「悔い改めて終える一年」

本城 仰太

       詩編 51編編 1節〜21節
              マルコによる福音書  7章 1節〜13節
51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。
51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

1.「厳しさの中に愛がある」

 私が説教者として、自分が語った説教の感想を教会の方々から伺うことがあります。こんなことを感じたとか、よく分かったとか、時にはよく分からなかったとか、様々な感想を伺いますが、私が説教者として一番嬉しかった感想は、「厳しさの中に愛がある」という感想でした。
 語られた説教は確かに厳しいところがあったのでしょう。人間の罪を鋭くえぐり出すような、聖書に記されている厳しさです。そのような聖書の説く厳しさをきちんと語ることができた。しかしこれも聖書が語っていることですが、そういう厳しさの中に愛を感じることができた、そういう感想です。これは私が説教者として優れたところがあるとか、そういうことではなくて、説教者としてきちんと聖書に即して語ることができた。そういうことが感じられる感想で、私も印象深くよく覚えています。
 聖書は私たちに、今の自分のままでいいというようには言いません。もし今のままでいいのであれば、説教を聴くことが何を意味するのか。自己肯定感だけで終わってしまいます。自分の今のままでいいのだ、その確認をちょっとしただけで、ちょっとした安心感をもらっただけということになります。そうであれば、説教を聴かなくてもよいのかもしれません。
 しかしそうではなく、今の自分のままでは駄目なのだ、そういう厳しい言葉を聴くところに、説教の本質があります。そして本当の生き方を知り、そこへと導かれていく。もちろん、駄目な自分が神に受け入れられている、神の言葉の説教を聴くように導かれているわけですが、そもそも神がそのようにしてくださっているのは、神が本気で私たちを変えたいと思っておられるからです。駄目なままではなく、本当の生き方へと招かれているのです。
 説教の言葉の厳しさの中にも、自分が変わっていかなければならない、その導きを、愛を感じ取ることができる。それがまさに説教の正しい語り方であり、正しい聴き方です。そして本日、私たちに与えられた聖書箇所は、まさにそのことを心得ておかなければならないでしょう。

2.人間の言い伝えと神の掟

 今日の聖書箇所において、まず問題になっているのは、手を洗わないことについてです。主イエスの弟子たちの中に、手を洗わないで食事をする者たちがいた、そのことをファリサイ派の人々と律法学者たちによって咎められたのです。
 これはもちろん、私たちが子どもに教えるように、食事前に手を洗わないと不衛生だからという理由ではありません。ユダヤ人たちの宗教的な汚れに関する問題です。ユダヤ人たちは、自分たちは選ばれた民であり、異邦人は神の掟をきちんと守らないのだから汚れているという考えが根強くありました。したがって、外出をして街へ行く。不特定多数の人がいる市場などで買い物をする。そうすると、外からの汚れがうつってしまう。だから手を洗い、身を清めなければならないと考えたのです。
 ユダヤ人たちが大事にしていたこういう考え方は、今日の聖書箇所では「昔の人の言い伝え」(3節、5節)、「昔から受け継いで固く守っていること」(4節)、「人間の戒め」(7節)、「人間の言い伝え」(8節)、「自分の言い伝え」(9節)というように、少しずつ言葉を変えながら、ユダヤ人たちの間で長きにわたって行われてきたこととして語られています。それに対して、主イエスは「神の掟」(8節、9節)という言葉を対立させて使われています。ユダヤ人たちが行ってきた「人間の言い伝え」は、「神の掟」に真っ向から対立するものだったのです。
 今日の聖書箇所の後半のところでは、もう一つの事例が主イエスによって挙げられています。「父と母を敬え」(10節)、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」(10b節)という「神の掟」に対して、対立する「人間の言い伝え」が持ち出されています。「もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」(11〜12節)。
 コルバンというのは、二千年前の福音書記者マルコが属する教会の人たちも分からなかったのでしょう。コルバンとは「つまり神への供え物」(11節)という説明書きもなされています。つまり、父母を敬うために、例えば一緒にいてやらなければならない時に、「私は神さまに仕える務めがありますから、そういうコルバンがありますから、お父さん、お母さん、一緒にいてやることができません」と言うようなものです。そのように「人間の言い伝え」によって何らかの理由をつけて、「神の掟」を免除してしまうというようなことです。

3.主イエスの厳しさと愛

 なぜ主イエスはこんなに厳しいことを言われるのでしょうか。その理由もはっきりしています。「神の掟を捨てて」(8節)、「神の掟をないがしろにした」(9節)、「神の言葉を無にしている」(13節)、それらの言葉が表しているように、「人間の言い伝え」が「神の掟」ないし「神の言葉」を消し去ってしまうからです。主イエスもそこに妥協はないのです。
 旧約聖書に出てくる預言者たちも、妥協することなく、厳しさをもって神の言葉を語りました。今日の聖書箇所でも、主イエスが預言者イザヤの言葉を引用されています。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』」(6〜7節)。ここで引用されている言葉は、イザヤ書第二九章に記されている言葉ですが、イザヤも厳しくその指摘をしたわけです。
 イザヤ書の次の書簡であるエレミヤ書でもそうです。エレミヤに対立する「偽預言者」たちがいたことがエレミヤ書の中に記されています。偽預言者たちは、人々にとって甘い言葉を語りました。そのような言葉を語る預言者は人気があったのです。人々に愛想よくしたのです。エレミヤもイザヤも、そういう誘惑もあったのかもしれませんが、しかし厳しく、鋭く、神の言葉を語っていきました。
 私たちにもそういう誘惑があるかもしれません。周りの人たちから気に入られること、嫌われないこと、魅力的であること、そのようなことを私たちも求めているところがあるでしょう。牧師もそういうところから無縁ではありません。牧師としてみんなから好かれたい、だから愛想よくしなければならない、厳しい言葉ではなく人の気を惹くような言葉を語りたい、そういう誘惑もあるでしょう。学校の先生もそうです。生徒から好かれる教師でありたいと思う。会社でも上司は部下に好かれたいと思う。家庭でも、親は子から好かれたいと思うし、子も親からよい子と見なされたいと思う。
 そのような思いを実現するために、何とか体裁を整えよう、形を整えようと人間は思うものです。体裁を整えれば、人から良い評価を受けることができるからです。しかし本当に大事なことを大事にする心が失われてしまうことが起こる。主イエスが指摘しておられるのはそういうことです。
 主イエスの厳しさ、真剣さがまさにここにあります。神の言葉を本当に意味あるものとするために、私たちの生活の中で生かすために、厳しく主イエスは指摘をなされています。私たちに、真実に根差す生活をして欲しいからです。その厳しさの中に、愛があるのです。

4.律法主義

 一年の終わりに、今日の聖書箇所が与えられました。先週はクリスマス礼拝でしたから、いつものマルコによる福音書を離れましたが、今日は再び戻ってきて、与えられた聖書箇所がここでした。とても意味のある聖書箇所だと思います。一年を振り返って、私たちが悔い改めずには終われないからです。
 今年一年の歩みを振り返ってみて、いかがでしょうか。いろいろな思いを抱いておられることと思います。あなたはなぜそういう行動をしたのか、そう問われたとして、どう答えるでしょうか。あなたはなぜそういう言葉を語ったのか、そう問われたとして、どう答えるでしょうか。もちろんその都度、いちいち説明するようなことを私たちはしていませんが、果たして私たちの行動や言葉は、「神の掟」に基づいてなされていたと言えるでしょうか。YESとは言えない私たちです。むしろNOと言わざるを得ない私たちです。どうしてNOだったのでしょうか。一つの説明として、私たちが「人間の言い伝え」を形ばかり守ろうとする律法主義に陥ってしまったからです。
 今日の聖書箇所に出てくるファリサイ派や律法学者の人たちは、模範となるようなよい教師でした。周りからもそう見られていましたし、自分たちもそのことを自認していました。よい教師であり続けるために、どうすればよいか。あれこれと形を守る必要があります。きちんと手を洗う、きちんとコルバンをささげる。そういう形をしっかりとるのです。それが一番楽な道です。自分はきちんと守っていることを、人々に示せるからです。そして守ることができない人を裁く。そうすると自分が優位に立って、自分が守っているような気分になれるからです。ところが形ばかりを整えることだけで、心が伴っていない。そういう問題があったのです。
 しかしこのことは、ファリサイ派や律法学者たちだけの問題ではありません。私たちも何とか形を整えようとします。ある牧師が「ファリサイ派根性」という言葉を使いました。教会の外の人が持っている「ファリサイ派根性」ではなく、教会の中までもがこの「ファリサイ派根性」を持ってしまうという言葉です。キリスト者としての形を整える、教会としての形を整える。しかしそのことによって、肝心な何かが抜け落ちてしまう。主イエスのお言葉で言うと、自分の心から「神の掟」がすっぽりと抜け落ちてしまうのです。私たちも神の掟を無にしてしまう、私たちの中にも律法主義が入り込んできてしまうのです。

5.悔い改め

 そこで、私たちは悔い改める必要があります。今日の説教の説教題を「悔い改めて終える一年」としました。一年の終わりにあたって、そのような心を持ちたいと願います。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第51編です。表題として「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(詩編51・1〜2)と付けられています。ダビデ王が人の妻を奪ってしまうという罪を犯した時に、預言者ナタンが厳しくその罪を指摘した背景があります。ダビデは悔い改めました。ダビデの個人的な事柄のように思えますが、個人的な悔い改めに留まらず、「指揮者によって。賛歌」とあるように、讃美歌として歌われてきた悔い改めの歌でもあります。
 ダビデはそのような罪を犯し、自分では清くなれないことを痛感します。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」(詩編51・9)。自分では清くなれないので、神にそのことを求めるのです。
 そして最後の方で、こういう言葉が出てきます。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51・18〜19)。とても大事な言葉です。形ばかりの「いけにえ」や「献げ物」ではない。神が本当に求めておられるのは、人間の「悔いる心」だと言うのです。
 今日のマルコによる福音書の聖書箇所でも、「心」という言葉が使われています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(6節)。この心は、人間の最も大事で深いところを表す言葉です。その心が神から遠く離れてしまう。だからこそダビデの願いのように、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編51・12)と、私たちが悔い改めて願うしかないのです。

6.御言葉を聴き続ける

 先週はクリスマス礼拝、そして先週の月曜日はイブ礼拝を行いました。クリスマスの祝いがもう終わってしまったかのような気分になられているかもしれませんが、教会の暦としては、クリスマスの祝いの期間は一月六日まで続きます。
 一月六日は、2019年はたまたま日曜日になりますが、公現日と呼ばれている日です。もちろん正確な日付ではないでしょうけれども、マタイによる福音書に記されている東方の博士たちが主イエスのことを礼拝した日が、この日に当てられています。クリスマスの博士たちの話も、厳しさなしには聴くことのできない話です。博士たちの出来事を通して、ヘロデ王が新たな救い主の誕生によって自分の地位が脅かされることを恐れ、二歳以下の男の子を虐殺させた出来事につながっていくからです。そういう厳しさの中で、主イエスがお生まれになりました。
 私たちは、そういう厳しさの中で、悔い改めることしかできないかもしれません。しかし悔い改めることが残されています。御言葉を聴いて、悔い改めることができるのです。厳しさの中で、しかし愛の中で悔い改めることができます。詩編第五一編が言っている通り、神は悔い改める私たちを決して侮られることはないからです。
 私たちは御言葉を聴き続ける者です。御言葉を聴き続けることによって、私たちは必ず変えられていきます。悔いる心に、神によって新たに造られる心に、変えられていきます。その確信に生き、この年を終えることができますように。その確信に支えられて、来る年も御言葉を聴き続けることができますように。
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