「心の中を清めてもらおう」

本城 仰太

        創世記 8章15節〜22節
              マルコによる福音書  7章14節〜23節
8:15 神はノアに仰せになった。
8:16 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。
8:17 すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
8:18 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。
8:19 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

1.人間の心の問題

 主の年二〇一九年を迎えました。今日は最初の日曜日の礼拝です。今日の日を迎えるにあたり、皆さまはどのような思いを心に抱いておられるでしょうか。日本人的な感覚からすると、心が新たになったような気分がするかもしれません。しかしもしそういう気分があるとすれば、それはいったいいつまで続くでしょうか。
 本日、私たちに与えられた聖書箇所では、心が問題になっています。一九節と二一節のところに、相次いで「心」という言葉が出てきます。「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。」(19節)。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(21節)。先週、私たちに与えられた聖書箇所にも、「心」が出てきました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(7・6)。これらの言葉からすると、どうも人間の心に大きな問題がある、年明けの新しい気分どころの話ではないと言わざるを得ないようです。
 私たちが御言葉を聴き続けているマルコによる福音書では、人間の心が大きな問題を抱えていることを繰り返しています。主イエスがなさること、語られたことに対して、周りの人間たちが理解を示さず、「心」の中であれこれ考えたり、つぶやいたりしています。神を受け入れようとしない頑なな「心」を持っているのです。主イエスの弟子たちもそうでした。「心が鈍くなっていたからである」(6・52)と書かれています。また別の時には、主イエスが弟子たちに対して、「心がかたくなになっているのか」(8・17)と叱責されています。
 主イエスは人間の心に問題を抱えていることを見抜かれ、批判するだけでなく、決して見捨てることはなさらず、その人間の心と向き合ってくださいます。私たちも新たな年を迎え、自分の心をどのようにしたらよいか、今日の聖書箇所をもとにして考えたいと思います。

2.悪はどこから?

 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、先週の続きの箇所になります。先週はこの一つ前の第七章一〜一三節が与えられました。ここには何が記されていたか。まず出てくる問題は、手を洗わないで食事をしたことに関することです。主イエスの弟子たちの中に、そういう人たちがいたわけですが、周りの人たちからそのことを指摘されます。別に不衛生だから批判されたわけではなく、宗教的な汚れという理由からです。
 そのようなことを受けて、今日の聖書箇所では汚れの問題が取り上げられています。いったいどこから汚れが来るのか。当時の人たちは、自分の外から汚れがやって来る。例えば汚れた人と接しないようにする。接したおそれがある時には手を洗う、身を清める、そういうことがなされていました。
 こういう考え方は、私たちにも根強いところがあるかもしれません。悪いものはいったいどこから来るのか、そのことを考えてみる。外から来るのではないかと考える。例えば、子育てをしている場合、自分の子どもを直ちに悪だと決めつける人はいないでしょう。むしろ、悪いものの影響を受けないように、悪いものとの接触を避けようとする。しかしそれらすべての悪いものを断ったとして、清いものだけに取り囲まれて育った子どもは、果たして本当に良い子に育っていくのか。いつの間にか悪を知っているということは明らかです。
 主イエスは言われます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(14〜15節)。私たちも主イエスの今日のお言葉をよく受けとめなければならないと思います。
 この一四〜一五節の言葉は、主イエスが群衆に対して言われた言葉です。私たちが用いています新共同訳聖書では、一五節の後に、十字架のようなマークがあり、一六節がなく、一七節以下が続いています。聖書にはたくさんの写本があり、有力な写本では一六節が抜け落ちているわけですが、一六節は「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。群衆にまずそのように言われ、そして家の中で弟子たちだけに、一七節以下の言葉を語られたということになります。それだけに、一七節以下は、弟子たちだけに特別に大事なことを教えてくださったことになります。

3.悪い思い

 それでは、主イエスが弟子たちだけに言われた言葉に、耳を傾けたいと思います。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(18〜19節)。
 一九節の終わりに「外に出される」という言葉があります。この「外」という言葉ですが、実はこれは少しぼかしているような訳で、元の言葉は「トイレ」を表す言葉です。食べ物は心の中に入るのではなく、腹の中に入り、最終的には「トイレ」に出されるということです。
 「こうして、すべての食べ物は清められる」(19節)と続いていきます。これは少々難解かもしれません。文字通りに言えば、腹の中を通ることによって清くされるという意味ですが、ここで言われているのは、食べ物それ自体は汚れているわけではなく、そういう食べ物が入ってきたとしても人間が汚れるわけではない、ということです。要するに、外から汚れがやって来るわけではないのです。
 続けて主イエスはこう言われます。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(20〜23節)。「悪い思い」が人間の心から出てくることが言われています。そしてその「悪い思い」が具体的に何なのかということが、十二個、リストアップされています。ユダヤ人たちは十二という数字を、まとまりを持った数字として理解していました。これらの十二個以外にもっとたくさん挙げることもできるでしょうけれども、悪い思いをリストアップしていき、十二個に整えたのでしょう。
 これらのリストを自分に当てはめてみるとどうでしょうか。これについては自分は大丈夫だ。これについては自分も当てはまってしまう。そのような評価をすることができるでしょう。けれども、主イエスが言われているのは「悪い思い」です。思っただけでもアウトになってしまいます。例えば、「盗み」が出てきます。実際に盗んでいなかったとしても、人が持っている物を見て、あれが欲しいなと思っただけでアウトになってしまう。「殺意」もそうです。あの人がいなければよいのに、と思っただけでもアウトです。「ねたみ」というのは、元の言葉では「悪い目」です。人の成功を心から喜ぶことができず、うらやむように「悪い目」で見てしまう、それでアウトです。
 人間の中から、つまり心の内から、このような「思い」が次々と湧き出て来るのです。主イエスは人間の心をそのように見なしています。いくら外から悪いものが入って来るからといって侵入を防いでいても駄目なのです。むしろこの心を何とかしていただかなければならないのです。

4.ノアの洪水物語

 人間の心はいつからこんなに悪くなってしまったのでしょうか。旧約聖書の最初に創世記があります。天地創造、人間の創造の話が記されています。それを読む限りでは、人間はよいものとして造られました。けれどもその直後、悪いものが入り込んできてしまった。以後は人間の罪の話が多く記されていきます。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記のノアの洪水の物語です。これも人間が悪くなってしまった直後の話です。なぜ大洪水が起こったのでしょうか。明らかに人間の悪によってです。悪がはびこっているとする。それではどのようにその悪を解決することができるか。一つの方法は、その悪を根絶やしにすることです。私たちもそう考えるところがあるかもしれません。この世に悪があれば、それを取り除いてしまえばよい。悪人がいれば、その人を排除してしまえばよい、と考えるのです。
 今日の創世記の箇所に、こんな言葉があります。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8・21)。神のお言葉です。「幼いときから」とは、いったいいつからでしょうか。いつから悪を覚えるのでしょうか。最近は技術の進歩によって、母親のおなかの中にいる赤ちゃんの様子が見えるようになってきました。双子の赤ちゃんがお腹の中にいる場合、その双子がお腹の中から押し合いをしているそうです。そのことは聖書にも書かれていることで、創世記で双子が生まれてくるときに、母の胎内から争いが始まり、先に出てきた兄のかかとを弟がつかんでいたことも記されています。先に出てきた方が兄になることができ、家を継ぐことができるからです。もっともこの話は、弟が兄の相続権を奪い取る争いの話へとやがて発展していくわけですが、もう母親の体内からその争いが始まっていたのです。詩編にもこうあります。「母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51・7)。
 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。そういう言葉が確かにここにありますけれども、この箇所で特に強調されていることは、洪水によって悪を根絶やしにすることは、もう二度としない、ということです。神がそのように約束されたということです。
 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」、この言葉は文脈からすると、不思議な言葉かもしれません。前後のところを繋げて読めば、すっきりと繋がります。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。…わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記8・21)。つまり、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という言葉は、あきらめの言葉ではなく、むしろ人間の悪ととことん付き合おうとする神の思いが語られています。どんなに時間がかかろうとも人間の悪を解決しようとする、その熱い思いが語られています。洪水によって滅ぼすことは簡単でしょう。しかし神はもう二度とそのようなことはしないと約束してくださった。これが創世記第九章の「虹の契約」へつながっていくわけですが、人間を悪から救い出す約束が、もうここに含まれているのです。

5.悔い改めて、清めていただく

 ノアの洪水以降、人間の歩みが続いています。再び洪水が起こっても仕方ないような世界のあり様であり、人間の歩みが続いています。しかし洪水は起こっていない。もう二度としないという神の約束があるからです。とことん人間の悪しき心と付き合う、その神の思いが貫かれ、そのために与えられた救い主がイエス・キリストなのです。
 マルコによる福音書において、主イエスの第一声がこのように記されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)。主イエスが言われる最初の言葉、私たち人間のなすべきことが、「悔い改める」ことなのです。
 今日の説教の説教題を「心の中を清めてもらおう」としました。先週の説教題を「悔い改めて終える一年」としました。今日の説教題を「悔い改めて始める一年」としようかとも思いましたが、このような説教題にしました。しかし年末年始も悔い改めることが大事です。年末年始だけではありません。私たちプロテスタント教会のルーツとも言える教会の改革者マルティン・ルターは、「私たちの全生涯が悔い改め」と言いました。この言葉をきっかけにして、プロテスタント教会が生まれたと言っても過言ではありません。それほど大事な言葉です。いつでも悔い改めるのです。
 私たちが悔い改めるということ、誤解を恐れずに言いますと、それはある意味で、とても楽な生き方です。悔い改めて生きるとは、最も楽な生き方です。もう片意地を張る必要がなくなるからです。人間の心は悪いと主イエスから言われて、私たちはどうするでしょうか。「幼いときから悪いのだ」という聖書の言葉を突きつけられて、私たちはどうするでしょうか。片意地を張って、自分の心は悪くない、良いところもあるのだ、と言うのでしょうか。確かに悪いところもあるが、あの人と比べればましなほうだ、と言うのでしょうか。いずれも疲れる生き方です。そして何の解決にもならない生き方です。
 そうではなくて、悪しき心がある。そのことを指摘されて、素直にそのことを認める心が大事です。それが悔い改めるということです。そして神に赦していただく、きれいにしていただくのです。
 聖書にこんな話があります。悪と闘うために、自分で自分の心をきれいにした。掃除をして整えた。いったんはきれいになったように見えた。ところが、少しきれいになったために、悪がもっと力を増し、さらに強い悪が幅を利かせるようになり、前の状態よりも悪くなった…。
 これは主イエスが語られた譬えです。いったい何を言おうとしているのでしょうか。自分で掃除しようとするな、ということです。そんなことをしたところで、悪を根本的に退治することはできません。下手すると、もっと悪い状態になってしまいかねません。悔い改めて、主イエスにお出でいただき、主イエスに悪を退治してきれいにしていただかなければなりません。
 私たちの中から、悪の解決はやってこないのです。それほど私たちが抱えている悪の闇は深いのです。神が外から私たちに与えてくださるものを、今年も大事にしたいと思います。今年も神の言葉を私たちは聴き続けます。自分の中から湧いてくる言葉ではなく、私たちの外からやって来る言葉です。その言葉を聴いて、悔い改めて、赦していただき、清めていただき歩む一年でありたいと願います。
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