「杖一本の旅路」

本城 仰太

       出エジプト記  4章 1節〜20節
              マルコによる福音書  6章 6節b〜13節
4:1 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、
4:2 主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、
4:3 主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。
4:4 主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。
4:5 「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」
4:6 主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。
4:7 主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。
4:8 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。
4:9 しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」
4:10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
4:11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
4:12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
4:13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。
4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
4:16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
4:18 モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」
4:19 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」
4:20 モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

1.巡礼歌、詩編一二一編

 今月の月間の讃美歌は、301番です。「やまべにむかいて」という讃美歌です。私の前任地の松本の教会で、よく歌った讃美歌でもあります。私の在任中だけでなく、もうすぐ百年の歴史を数える教会ですが、最初期の頃から好んでよく歌われた讃美歌です。
 松本というところは、松本平という広い平地がありますが、その四方は山に囲まれています。特に西には北アルプスの山々が見えます。今の季節ですと、もう山の中腹以上は白い雪に覆われていると思いますが、四季折々、様々な美しさを見せてくれる北アルプスの山々がある。そのふもとに建てられた教会として、雄大な山々を造られた神を覚え、「やまべにむかいて」の讃美歌を歌ってきた教会です。そのような歌い方もまた、この讃美歌の一つの歌い方だと思います。
 この讃美歌は、詩編第121編をそのまま讃美歌の歌詞にした讃美歌です。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(詩編121・1〜2)。
 この詩編には表題が付けられています。「都に上る歌」です。詩編の第120編から、「都に上る歌」シリーズが始まっていき、第134編まで続いていきます。都とはエルサレムの都のことです。イスラエルの人たちは、しばしばエルサレムに巡礼に出かけ、そこで礼拝をしていました。そのような時に歌を歌った。それが「都に上る歌」シリーズです。
 そして、巡礼は巡礼でも、出発前の時もあれば、エルサレムに到着した時もあるし、エルサレムから帰宅していく時もあるわけです。この詩編第121編は、これから出発する時の歌です。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。」(詩編121・1)。目の前には山がそびえたっています。この巡礼者は、これからの旅の道のりに不安を覚えているところがあります。山々を眺めて、その美しさや雄大さに心を打たれる余裕などなかったかもしれません。無事にエルサレムにたどり着けるだろうか。私の助けはどこから来るのか。私の助けはあの山々からではなく、そういう山々をお造りになった神から来るのだ、そのように歌っている信仰の歌です。
 あるいは、こうも言えるかもしれません。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。」(詩編121・1)。目の前には山がそびえたっています。これからあの山々を越えて、エルサレムに向かわなければならない。この場合も山の雄大さなど考えている余裕はなく、山々は乗り越えていかなければならないものです。その旅路が守られるように、神にそのように願っている信仰の歌なのです。
 私たち人間の歩みも、このような旅になぞらえて考えることもできるでしょう。人生は旅である。平坦な道ばかりではありません。巡礼者たちが越えていった山路のような険しい道もあります。まさにそれが私たちの人生の旅路です。私たちもいつでもこの讃美歌を歌う必要があるのです。

2.十二弟子が旅に遣わされる

 本日、私たちに与えられた聖書箇所もまた、旅に関することが記されています。主イエスの十二人の弟子たちはどのような人たちだったのか。第3章13節以下に、十二弟子たちのことが記されています。「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(3・16〜19)。
 第3章のこの箇所で十二人の弟子たちが選ばれて、その後はずっと主イエスに従っていく歩みでした。主イエスがなさることを見たり、主イエスが語られる言葉を聴いたり、特に目立った活躍などはありませんでした。しかしこのタイミングで、主イエスから伝道の旅行に派遣されることになります。
 今日の聖書箇所の最初のところに、「付近の村」(6節)とあります。「付近の村」とは、いったいどこのことでしょうか。先週の聖書箇所には、主イエスがお育ちになったナザレの町での話が記されています。故郷であったがゆえの弊害があり、主イエスの伝道がうまくいきませんでした。そのナザレの「付近の村」です。伝道がうまくいかなかったナザレを包囲するように、その周りでは成功を収めたのが今日の話です。
 しかも弟子たちによって、成功がもたらされます。5節のところには、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と記されています。主イエスが「おできにならなかった」。ところが今日の聖書箇所にはこうあります。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(12〜13節)。主イエスが「おできにならなかった」ことを、弟子たちは行うことができた、少なくとも言葉の上ではそのように読むことができます。
 誤解を恐れずに言えば、教会の人たちにとって、十二弟子たちが派遣された話というのは、大きな慰めになったと思います。主イエスが何をなさったのか。主イエスは、世界伝道はなさいませんでした。その代わり、主イエスにしかできないことをしてくださいました。私たちの代わりに人間の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださり、私たちの罪が赦される道を拓いてくださった。今日の聖書箇所の12節にこうあります。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」(12節)。弟子たちがするのはそこまでです。悔い改めさせることです。罪を認めさせ、ごめんなさいと言わせることです。ごめんなさいと言っても、罪が赦されるかどうかはまた別の話です。そして実際の罪の赦しは主イエスが与えてくださいます。それは主イエスの権能に属することです。
 しかし、主イエスが行ってくださったこと、主イエスの十字架と復活、人間の罪の赦しの御業を周囲に伝えること、「付近」に伝えるのは、弟子たちの働きであり、教会の私たちの働きによるのです。その意味で、この話は大きな慰めだと思います。そのために私たちは用いられるのです。

3.旅の持ち物

 伝道旅行に遣わされるにあたって、主イエスは旅の持ち物について語られています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」(8〜9節)。
 同じ話が、マタイによる福音書とルカによる福音書にも記されています。読み比べると、持ち物についての違いがあります。マタイでは、履物も杖も持って行ってはならないと命じられています。本当に何も持たないのです。ルカでは、杖を持っていくなと命じられています。ルカでは十二人が遣わされる話の他に、七十二人が遣わされる話もあります。そこでは履物も持っていくなと命じられています。このように他の福音書と比べると、マルコは特に杖一本を強調していることが分かります。
 私が伝道者になったばかりの頃、ある牧師から色紙が送られてきました。その色紙には、こう書かれていました。「今日からは杖一本の公生涯」。公生涯というのは、公の生涯ということですが、特に主イエスが人々の前に姿を現し、伝道をされて以降のことを「公生涯」と言います。伝道者もまた主イエスに倣い、公生涯なのだとその牧師は言われるわけですが、持ち物は「杖一本」だと言うのです。マルコによる福音書の今日の聖書箇所から取られた言葉です。
 伝道者として、杖一本だけでなく、もっと違うものが欲しいと思うようなことがあるかもしれません。牧師や伝道者でなかったとしても、教会生活をしていれば、そのように思うこともあるでしょう。これが欲しい、あれも欲しいとか、こんなことができる人材が欲しいとか、杖以外にもっと与えられないかと思うこともあるでしょう。
 マルコによる福音書では、杖や履物は許されているわけですが、しかしほとんど何も持って行ってはならないことには変わりはありません。袋も持って行ってはならない。袋とは、持ち物やもらった物を入れておくためのものです。袋がなければ、本当にその日暮らしをしなければなりません。帯の中の金も、いざという時に、食料や着物を買ったりすることができるわけですが、それも許されない。10節には、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」とあります。最初に受け入れられた家に留まる。しばらくその町で過ごしているうちに、もしかしたら違う家も受け入れてくれるようになるかもしれません。その時に何が起こるか。今いる家と、受け入れてくれそうな家と比べてみて、待遇がよさそうな方を選びたくなります。しかし主イエスはそれを禁じておられる。最初のところに留まれ、待遇のよい家へ異動するな、ということです。これらの主イエスのお言葉からして、かなり厳しい旅路が予想されそうです。
 そんな中、杖を持って行け、と主イエスは言われます。杖とは、例えば険しい道を歩くときに役立つものです。あるいは獣に襲われたり、追いはぎに襲われた時に身を守る最低限の武器になるものです。しかし杖の意味は、それだけではありません。

4.モーセの杖

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記の第4章です。イスラエルの民はエジプトで奴隷生活を強いられていました。その奴隷生活を抜けて故郷に帰るために、モーセがリーダーとして立てられようとしていた時の話です。モーセが自分の力不足から、なかなかそれを引き受けようとしない、そんな神とのやり取りの様子が記されています。
 第4章2節のところに、杖という言葉が出てきます。モーセが何気なく持っていた杖だったかもしれません。「主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると…」(出エジプト4・2)。モーセの手元にあったその杖一本が用いられます。この杖をめぐって不思議な出来事が起こります。けれどもモーセとしては、こんな杖一本では足りないと思っているわけです。モーセも、これがない、あれがないと言い続ける。自分は口が達者ではないから、人々のリーダーに立つことなど到底不可能だと神に言います。ついに神が怒られ、しかし口下手なモーセに対して、アロンという人物が備えられます。モーセは杖一本だけかと思っていましたが、本当に必要なものが備えられていくのです。
 アロンはモーセの口として、モーセと二人三脚の歩みを続けていきました。旧約聖書の民数記に、「アロンの祝福」と呼ばれる祝福の言葉があります。アロンの口を通して、イスラエルの民が祝福を受けていたその言葉です。中渋谷教会の礼拝の最後のところでも、「派遣の言葉・祝福」がありますが、「祝福」の言葉として、「アロンの祝福」と同じ言葉を告げています。そういう言葉を告げる人物が、モーセに与えられたのです。
 モーセとアロン、二人一組です。旧約聖書において、また新約聖書においてもそうですが、二人一組というのは、案外、重んじられています。一人だけではなく、二人の口から証言した方が、その証言が確かなものになりますし、何よりも伝道をするための仲間が与えられるということを表しています。神がすべてを備えてくださるのです。

5.新たな歩みが始まっていく

 ある聖書学者がさらに指摘していることですが、杖一本の旅路というのは、弟子たちにとって新たな出エジプトになった、と考えることもできます。出エジプトの決定来な出来事が、出エジプト記の第14章に記されています。ここには、葦の海を渡る話が記されています。イスラエルの民は、エジプト王のファラオの許可を何とか得て、故郷に向かっての旅を始めたばかりでした。しかし心変わりしたファラオが軍隊を率いて追ってくるのです。目の前は海です。後ろはエジプトの軍隊です。絶体絶命のピンチに陥ります。その時に神が言われます。「主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」」(出エジプト14・15〜16)。ここにも「杖」が出てきます。そして、モーセは実際にその通りにします。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」(出エジプト14・21〜22)。
 このようにして、海の中に道が拓かれ、イスラエルの民はその乾いたところを渡っていくことができました。イスラエルの民が渡り終えると、海の水が元に戻り、エジプトの軍隊は飲み込まれてしまいます。イスラエルにとって、もう追ってくるものがいなくなったことになります。本当に解放されたのです。そしてそれだけではありません。もうエジプトに戻る道はふさがれました。退路は断たれたのです。戻れない、そして戻らなくてもよい。それが水の中を通って、新しいものになるという道です。
 イスラエルの民にとって出エジプトの水の中を通って救われるという出来事は、決定的に重要なものでした。そしてそれはイスラエルの民だけでなく、キリスト教会の私たちにとっても決定的に重要なことです。水の中を通って救われる、それは私たちにとって、洗礼の出来事に結びつきます。私たちにいつまでもまとわりついてくる罪があります。どこまでも追いかけてきて、それから逃れることができなかった私たちです。しかし海の中に飲み込まれたように、罪もまた飲み込まれてしまった。私たちにとって、罪がいつまでも追いかけて来るその出来事は過去のものになりました。もう退路は断たれたのです。もう戻る必要がないのです。新しい旅路の出発は、洗礼の水の中を通ることによって始まっていくのです。
 十二人の弟子たちにとっても、もちろん水の中をこの時に通ったわけではありませんが、新しい出エジプトに等しい出来事だったと、この聖書学者は考えるわけです。モーセに重なるような杖一本の旅路、その旅路がモーセと同じように、神によって守られたのです。

6.困難が待ち受けていようとも…

 キリスト教会はこの話を、十二弟子だけのための話としてではなく、自分たちも同じように主イエスから遣わされる話として受けとめてきました。主イエスが地上ではなさらなかった世界に向けての伝道を、主イエスに遣わされて、教会の私たちが担っていくのです。
 私たちが出掛けていく先は、どのようなことが待ち受けているでしょうか。しかも私たちの手には杖一本しかありません。困難が待ち受けていることでしょう。主イエスは、誰も受け入れてくれない場合の対処方法を教えてくれました。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11節)。
 足の塵を払うというのは、その人に対して関係を断つというような行為です。伝道の厳しさを表す言葉でもあります。しかし弟子たちにとって、ずっとそのような町に留まって伝道を続ける必要はないのです。責任は負い続ける必要はない、新しい所への歩みが始まっていきます。主イエスがその責任を担ってくださるからです。
 主イエスの十字架直前の場面になりますが、ルカによる福音書が主イエスと弟子たちとの間のこんなやり取りを記しています。「イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと…」(ルカ22・35)。今日の聖書箇所にも書かれているように、弟子たちの結果はこうでした。私たちの結果も同じです。杖一本だけでしたが、すべての必要が満たされるのです。


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