「キリストの傷、私たちのいやし」

本城 仰太

       詩編 107編23節〜32節
              マルコによる福音書  6章45節〜52節
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

1.多くの者たちが痛みを負う

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の箇所には、多くの病人が出てきます。こぞって主イエスのもとに押し寄せる、あるいは連れてきてもらう。そして癒されるという話です。これは昔話でしょうか。確かに二千年前の主イエスが地上におられた時の話です。しかし今でも実に多くの病があり、多くの痛みを抱えている人がいる。それが私たちの現実ではないかと思います。その意味では昔も今も何も変わっていないと言えます。
 「ゲネサレト」という地名が出てきます。マルコによる福音書では、ここしばらくガリラヤ湖周辺の町々をめぐっていた主イエスと弟子たちです。ゲネサレトというのは、ガリラヤ湖西岸の地方のことを指し、ティベリアスとカファルナウムという町の間の地方一帯がゲネサレトです。56節のところには、「村でも町でも里でも」とあります。この辺りの地方一帯の村や町や里から、至る所から痛みを抱えた者たちが集まってきたのでしょう。今の私たちも無関係ではなく、この町にもあの町にも、多くの痛みを抱えた人たちがいます。
 痛みと言っても、病だけではないでしょう。間もなくクリスマスの祝いの時を迎えます。しかし祝いといっても、クリスマスには多くの痛みが伴っています。聖書にもはっきりとそのように書かれています。クリスマスの時に世界に何が起こっていたか。ローマ帝国の皇帝アウグストゥスが、人口調査をしていた時のことでした。国をうまく管理するために、おそらく税金とか兵役とかに直結するのでしょうけれども、人口調査がなされていました。登録をするために、人々は自分の出身地へ行かなければなりませんでした。多くの人が移動を強いられている。主イエスの父と母となったヨセフとマリアもそうでした。そのように、強い者によって弱い者たちが強いられている、痛みを抱えた中でクリスマスの出来事が起こっていきました。
 クリスマスの出来事の時に、主イエスがお生まれになった地方を治めていた王は、ヘロデ大王と呼ばれる人でした。救い主が生まれるらしいという噂を聞きつけたヘロデ大王は、自分の地位が脅かされることを恐れて、その地方の二歳以下の男の子を一人残らず殺させるということをさせます。これも非常に多くの痛みを伴う出来事でした。強い者が支配し、弱い者に痛みを負わせることで、昔も今もこの世の中を成り立たせているところがあります。

2.特に真新しいことはない?

 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、このように痛みを負う者たちが主イエスのところへやって来て、そして癒されるということが書かれています。今日の聖書箇所には、今までとは違う、特に真新しいことが書かれるというわけではないかもしれません。
 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。」(53節)とあります。この湖は、ガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは、最近はガリラヤ湖周辺で活動をしてきたわけですが、何度か湖を舟で渡ることが続いてきました。時には嵐に遭ったり、逆風にさらされたり、命の危険が迫った時もありましたが、主イエスに助けられて、渡ることができました。湖を舟で渡ったことも、特に真新しい内容ではありません。
 「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」(54〜55節)。癒しを求めて多くの病人が集ってくるのも、最近ではよくあったことです。自分で体を動かすことができない人のために、床に乗せて運んでくるということもすでにあったことです。主イエスの周りにあまりにも人が多く、近くまで運べなかったので、屋根に穴をあけて上から釣り降ろして癒してもらったという話もすでにありました。
 「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」(56節)。主イエスに大勢の人が押し寄せている中で、主イエスの服のすそに触れて癒されるという話も、すでにあった話です。
 今日の聖書箇所に書かれていることは、ほとんど真新しいことはありません。今までの繰り返しです。多くの人が痛みを負い、主イエスのところへやって来た。そして癒されたという話です。

3.イザヤ書第五三章:主の僕の苦難と死

 しかしなぜ真新しいことがほとんど何もない同じ内容を繰り返したのでしょうか。第七章から新たな区分が始まっていくと言われています。新たな区分を始めるために、今までのことをまとめるように、この出来事を書いたのでしょうか。確かにそういうところもあるのかもしれませんが、私たちにとって忘れるわけにはいかないのが、この癒しを行った主イエスというお方が、やがてまもなく、十字架の死を死なれたということです。癒しを行ったこのお方ご自身が痛んだということです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第53章です。イザヤ書全体の後半部分には、「主の僕」に関する歌がいくつか収められています。この「主の僕」とはいったい誰なのか。はっきりしたことは何も書かれていません。誰だかよく分かりませんが、今日のこの箇所では、「主の僕の苦難と死」の歌です。正確に言うと、第52章13節から、第53章の終わりまでが「主の僕の苦難と死」の歌です。
 第53章3節にこうあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ53・3)。主の僕が苦難を負います。何のための苦難でしょうか。続く4節から6節です。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53・4〜6)。なんと苦難を負ったのは、自分のためではなく、周りの多くの人たちのためだと言うのです。
 続く、7〜8節のところは、主イエスの十字架の場面を思わせるようです。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53・7〜8)。
 この誰だか分からない「主の僕」がすべての痛みを負い、他の者たちが癒されるのです。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53・5)。私たちキリスト者にとって、「主の僕」とはもちろん主イエスのことです。クリスマスの時に主イエスがお生まれになったよりも数百年前に書かれたこの「主の僕の苦難と死」の歌を、私たちはそう読むのです。

4.クリスマスは受難の始まり

 来週はいよいよクリスマスになります。教会の暦には、三つの大事な祝いの時があります。クリスマス、イースター、ペンテコステの三つです。序列をつけるのもどうかと思いますが、もしどれが一番大事かと問われたら、どう答えるでしょうか。三つの中で最も重要なものは、間違いなくイースターです。
 主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に死からお甦りになった。それがイースターの祝いです。主の僕として人間の罪の重荷を担い、そこからお甦りになった。罪や死との闘いを制し、そのことで罪や死への勝利が決定的になったのです。ペンテコステは「聖霊降臨日」とも言われていますが、イースターの出来事の後、主イエスの弟子たちに聖霊が降り、教会が生まれていきます。ペンテコステは教会の誕生日とも言われています。これも大事な日ですが、イースターがなければペンテコステもありませんでしたので、イースターの方が大事でしょう。
 それではクリスマスはどうなのか。クリスマスは主イエスがお生まれになった祝いです。クリスマスおめでとう、という挨拶をするかもしれません。しかし単純におめでとう、と言えないところがあります。なぜなら、主イエスがお生まれになる、それはこれから十字架の受難が始まっていくからです。キリストの誕生は、十字架への道行きの始まりです。多くの人の痛みを負うために、主イエスはお生まれになったのです。

5.クリスマスに来てくださった

 ヨハネによる福音書に、このような言葉があります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1・14)。「言」とは主イエスご自身のことです。主イエスは肉となって、つまり肉体をまとわれ、私たち人間としてお生まれになったことが語られています。目に見えるものというのは、必ずやがて朽ちていきます。肉体をもって生まれるということは、その死を意味します。当然、人間としての苦痛や痛みを味わわなければなりません。主イエスはそのためにお生まれになったのです。私たちもそうですが、今日の聖書箇所に出てくる人々も、病を負い、苦しみを負い、痛みを負っていました。それらを担うために、主イエスはお生まれになったのです。
 この世の中では、強い者が弱い者に痛みを負わせています。そのことでこの世の中が成り立っているようなところがあります。しかし主イエス・キリストはその痛みを人に負わせるのではなく、自らが負うためにクリスマスの時に来てくださいました。重荷に苦しんでいる者たちを救うためです。決して誰かに負わせることはなさいません。自らが傷を負い、自らが重荷を背負われます。主イエスはそのようなお方です。
 実際に私たちが触れられるほど、主イエスは私たちの近くに来てくださいました。マルコによる福音書が伝えている通り、当時の人たちにとっては本当に実際に触れることができたのです。今を生きる私たちにとっては、物理的に不可能かもしれませんが、しかしこの世に宿ってくださった。だからこそ、キリストのご降誕をクリスマスとして、私たちは祝うことができるのです。そのようにしてキリストに触れることができるのです。
 私たちにも様々な痛みがあります。クリスマスの訪れとともに、今年も終わろうとしています。今年も多くの痛みがありました。しかしキリストが私たちのところにすでに来てくださいました。私たちの痛みや重荷がすでに担われている、その光のもとで私たちはクリスマスを祝うことができますし、私たちそれぞれの人生を歩んでいくことができるのです。キリストも言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)。
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