「逆風の中でも」

本城 仰太

         詩編 107編23節〜32節
              マルコによる福音書  6章45節〜52節
107:23 彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。
107:24 彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。
107:25 主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので
107:26 彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け
107:27 酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。
107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
107:32 民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


1.私たちの人生は強いられた人生

 私たちの人生は強いられた人生です。先週の長老会で、こんな話をいたしました。私たちキリスト者の人生は、三行で表すことができる、と。三行とは何でしょうか。いつ生まれたか、いつ洗礼を受けたか、いつ死んだか、その三行です。
 葬儀の時に、故人略歴を作ることがあります。私たちの略歴は何行になるでしょうか。人によってはいろいろなことを書くかもしれません。しかし何よりも大事なのがこの三行です。他のことはたいして重要ではないと言っても過言ではありません。
 第一行目のいつ生まれたか、これは自分では決められないことです。私たちが願って生まれたわけではなく、はっきり言ってしまえば、強いられて生まれさせられたのです。第三行目のいつ死ぬのか。ある程度の寿命とかは分かるかもしれませんが、いつ、どのような形で私たちが死ぬのか、それもよく分かりません。私たちは死ぬことを強いられるのです。
 第二行目のいつ洗礼を受けたか。これは自分で選んだかのように思うかもしれません。しかし果たして本当に自分の意志だけで洗礼を受けたのでしょうか。あなたはなぜ洗礼を受けたのか、その理由を尋ねられると、どうも私たちは自信をもって答えることができません。それもそのはずです。主イエスも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)と言われます。この言葉から考えますと、第二行目の洗礼もまた、私たちが選んだのではなく、不思議なことかもしれませんが、ある意味では強いられて洗礼を受けさせられたということになります。
 この三行に代表されるように、自分の人生、本当に思い通りにならないものです。子どもの時に、あんな大人になりたい、こんなことを将来したいと思うものです。しかしなかなかそれは実現しません。思い通りにならないのです。仮になったとしても、それは本当に自分の意のままに何でもなってきた、というわけではないでしょう。強いられることも多かったはずです。私たちの人生、多くの逆風が吹きつけ、思い通りにならず、強いられた人生を送らなければなりません。

2.湖の真ん中と山の上の断絶

 本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初に、こうあります。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。」(45節)。
 今日の聖書箇所の状況を、少し説明しておきましょう。主イエスの十二人の弟子たちが伝道旅行に派遣されて、帰ってきました。主イエスが休息をとらせてくださろうとしましたが、群衆が押し寄せてきます。先週の聖書箇所は、その群衆たちを解散させず、五千人以上の人たちをたった五つのパンと二匹の魚で満腹にさせます。
 そして「それからすぐ」(45節)、今日の聖書箇所に入り、主イエスは弟子たちを「強いて舟に乗せ」(45節)、向こう岸に渡らせるのです。主イエスはお一人になられ、群衆を解散させ、祈るために山に登られます。「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(46節)。
 そして続く箇所にこうあります。「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」(47節)。弟子たちは舟に乗って、湖の真ん中にいました。主イエスは陸地に、しかも山の上におられました。両者がかなり対照的な場所に置かれていたことが、強調されています。
 ガリラヤ湖という湖は、そこそこ大きな湖です。海と表現されることもあります。縦長の形をしていて、横幅は一三キロ、縦幅は二一キロ、一周すると五三キロメートルある湖です。その真ん中に弟子たちの舟がいたということになります。陸地からは数キロから十キロくらい離れていたでしょうか。主イエスは陸地に、しかもそれほど高い山というわけではないでしょうけれども、山の上におられました。この辺りの地理からすると、両者は最も断絶している場所にいたということになるでしょう。すぐに駆け付けるためには、最も不都合な場所にいたということにもなるでしょう。両者にはそういう絶対的な隔たりがあった状況だったのです。

3.断絶を乗り越えて主イエスが来られる

 教会の暦では今、アドヴェントの期間です。今日はアドヴェント第二主日、アドヴェント・クランツの四本あるろうそくに二つ灯がともっています。クリスマスを前にした季節がアドヴェントですが、クリスマスの出来事もまた、神が絶対的な隔たりを乗り越えて、向こうから来てくださった出来事でもあります。
 先週の説教でもお話しましたが、アドヴェントというのは、日本語では「待降節」と言い、私たちが「待つ」ことが強調されています。しかしアドヴェントのもともとの意味は「来る」という意味でした。主イエスが向こうから来られることです。私たちにとっては「待つ」ことであり、主イエスにとっては「来る」こと。この二つが重なり合うのがクリスマスです。
 私たち人間の側から神さまへは近づけませんでした。私たちは神さまがどのようなお方なのかということを、よく理解できませんでしたし、神がおられる山に登ろうとしても、私たちは登れませんでした。絶対的な断絶があったからです。山を登るどころか、私たち人間が谷底まで転落してしまった、そう言った方がよいかもしれません。
 私たちは「待つ」ことしかできません。動くことができない。湖の真ん中で逆風のために立ち往生してしまった弟子たちのようです。そんな待つことしかできなかった私たちのところに、神が来てくださった。主イエスが神として、天地の絶対的な隔たりを乗り越えて来てくださった。いや、むしろ降りてきてくださった。クリスマスの出来事は、本日の聖書箇所の出来事と重なり合うのです。

4.出エジプト記との重なり

 山の上におられた主イエスが、山を降りられ、なんと湖の上を歩いて来られます。「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」(48節)。
 ある人が、このように言っています。「この聖書箇所には、出エジプト記の様々なことが織り交ぜられている」、と。つまり、今日の聖書箇所は、出エジプト記に出てくる様々なことと重なると言うのです。いったいどういうことでしょうか。全部で四つの点を申し上げます。
 第一に、弟子たちが主イエスに助けていただいて、湖の向こう側へ渡ったことです。出エジプト記には、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民が、文字通り「出エジプト」をする、エジプトを脱出して自分たちの故郷へ帰る話が記されています。その最大のクライマックスが、エジプトを脱出した直後に訪れます。エジプトを去ってもよいという許可をいったんは与えたエジプトの王ファラオでしたが、すぐに気が変わって、軍隊を派遣してイスラエルの民を連れ戻そうとします。イスラエルの民にとっては、目の前が海、後ろからはエジプトの軍隊、絶体絶命のピンチになります。そんな危機からどのように救われたのか。海の水が左右に分かれ、水の中を通って、イスラエルの民は救われたのです。弟子たちもまたこの時、水の中を通って向こう岸まで渡ったのです。
 第二に、主イエスが「通り過ぎようとされた」(48節)ことです。湖で立ち往生してしまった弟子たちのところを、主イエスが通り過ぎようとされたとは、いったいどういうことか、まるで主イエスが知らん顔されているかのようで、理解に苦しむと思われるかもしれません。この「通り過ぎる」という言葉も、出エジプト記で使われています。「モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」」(出エジプト33・18〜23)。少し長い箇所を引用しましたが、モーセのそばを神が「通り過ぎる」ということが言われています。神が本当にここにおられることを示している言葉です。
 第三に、今日の聖書箇所の五十節のところで、主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われています。「わたしだ」という言葉、出エジプト記の言葉で言えば、「わたしはある」と同じ言葉です。「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」」(出エジプト3・14)。これも神が本当にここにおられることを表している言葉です。
 第四に、今日の聖書箇所の五一節で、弟子たちの「心が鈍くなっていた」という言葉があります。鈍くなる、頑なになっているということです。出エジプト記では、イスラエルの民の心は、常に頑なでした。海の中を渡って、旅を続けていくイスラエルの民ですが、お腹が空いては文句を言い、のどが渇いては文句を言う、神さまのことをしばしば信じることができなくなってしまう頑なな心がイスラエルの民にはありました。その心と同じなのです。

5.頑なな心が打ち砕かれる

 このように出エジプト記は、エジプト脱出の物語でもありますし、別の言い方をすれば、人間の頑なな心との闘いの物語でもあります。その頑なな心が打ち砕かれていくのです。マルコによる福音書の言葉で言えば、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(52節)、そのような心が打ち砕かれ、次第に変えられ、柔らかくなっていくのです。
 マルコによる福音書には、弟子たちの無理解の様子が多く記されています。それがこの福音書の特徴でもあると言われています。今日の聖書箇所がまさにそうです。五二節に弟子たちが無理解だったということが、わざわざ書かれています。やがて私たちが御言葉を聴くことになる箇所ですが、第八章一四節以下にもこうあります。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」(8・14〜21)。この中に出てくる「心がかたくなになっている」という言葉も、同じ言葉なのです。
 中渋谷教会では説教の前に、短い祈りをしています。これから御言葉を聴くにあたって、神の導きである聖霊を求める祈りをしているわけですが、私はしばしばこのような祈りをします。「私たちの頑なな心を、柔らかな心にしてください」。人間の心ほど厄介なものはないと思います。頑なな心になってしまうと、何も受け入れようとしません。そんなことあるはずがない、どうせこうだろう、と決めつけて思ってしまう。何も受け付けない心になってしまうのです。
 そのような私たちの心を主イエスは嘆いておられます。私たちがそのままでよいはずがありません。だからこそ、主イエスは頑なな心を嘆かれ、その心を打ち砕いてくださいます。だからこそ、主イエスはクリスマスの時に来てくださいました。だからこそ、主イエスは弟子たちを強いられるのです。頑なな心を柔らかくしてください、それは私たちの祈りです。

6.喜び、感謝、讃美へ

 私たちの人生は強いられた人生であると、この説教の冒頭で申し上げました。それは確かにその通りかもしれませんが、キリスト者である私たちは、自分の人生の受けとめ方が変わってきます。強いられた人生から、導かれた人生へと変わっていくのです。そのように受けとめることができるようになるのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一〇七編です。詩編第一〇七編の一部を今日は朗読いたしました。全体を読めばすぐ分かることですが、同じ言葉が繰り返されています。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。」(詩編107・28)、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩編107・31)。何らかの苦難が起こり、神に助けを求める。そうすると苦難の中から救われる。しかしそれで終わりではありません。主に感謝する、そのことを喜び、讃美しているのです。
 マルコによる福音書では、確かに弟子たちの無理解が書かれているかもしれません。しかしその弟子たちの頑なな心もやがて変えられていきます。主イエスが来てくださったからです。漕ぎ悩んでいる弟子たちのところに、動けずにうずくまっている私たちのところに、主イエスが来てくださいました。神が遠いと思っていた私たちのところに、まことの神が来てくださった。そのことを受けとめ、そして讃美が生まれた。それがクリスマスの出来事です。
 この後で讃美歌一一五番を歌います。クリスマスの讃美歌の中で、私が好きな讃美歌の一つです。なぜ好きなのか。人間が徹底的に無理解だった中、人間が誰一人何も知らない中、キリストがお生まれになった、キリストが来てくださったことが歌われているからです。私たちの心もこの讃美歌に合わせて、御子キリストのご降誕を讃美したいと思います。
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