「よき羊飼い、キリスト」

本城 仰太

         エゼキエル  34章11節〜16節
              マルコによる福音書  6章30節〜44節
34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
34:12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
34:13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
34:14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。
34:15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

1.アドヴェント

 教会の暦では、アドヴェントに入りました。今朝、教会に来られて、教会の様子もアドヴェントらしくなった、そう思われた方も多いと思います。クリスマスを待ち望む季節です。アドヴェントのことを日本語では「待降節」と言います。待つという漢字を使います。クリスマスの日付を知っているからこそ、アドヴェントの期間が決まっていて、来るクリスマスを「待つ」ことができるのです。
 しかし「アドヴェント」という言葉には、実は「待つ」というよりも「来る」という意味があります。向こうから主イエス・キリストが来られる、それがクリスマスです。主イエスが来られるというのが元来のアドヴェントの意味で、その来られる主イエスを私たちが「待つ」期間がアドヴェントということになります。
 主イエスは何のために来られるのでしょうか。主イエスは救い主です。私たちを救うために来られます。それではどうして私たちを救ってくださるのでしょうか。主イエスが来てくださるその原動力は何でしょうか。本日、私たちに与えられた聖書箇所の表現で言えば、私たち人間を深く憐れんでくださったからです。今日の聖書箇所のキーワードは「深く憐れみ」(34節)という言葉になります。その心があったからこそ、クリスマスの出来事が起こったのです。

2.群衆が押し寄せる

 さて、今日の聖書箇所の話は、どのような状況で起こったのでしょうか。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(30節)。主イエスの一二人の弟子たちが伝道旅行に派遣されていました。その旅行を終えて、主イエスのところに帰って来て報告をしているのです。
 伝道旅行がいったいどのくらいの期間だったかは分かりませんが、弟子たちも疲れを覚えていたことでしょう。主イエスも気遣ってくださいます。「イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(31節)。そのようにして弟子たちは休息を取ることになりました。「そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」(33節)。 そのように人のいないところへ移動していくわけですが、思惑通りにはなりませんでした。「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」(33節)。舟で人がいないところに着いてみると、群衆がすでに待ち受けていたのです。主イエスがずっと群衆に追いかけられる状況が続いてきましたが、今や弟子たちも追われるようになったのです。
 そこで主イエスはどうされたか。疲れている弟子たちのことを気遣って、群衆を追い返されたか。そうはなさいませんでした。主イエスご自身が群衆の相手をしてくださいました。今日のキーワードが出てくる34節です。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(34節)。

3.憐れみの心が主イエスの原動力

 主イエスが群衆の相手をしてくださったのは、この深く憐れむ心があったからです。それが主イエスの原動力です。この「深く憐れむ」という言葉は、元の言葉では人間の内臓を意味する言葉です。心が痛くなる、あるいは「はらわた痛い」などと言いますが、もしもその人を放っておいたら、自分の内臓が痛くなってしまう。そのような意味があります。それほど強い感情を表す言葉なのです。
 この言葉は、福音書の中で何度か出てくる言葉ですが、いったい誰が憐れみの心を持つのか。神や主イエスが憐れんでくださる。神や主イエスにしか使われていない言葉です。例えば、主イエスが病の人を憐れんでくださる。群衆を憐れんでくださる。そういう形で使われています。
 唯一の例外と言える可能性があるのが、譬え話ですが、善いサマリア人の譬え話です。ある人が追いはぎに襲われて半殺しの状態になってしまいます。エルサレムの神殿で礼拝する仕事をしている祭司が通りかかりますが、道の向こう側を通って行ってしまいます。祭司の手助けをするレビ人も通りかかりますが、やはり道の向こう側を通って行ってしまいます。そこへ、善いサマリア人が現れます。この善いサマリア人は、旅の途中でしたが、その旅を少し中断して、半殺しにされた人を助けます。いったいなぜ助けることができたのでしょうか。聖書に書かれている理由はたった一つです。この善いサマリア人が「その人を見て、憐れに思い…」(ルカ10・33)。理由はそれだけです。深く憐れんだから、それが善いサマリア人を動かした原動力です。
 これは譬え話です。何らかのことが譬えられています。善いサマリア人は誰のことを譬えているのでしょうか。まずは主イエスご自身のことなのでしょう。主イエスが深く憐れんでくださり、助けてくださる。そして私たちも「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37)と求められているのです。
 私たちが生きているこの世の中は、果たしてどう動いているでしょうか。何がこの世を動かしているでしょうか。人を思いやる憐れみの心でしょうか。残念ながらそうだとは言えません。富の力が人を動かし、富の力によって人は動かされています。権力が人を動かし、権力によって多くの人たちが動かされています。あるいは、人情から動く人もいますし、世話をしてもらったからという理由で動く人もいます。周りからの自分の評価が気になって、動かざるを得ないという場合も多いでしょう。
 しかし神が動かれる理由は、これとはまるで違います。原動力は憐れみの心です。なぜクリスマスの出来事が起こったのでしょうか。なぜアドヴェントという言葉が表しているように、主イエスが来てくださったのでしょうか。それは私たち人間のことを、深く憐れんでくださったからです。神ご自身のはらわたが痛いほどに、私たちのことを深く憐れんでくださったからです。

4.羊を養う主イエス

 このようにして主イエスが群衆を憐れんでくださり、羊たちである群衆の相手をしてくださいました。しばらく時間が経過した後、おそらく気を利かせた弟子が、主イエスにこう言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(35〜36節)。しかしこれに対して主イエスは言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。
 ある人が、今日のこの奇跡の話は、あまり切羽詰まった状況ではない、と言っています。どういうことでしょうか。例えば、主イエスが弟子たちと一緒に舟に乗っていた時に、嵐に遭います。舟が沈みそうになります。切羽詰まった状況です。そのような状況の中、主イエスが嵐を静める奇跡を起こされることによって、危機を救ってくださる。これは切羽詰まった状況でした。また、十二年間も病を患っていた女性がいました。医者も誰も助けることができなかった。それを主イエスが癒してくださったのです。あるいは、会堂長の娘が死にそうになっていた。最後の望みとして、主イエスに来ていただいて、治してもらう。いずれも切羽詰まった状況でなされた奇跡でした。
 しかし今日の話はどうでしょうか。夕暮れ時になり、そろそろ切り上げなくてはならない。群衆たちは主イエスや弟子たちを慌てて追ってやって来たのですから、大半の人がお弁当など持っていないわけで、「イエスさま、そろそろ群衆を解散させないと、みんなお腹が空いてしまいますよ」と言ったわけです。お腹が空くのはもちろん困るわけですが、空腹のあまり直ちに死んでしまうような状況ではなかったはずです。
 でも、主イエスの目には、切羽詰まった状況だったのです。改めて34節をお読みします。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(34節)。主イエスの目に群衆がどう映ったか。飼い主のいない羊として映りました。ご自分のはらわたが痛いほど、深く憐れまざるを得ないほどの状況に映ったのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エゼキエル書第34章です。本来ならばイスラエルの民を養わなければならない羊飼いたちがいたはずでしたが、羊飼いたちは羊たちを養わなかったのです。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」(エゼキエル34・8)。
 そこで、神自らが牧者になってくださることが言われています。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」(エゼキエル34・11〜12)。神ご自身が羊たちを深く憐れんでくださるのです。
 アドヴェント、クリスマスの到来とともに、今年も終わりを迎えようとしています。今年もあと一か月残されていますが、いろいろなことがありました。相変わらずの争いがあり、不寛容があり、また多くの災害も頻発しました。神はこの世界をご覧になって、何を思われているでしょうか。なんとも思われないのでしょうか。高みの見物をされているのでしょうか。そうではありません。神は私たちを深く憐れんでおられる。その心をお持ちなのです。

5.あふれる恵み

 今日の聖書箇所に戻りますが、主イエスの憐れみの心がなおも注がれます。群衆を解散させることはない、あなたがたが養いなさい、と主イエスは言われます。弟子たちは現実的にものを考えています。「二百デナリオン」(37節)というのは、一デナリオンが一日分の賃金ですから、二百日分の賃金です。男だけで五千人、女や子供を含めると倍くらいには膨らんだでしょうけれども、それだけの人を養うパンなど用意できない、と主張するのです。
 主イエスは群衆の中にある食料を確認させます。五つのパンと二匹の魚です。そして、39節にこうあります。「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。」(39節)。まさに羊たちを養うように、「青草」に座らせるのです。そしてこのような結果になっていきます。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」(41〜42節)。
 この奇跡の話は、単にお腹が満たされてよかったですね、という話ではありません。弟子たちも群衆も、主イエスの尽きることのない恵みを味わいました。特に弟子たちはそうです。「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。」(43節)。十二人の弟子たちが一人一籠ずつ持って集めたからでしょうか。十二の籠がいっぱいになりました。たった五つのパンと二匹の魚でした。それが主イエスによって、こんなにも大きく用いていただいたのです。その恵みの重みを、籠の重さで感じていたでしょう。
 今日のこの奇跡の話というのは、四つの福音書すべてに記されている話です。実は四つの福音書すべてに共通している話というのは、案外、珍しいのです。もちろん十字架と復活は、それが中心点なので、どの福音書にも共通に記されています。しかしそれ以外だとどうでしょうか。クリスマスの話も、マタイによる福音書とルカによる福音書のみです。マルコによる福音書には記されていません。しかしこのパンと魚の奇跡は、四つすべての福音書に記されています。それだけ、多くの恵みを味わった奇跡なのです。一人の人だけが癒されたのではなく、みんなが一度に多くの恵みを味わったのです。
 これから聖餐に与ります。恵みの溢れる食卓です。どんなに多くのキリスト者が生まれて、どんなに多くの人が聖餐に与ろうとしても、この恵みが不足することはありません。今もなお、この奇跡の話は生き続けている。私たちの教会においてもそうなのです。
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