「神と対話できる耳と口を持とう」

本城 仰太

        イザヤ書 35章 1節〜10節
              マルコによる福音書  7章31節〜37節
35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。
35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
35:7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。
35:8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。
35:9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

1.今、自分に語られている説教として聴く

 説教は、今を生きる私たちに与えられた神の言葉です。説教者としてだんだん経験を積んでくると、以前にも同じ聖書箇所から説教をしたことがある、そういう聖書箇所が増えてきます。でも昔と同じことは語りません。むしろ語れないと言った方がよいでしょう。それはなぜか。それは説教が、今、私たちに与えられた神の言葉だからです。その意味で説教は一回限りです。聖書に書かれていることは、確かに二千年前の話かもしれませんが、しかしその聖書の言葉を通して、今、自分たちに向けられている神の言葉を聴く、それが説教です。
 こういう観点から、本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の聖書箇所から、今を生きている自分にかかわりのある話として、私たちはどういう言葉を聴きとるでしょうか。ある女子中学生がいました。今日の聖書箇所ではありませんが、主イエスがご自分の唾で目の見えない人を癒す話が記された聖書箇所の説教、私の説教ですが、その説教を聴いた。家に帰って母親にこう言ったそうです。「私はイエス様のことが大好きだけれども、いくらイエス様でも、さすがに自分の目に唾をつけられるのはちょっと…」。娘がこのように言っていたと後日、母親が私に報告をしてくださいました。
 私はそれを聞いて、説教者として考えさせられました。ああ、自分は説教者として説教を語っておきながら、本当に自分が主イエスに癒される者であることを受けとめて説教をしただろうか、と。自分も主イエスとかかわりを持ち、自分も主イエスに唾をつけて目を開いていただかなければならない。いや、唾どころではなく、キリストの十字架の血潮を振りかけていただかなければならないのではないか。そのようなことを思わされたのです。その意味で、私よりもその中学生の方が、正しく御言葉を聴き取ったと言えるでしょう。説教者として反省させられた出来事です。皆さまはいかがでしょうか。

2.主イエスの足跡

 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、このように始まります。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」(31節)。
 様々な地名が出てきます。先週、私たちに与えられた聖書箇所は一つ前のところになりますが、その箇所で、主イエスはガリラヤ湖を離れて北西の「ティルスの地方」(7・24)に行かれました。そのティルスから移動をするわけですが、まずはシドンです。シドンはティルスよりもさらに北方にあります。そのシドン経由で、今度はデカポリス地方です。デカポリス地方はガリラヤ湖から見ると南東のかなり広い地域を指す地名です。
 つまり、主イエスがどういう足跡をたどったか。ガリラヤ湖からいったん北西の方角に行き、さらに北上し、そこから半円を描くように時計回りで、かなり大回りで半周され、ガリラヤ湖に戻ってこられた、ということになります。行って帰って来たわけですが、直線的な動き方ではなく、ぐるっとかなりの遠回りをされた。なぜでしょうか。新約聖書学者によっては、この福音書を書いたマルコがあまりこの地域の地理を知らなかったからだ、と考える人もいます。しかし本当にそうでしょうか。なぜそんなルートをたどったのか、その理由は聖書に書かれていませんし、本当のところはよく分かりません。しかし主イエスがゆっくりと旅をされた。弟子たちとの時間を一緒に過ごされたいと思われたからかもしれませんし、これらの地域の多くはユダヤ人の町々ではなく異邦人の地域でありましたから、異邦人の町々を回ることも意図されたのかもしれません。

3.主イエスのうめき

 いずれにしても、かなり遠回りでガリラヤ湖に主イエスは戻ってこられました。そして今日の癒しの出来事が起こります。癒されたこの人のことが、このように紹介されています。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」(32節)。本人から言葉が出てこない状況でしたので、周りの人たちが代わりに主イエスに癒しを頼んでくれました。
 そして主イエスの癒しが行われます。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」(33〜34節)。
 ここに「深く息をつき」という言葉が出てきます。この言葉に注目したいと思います。これはどういうことでしょうか。深呼吸のようなものをされたのでしょうか。そうではありません。同じ言葉が使われている聖書箇所を読んでみますと、「深く息をつく」ではなく、「うめく」という訳になっています。
 例えば、ローマの信徒への手紙にこうあります。4「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8・23)。細かい解説をする暇はありませんが、私たちも今「うめきながら」、しかし救いを待ち望んでいることが語られています。そしてその「うめき」がますます深まることもあるでしょう。続く箇所にこうあります。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8・26)。もう私たちの口から言葉がでないほどうめいている。いや、うめきの言葉さえ出ない。しかし私たちの代わりに聖霊なる神がうめいて執り成してくださる。そのことを語っている聖書箇所です。その他にも「苦しみもだえている」(Uコリント5・2)と訳されている箇所もあります。
 今日の聖書箇所で、主イエスが深く息をつかれた。それは何よりも主イエスがうめかれたことを意味しています。この人は口が利けない人でした。この人のうめくことができないうめきを、主イエスが代わりに引き受けてくださった。聖霊が代わり引き受けてくださるように、主イエスも引き受けてくださった。
 主イエスもうめかれて、言葉にならない言葉を言われて、そして言葉になった一言を言われます。「エッファタ」(34節)。マルコが解説をしてくれていますが、「開け」という意味です。そうすると癒しが起こります。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(35節)。

4.私たちも主イエスに開いていただかなければならない

 この人はこのようにして癒されたわけですが、私たちは自分の出来事として、どのように受けとめればよいでしょうか。先週、説教準備をしながら、『ローズンゲン(日々の聖句)』の聖書の言葉に心を留めました。『ローズンゲン』というのは、その日ごとの短い聖句が印刷されている小さな本です。旧約と新約の一か所ずつです。「ローズンゲン」という言葉には「くじ」という意味があります。くじ引きの「くじ」です。その言葉通り、旧約聖書の言葉がくじ引きで決められています。そしてそのように決められた旧約聖書の言葉に響き合うような新約聖書の言葉が選ばれています。
 先週の木曜日の聖句、旧約聖書はヨシュア記からでした。「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」(ヨシュア5・14)。モーセの後継者であるヨシュアが、この時、神の御心を尋ね求めている場面です。これと響き合う新約聖書の言葉がこれです。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタイ13・16)。主イエスが弟子たちに言われた言葉です。主イエスのことを見ている、主イエスの言葉を聴いている、その幸いを語ってくださったお言葉です。主イエスに目を開いていただく、耳を開いていただく、だからこそこの言葉が成り立ちます。
 このことに関連して、私がいつも思い起こす聖書の言葉が、詩編第115編の言葉です。「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」(詩編115・4〜8)。まことの神をほめたたえる文脈の中で、偶像のことが出てくる。しかも「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」という鋭い言葉が出てきます。
 これは昔話ではないでしょう。今の時代も、実に多くの偶像が生まれている。この社会の闇は深いものです。私たちもよく経験していることです。この社会にたくさんの偶像が生じていることを、私たちも批判するかもしれません。しかし何よりも私たち自身も目が見えなくなってしまう、耳がここ得なくなってしまう、口が利けなくなってしまう、そういう偶像の状態から主イエスに癒していただかなければなりません。
 そのための救い主として、主イエスが私たちのところへ来られたのです。先ほどの『ローズンゲン』の新約聖書の箇所の続きにこうあります。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ13・17)。

5.主イエスによって救いが実現

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第三五章です。この聖書箇所の時代背景などを詳しく解説している暇はありません。ここに書かれている内容は、明らかに将来の救いを待望している、そのような内容です。
 イスラエルの人たちは、いつでも故郷に戻ることを待望していたところがあります。古くはエジプトでの奴隷生活を強いられていました。モーセに率いられて、故郷に戻ることができ、故郷での生活が始まった。けれども敵国に滅ぼされて、捕囚民として連れていかれることも起こった。また故郷を待望するのです。あるいは、イスラエルの人たちは、今でもその名残がありますが、「ディアスポラ」の民と言われています。「ディアスポラ」というのは、あちこちに蒔かれるという意味です。いろいろなところに種が蒔かれるようにして世界中に散らばっている。そこで生活している人たちは、故郷への思いを抱きながら生活するのです。あるいは、エルサレム以外の場所に住んでいて、エルサレムに巡礼をする者たちもいる。その者たちにとっても、故郷の思いを募らせているわけです。
 イザヤ書第三五章に書かれている状況は、特に不自由を強いられていた時のことでもありますが、いつの時代でもこの言葉に慰めを受けていたのです。「神は来て、あなたたちを救われる」(イザヤ35・4)。「そのとき」(イザヤ35・5、6)という言葉が使われています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ35・5〜6)。そしてそこに道が敷かれるのです。「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザヤ35・8〜10)。
 福音書記者マルコもそうですが、マタイもルカも、主イエスの到来によって、このイザヤ書第三五章の言葉が本当に実現したことを伝えているのです。マルコも、本日、私たちに与えられた聖書箇所によって、救いの到来を告げているのです。
 今日のマルコによる福音書の箇所の最後の方に、主イエスがこの出来事を口止めされていることが記されています。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」(36節)。口止めされても、それでも開かれた口でそのことが伝えられているのです。主イエスが口止めされたことに関して、私たちはどう考えればよいでしょうか。新約聖書学者たちは、「メシアの秘密」などと言ったりします。本日の聖書箇所の時点では口止めされています。この時点では、主イエスの十字架と復活がまだ起こっていませんので、本当の救いの意味が明らかにされていないから、だから口止めされた。そんなふうに説明されます。
 しかしここでの人々の讃美の言葉はとても重要です。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37節)。「すべて、すばらしい」と人々は言っています。この人を癒したこの出来事だけがすばらしい、と言っているのではないのです。この出来事も含めて、「すべて」です。本当の耳を聴こえるようにし、口を利けるようにしてくださった。この出来事だけではなく、今もなお起こり続けている「すべて」の出来事がすばらしい。このような讃美の声は、今も絶えることがありません。私たちも耳が開かれ、口が開かれる。そして讃美の歌声があがっていくのです。

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