「死を打破する主イエス」

本城 仰太

       マルコによる福音書  5章21節〜43節
              詩編 48章15節              
48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神。死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


1.福音書の復活の奇跡

 新約聖書には四つの福音書があります。なぜ四つなのか。それはよく分かりません。神さまの導きによってそうなったとしか言いようがないことです。五つでも六つでもなかった。また、一つだけでもなかった。四つになった。それぞれの福音書が違う角度から同じ出来事を観ていると言えます。イエス・キリストが私たちの救い主であるということをそれぞれが伝えています。
 福音書には、様々なことが書かれていますが、主イエスのなさった奇跡の話も記されています。病気を癒す奇跡だったり、自然現象に対する奇跡だったり、様々なことが記されています。その中に、死者を生き返らせる奇跡があります。しかしその数は決して多くはありません。
 福音書の中に記されているキリストが死者を甦らせる奇跡は三つです。本日、私たちに与えられた聖書箇所に記されているヤイロの娘の復活が一つです。それから、ルカによる福音書第七章に記されている、ナインという町にいた、あるやもめの一人息子を復活させる話。それから、ヨハネによる福音書第11章に記されている、マルタとマリアという姉妹の兄弟であるラザロを復活させる話。その三つです。
 この三という数を、多いと考えるでしょうか、それとも少ないと考えるでしょうか。今日の話であるヤイロの娘の復活の話は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して記されています。ヨハネにはありません。代わりにヨハネではラザロの復活の話があります。ルカにはヤイロの娘の復活に加えて、ナインのやもめの一人息子の復活の話があります。つまり、ルカでは二つ、他の福音書では一つだけです。どの福音書も必ず死者の復活の奇跡を伝えてはいますが、一つか二つだけです。決して死者の復活の奇跡話を乱発しているわけではないのです。
 そしてどの福音書も必ず伝えていることは、主イエスの十字架と復活です。これがどの福音書においてもクライマックスとなる出来事です。主イエスは死者を生き返らせることができる力を持っているお方です。そのお方が死なれる出来事、しかも十字架で苦しんで死なれる出来事、それが福音書のクライマックスです。いったいそれは何を意味するのでしょうか。
 死は私たちの前に必ず立ちはだかるものです。誰もそこから免れることはできません。人間として生まれたからには必ず死ななければならない。イエス・キリストというお方は、神の子でありながら、死者を復活させることができる力をお持ちでありながら、人間として生まれて私たちのところに来てくださり、病の中、死の中に自ら飛び込んでくださいました。病や死の中で悩み、苦しんでいる私たちを救うためです。そのように、病や死を乗り越える救い主、主イエス・キリストのお姿を、今日の聖書の言葉から聴いてまいりたいと思います。

2.二つの出来事の重なり

 先週の説教でも申し上げたことですが、今日の聖書箇所の構造としては、サンドイッチのようなところがあります。先週もまったく同じ聖書箇所を朗読しました。先週は主にサンドイッチの中身である真ん中の箇所から、「十二年間も出血の止まらない女」(25節)の癒しの話から御言葉を聴きました。今日はサンドイッチのパンの部分、外側であるヤイロの娘の復活の話を中心に、御言葉を聴きたいと願っています。
 サンドイッチのようになっている二つの話には、当然のことながら共通点がいくつかあります。サンドイッチですから、一緒に味わうことが求められているわけですが、共通点の一つが十二という数字です。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。」(25節)。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」(42節)。
 十二という数字は、聖書によく出てくる数字でもあります。完全数とも呼ばれることがあります。旧約聖書を読むと、イスラエルには十二部族あったことが記されています。創世記にアブラハムという人が出てきますが、その孫にあたるヤコブという人に、息子が十二人いました。その十二人からイスラエル十二部族が生まれていったのです。また、新約聖書を読むと、主イエスの弟子が十二人であったことが記されています。新約聖書には、十二人以外にも、もっと多くの弟子たちがいたことが示唆されていますが、やはり数字としてはこの十二にこだわっているわけです。
 十二という完全数。十分に長いということも表しているのだと思います。一人の女性は、十二年間も病を患ってきました。もう一人の少女は、生まれて十二年間育ちました。しかし今、命の危険にさらされて、死にかかっている。同じ十二年間です。その二人の話が、サンドイッチのように交差しているということになるのです。
 この少女の父親はヤイロという会堂長でした。主イエスに娘の癒しを願い、主イエスを自分の娘がいる家にまでお連れすることにした。主イエスもそれに応じてくれました。しかしその道中、一刻も早く自分の家に主イエスをお連れしたかったヤイロでしたが、中断されてしまうことになりました。ヤイロはこの時、何を思ったでしょうか。心の中で「早くしてくれ」と思っていたと思います。主イエスが出血の止まらない女のことを、どうしてもこだわって群衆の中から見つけ出そうとして、貴重な時間を費やしてしまいます。主イエスがその女に声をかけて対話をし、やはり貴重な時間を費やしてしまいます。そして、その女と対話をしている最中の出来事でした。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」」(35節)。ヤイロにとっては、なんともやりきれないような心の内だったと思います。
 ヤイロはいったい何を信じていたのでしょうか。主イエスに来てもらえれば、娘は治る、助かるのだと思っていたことでしょう。しかしそのためには主イエスに来ていただかなくてはならない。遠隔治療は不可能だと思っていた。そして死んでしまえば一貫の終わりだと考えていた。そして恐れていたことが起こった。娘が死に飲み込まれてしまう、その現実を突きつけられたのです。

3.「中断」

 ヤイロはその時、どうしたのでしょうか。ヤイロの家から遣わされてやって来た人々の言葉はとても冷静です。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(35節)。ヤイロ本人の様子は記されていませんから、よく分かりません。しかし主イエスのお言葉からすると、何らかの恐れを抱いていたのだと思います。「「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた」(36節)。
 今日の聖書箇所には、語り掛ける主イエスのお姿が描かれています。十二年間も出血を患っていた女にも、足を止めて、どうしてもこだわって、語り掛けられました。呆然と立ち尽くしているヤイロに対してもそうです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。そのように語り掛ける、それが主イエスのお姿です。
 ある牧師が、「今日の聖書箇所には「中断」がある」と言っています。「中断」は私たちの人生につきものです。何らかの目標や目的があり、私たちはそれに向かって一応は歩んでいます。それが意図しないで中断されてしまうことがあります。そのように言った人は牧師です。説教の準備をするという目的に向かって進んでいるときに、しばしば「中断」させられる。そしてこのように言います。「私はいつも仕事が妨げられるといって不平不満を言い続けてきた。そしてようやくわかった。私が妨げられることが私の仕事であると」。私も牧師として考えさせられる言葉です。おそらく皆様にとっても同じでしょう。私たちの人生につきものである「中断」をどう捉えるかです。
 主イエスは喜んで「中断」を受け入れられました。そもそもヤイロの娘のところに行くのも、主イエスにとって「中断」でした。主イエスはご自分の旅をされていた。そんなところに、会堂長のヤイロから請われて、ご自分の旅をしばし「中断」されてまで、その娘のところに行こうとされた。その道中、十二年間も出血の止まらなかった女を探し出すために、やはり「中断」された。
 大事なのは、主イエスが「中断」して、何をしたかということです。十二年間も出血の止まらなかった女に声をかけ、この時もまた恐れを抱いているヤイロに声をかけておられる、ということです。「中断」によって、人格的な対話が生まれていく。その人にどうしても必要な言葉が語られていく。今日の聖書箇所にはそのような特徴があるのです。

4.恐れている者たちに出会う主イエス

 主イエスとは、まさにそのようなお方です。福音書で伝えられているのは、主イエスが十字架へ向けて、エルサレムへ向けて進んでおられるお姿です。主イエスは決してぶれることなく、道を外して別方向に進んでいかれることなく、十字架へ向かわれます。
 しかし旅の途上、しばしば中断して人と出会ってくださいます。思いがけないことで中断させられることもありますし、主イエス自らが進んで中断しているかのように思える場面もあります。そのように中断して、多くの人と出会い、人格的な対話をしてくださる。もちろん、ご自分の目標を見失うことがないというのは、言うまでもないことです。
 会堂長のヤイロに声をかけ、主イエスが向かった先では、こんな状況が待ち受けていました。「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て…」(38節)。多くの聖書学者が指摘していることですが、当時、人が死んだ際には「泣き女」と呼ばれる人がいたそうです。どんなに貧しくても、最低でも二人はそういう「泣き女」がいたと言う聖書学者もいるくらいです。まして会堂長の娘ですから、たくさんの「泣き女」がいたのかもしれません。
 確かにそういう人もいたでしょうけれども、やはり当事者のヤイロやその家族、親しかった人は違ったと思います。何よりもヤイロは恐れを抱いていました。何を恐れていたのでしょうか。絶望感に打たれた恐れでしょうか。それとも自分の娘が神に打たれてしまったというような恐れでしょうか。自分もまた死に飲み込まれるという恐れでしょうか。具体的にはよく分かりませんが、死に対する人間の根源的な恐れを主イエスはヤイロの中に感じ取っておられたのでしょう。
 主イエスが出会ってくださるのは、そういう人たちです。十二年間も出血の止まらなかった女もそうでした。自分の身に起こった出来事に恐れを抱いた。しかし主イエスが出会ってくださいました。ヤイロも恐れました。しかし恐れを抱いている人間のところに主イエスが赴き、出会ってくださいました。主イエスが「中断」をしてくださったからです。

5.「タリタ、クム」

 本日は、召天者記念礼拝を行っています。ここにいるほとんどの方、いやすべての方がそうだと思いますが、愛する家族や友が召された、そのような経験をしておられることでしょう。教会で葬儀がなされます。しかしその葬儀の席で、今日の聖書箇所に書かれているような、ヤイロの娘と同じ奇跡が起こるわけではありません。葬儀の場で、いきなり死者が息を吹き返して、私たちがびっくりするような出来事が起こる、教会の人たちはそんなことを信じているわけではありません。
 けれども、この奇跡物語と同じ出来事が起こらないにもかかわらず、教会の私たちはこの物語を聴き続けてきました。主イエスがご自分の歩みを中断されてまで、語り掛けてくださる言葉を、大事な言葉として教会は聴き続けてきたのです。
 「タリタ、クム」という言葉、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という解説までなされていますが、これは主イエスが話されていたアラム語という言葉の響きをそのままの記しているのです。その点では、私たち祈りにおいて使っている言葉「アーメン」も同じです。世界中の言葉で、微妙な発音は異なるところがあるかもしれませんが、誰もが「アーメン」と祈りをしているのです。本当に、その通り、という意味ですが、そのままの響きを大事にしている。この「タリタ、クム」もそれほど大事な言葉なのです。
 この言葉に促されて、少女は生き返ります。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」(42節)。主イエスが語り掛け、その言葉に応えた少女の様子が記されています。主イエスがその歩みを中断してまで、死の現実の中に飛び込んでくださり、声をかけ、起き上がらせて歩ませてくださる。
 教会はその言葉を聴くことができる場です。死、病、罪を乗り越えて、私たちの歩みを進めることができる力を、主イエスからいただくのです。至るところで主イエスは中断してくださいます。私たちのところでも中断してくださいます。そして私たちを起き上がらせる言葉を聴かせてくださる。私たちはその主イエスと出会うことができるのです。
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