に対する祝福の言葉です。「主イエス・キリストの恵み…」というのは、新約聖書のコリントの信徒への手紙Uの第13章13節の言葉です。使徒パウロがこの手紙の最後のところで祝福の言葉を記しています。
 このような言葉と並んで、「派遣の言葉・祝福」の最初のところに、「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」と言います。これはどこの言葉なのか。聖書にそっくりそのまま同じ言葉があるわけではありませんが、主イエスがここで言われている「安心して行きなさい」(34節)という言葉に、少し言葉を足して、「派遣の言葉」にしているのです。
 礼拝の最後に私たちは「派遣の言葉」を聴きます。私たちの生活のリズムは七日ごとのリズムです。一週間の生活を終えて、日曜日、教会に集い、神に礼拝を献げます。そして礼拝から再び一週間の生活へと派遣されます。病との闘いを抱えておられる方にとっては、再びその闘いの場へと戻らなければならないことになります。その他にもいろいろな闘いがあるでしょう。その闘いに出かけていくにあたり、毎週、この言葉を聴いて派遣されていくのです。
 この癒された女は、その後は同じ病にかからなかったとしても、違う病になることもあったかもしれません。しかし医者を恨んだりした生活はしなかったでしょう。全財産を使い果たしましたが、それでもいつまでもそのことは引きずらなかったでしょう。最終的には死を迎えたわけですが、平和のうちに死を迎えたのだと思います。主イエスと出会い、主イエスのお言葉をいただき、健やかに歩んだのです。その歩みは、私たちの歩みでもあります。
 主イエス・キリストの権威とは、まさにこの言葉を言うことができる権威があるということです。病の癒しの権威であり、それは救いの権威、平和の権威です。主イエスだけが救いの宣言、平和の宣言をすることができます。五百年前のルターをはじめとする改革者たちがどうしても取り戻さなければならなかった権威です。主イエスの救いと平和の宣言が、私たちの歩みを健やかなものにするのです。
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