「救いは世界の隅々まで」

本城 仰太

        詩編 19編 1節〜 7節
マルコによる福音書  8章 1節〜10節
19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。

8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。


1.聖書を二つに分けると

 私たちが手にしているこの分厚い聖書を二つに分けるとすると、どのように分割することができるでしょうか。すぐに思いつくのは、旧約聖書と新約聖書で分けることです。実際に聖書もそのように分割されています。イエス・キリスト以前と以後と言ってもよいのかもしれませんが、旧い契約と新しい契約で分けている、それが一つの分け方です。
 少し特殊な分け方になるかもしれませんが、こんな分け方があると聞いたことがあります。それは、結論を先に申し上げますと、創世記第一一章までが前半であり、創世記第一二章以降が後半という分け方です。ボリュームとしては、前半が非常に短く、後半が非常に長いということになります。
 これはどういう考えのもとに分けているのでしょうか。創世記第一一章にはバベルの塔の話があります。人間が神のようになろうという考えから、天まで届く塔のある町を建てようとします。このことを神はよしとせず、言葉も住む場所もバラバラにされてしまいます。塔の建設はもはや断念せざるを得なくなったわけですが、人間はその罪のゆえに、バラバラにされてしまった。これが創世記第一一章の話です。
 創世記第一章から読んでいきますと、天地万物が造られ、人間も造られた。極めてよいものとして造られたはずでありましたが、人間が次々と罪を犯してしまいました。神に造られた者としての歩みではなく、バラバラの歩みが始まってしまい、ついにバベルの塔で決定的な出来事が起こってしまい、人類はバラバラになってしまいました。これが前半の話です。
 それでは、人間はバラバラにされたままなのでしょうか。ここからがいよいよ後半の話です。バラバラになった人間を一つにまとめていくのが、後半の主題です。まず神は何をなさったのか。創世記第一二章には、神が一人の人、アブラムを選ばれたことが記されています。後にアブラハムという名前になります。この一人の人がやがて大きな家族になり、民族になり、イスラエルになっていきます。ダビデという偉大な王もここから生まれていきます。それで終わりではありません。そういうイスラエルの歩みの中から、世界の救い主、イエス・キリストがお生まれになった。そしてイエス・キリストによって、救いが全世界へと広げられていった。その後の教会の歩みが始まっていったことになります。
 このように考えますと、創世記第一二章から始まりヨハネの黙示録に至る後半部分というのは、壮大な救いの物語を描いているということになります。神の救いの御業は小さなところから始まります。一人の人を選ばれるところから始まる。それが少しずつ大きくなり、やがて全世界へと広げられる。神はバラバラになった民を、イエス・キリストを信じる信仰において一つへとまとめられていく、後半部分はそのような壮大な話ということになります。

2.弟子たちの無理解?

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書に記されている内容も、救いの広がりに関連があります。今日のこの話は、皆さまもすでに聞いたことのあるような話です。それもそのはず、第六章三〇〜四四節に、きわめて似た話が記されているからです。今から二か月弱前になりますが、この箇所から一二月二日に御言葉を聴いたばかりです。
 読み比べてみますと、かなり似ている話であると言ってよいでしょう。ほとんど同じだと言ってもよいと思います。どこが同じで、どこが違うか。そんなところまで今日は指摘をするつもりはありませんが、先ほどの聖書朗読の通りの話が起こっていったのです。
 しかしそうなると、なぜ二つも同じような話が記されているのでしょうか。ほとんど同じなのですから、省略してもよかったはずです。しかし省略しなかった。あるいはできなかったと言った方がよいかもしれません。理由を考えてみましょう。
 二つの理由を指摘したいと思いますが、まずは第一の理由です。弟子たちの無理解を表すため、それが第一の理由です。今日の聖書箇所で、このようにあります。「弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」」(4節)。ついこの前、主イエスは五千人以上の人たちを、たった五つのパンと二匹の魚で満腹にさせました。その力に驚かされたはずなのに、その力がまるでなかったかのような発言をここで繰り返している。弟子たちの無理解です。
 また、二週間後に私たちが御言葉を聴く予定の箇所ですが、同じ第八章にこうあります。「イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」(8・17〜21)。二つの奇跡の出来事がここに結びあわされています。弟子たちは数についてはよく覚えていました。しかしそれがいったい何を表すのか、分からなかった。弟子たちは痛烈な言葉で主イエスから叱られてしまっています。弟子たちの無理解が示されているのです。
 このように、弟子たちの無理解を示すために、二回も同じことが書かれたと考えられます。まるで同じ話なのに、一回目のことをよく理解していない弟子たちの姿が描かれる。それが第一の理由です。

3.救いの広がり

 しかし理由はそれだけでしょうか。むしろもっと大事な理由があると思います。無理解を示すだけならば、別にパンと魚の奇跡ではなく、他の奇跡でも主イエスの教えを繰り返してもよかったはずです。パンと魚の奇跡を繰り返したのは、もっと大事な理由があるからでしょう。
 その理由とは、主イエスの救いが広がっていく様子を表すためです。救いが広がり、ユダヤ人たちだけではなく、異邦人にまでその救いが広がっていく様子を表している。何よりもそのことがパンと魚の奇跡が繰り返された理由です。
 聖書は私たちが考えている以上によく書かれています。当たり前のことを言ったように思われるかもしれません。人間が書いたわけですが、しかし神が人間を通して私たちに与えられた言葉です。よく書かれていて当然と言えば当然ですが、書いた人間たちも、非常によく考えて書いています。特に福音書はそうです。
 私たちが御言葉を聴き続けているマルコによる福音書は、第七章のところから、話が少しずつ転換してきています。これまでの説教であまり詳しく触れてきませんでしたが、今日はここで一気にまとめてそのことをお話します。
 第七章の最初にあるのは、宗教的な汚れの問題です。ユダヤ人たちは異邦人と接することによって汚れが入り込むと考えていました。だから不特定多数と接する市場から帰ってきた場合は身を清めなければならない、と考えていました。ところが主イエスはそれを否定されます。汚れは外から入って来るわけではない、むしろ人間の心の中にあって湧き上がってくる、主イエスはそう言われます。言い換えると、ユダヤ人や異邦人という区分は関係ないということになります。
 第七章二四節以下に記されているのは、シリア・フェニキア生まれの女の話です。異邦人です。場所も「ティルスの地方」(7・24)です。異邦人の町です。この女の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいました。主イエスとこの女との間で対話がなされます。主イエスが言われます。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7・27)。これに対し、この女はこう言い返します。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7・28)。食卓の下のパン屑をいただく子犬のように、この女も異邦人でしたが、主イエスの癒しをいただきました。異邦人にも救いが広がっている出来事です。
 そして三一節以下に記されているのは、「耳が聞こえず舌の回らない人」(7・32)の癒しの話です。主イエスが異邦人の町々を回られ、ガリラヤ湖へと戻ってきました。この癒された人がユダヤ人なのか異邦人なのかはよく分かりません。いろいろな意見があります。異邦人だったと考えている人もいます。そして今日の話へと至ります。
 今日の聖書箇所はガリラヤ湖周辺での話です。ここにいた群衆はユダヤ人たちでしょうか。これについてもいろいろな意見があります。もちろんユダヤ人たちもいたと思います。しかし三節に「中には遠くから来ている者もいる」という言葉もあります。全部がそうではないかもしれませんが、少なからず異邦人がこの中に含まれていた。だから主イエスがパンと魚の同じ奇跡を二度も起こしてくださったのは、最初はユダヤ人のために、二回目は異邦人のためにと考えることができます。
 加えて言うならば、今日の聖書箇所には「七」という数字が出てきます。聖書の中で完全数と呼ばれる数字です。すべてが満たされたことを意味する数字です。さらに四千人の「四」という数字も出てきます。四というのも当時の人たちにとって大事な数字でした。東西南北の方角が四つです。また、当時の世界観として、ちょうど四角いテーブルのように、大地が巨大な四本の柱で支えられているとか、四つのケーブルで吊られているとか、そういう考え方があったようです。つまり「四」という数字は世界全体を支える数字だった。
 この福音書を書いたマルコがどこまでその「七」や「四」という数字に深い意味を込めていたかは分かりませんが、いずれにしてもこの話は、第七章からの文脈を考えると、異邦人に救いが広がっていく話と受けとめることができるのです。主イエスが分け隔てなく、救いの領域を全世界にまで広げてくださったのです。

4.世界の果てへ

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一九編の前半部分です。この詩編は独特な響きを持つ詩編です。世界をお造りになった神を讃美することから始まっています。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編19・2〜5)。
 その世界の中で、神がお造りになったものの一つとして、太陽のことが次のところに出てきます。「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように。天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。」(詩編19・5〜7)。
 とても面白い表現がなされています。太陽の日の出・日の入りのことが語られています。「天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く」(詩編19・7)。「その熱から隠れうるものはない」(詩編19・7)と言われているように、世界の隅々まで、すべての者に対して太陽の光が降り注ぐことが言われています。
 主イエスも言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5・45)。主イエスにとって、すべての者に対してその恵みが注がれているのです。パンと魚の奇跡が二回も聖書にしるされている、それは何よりもそのことを表しています。

5.主イエスの憐れみ

 二週間前の日曜日に、シリア・フェニキア生まれの女の娘の癒しの話から御言葉を聴きました。子犬とパン屑の話です。引っ掛かりを覚えられた方もおられると思います。主イエスが異邦人の女のことを、ある意味では「子犬」と呼ばれ、「パン屑」という言葉も出てきますから。しかしこの女も救いに与りました。しかも今日の聖書箇所では、ユダヤ人と同じように異邦人も同じ奇跡によって養っていただいたのです。
 主イエスがそのようにしてくださったのは、主イエスの心に、憐れみがあったからです。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(2節)。ここで使われている「かわいそうだ」という言葉、元の言葉では「憐れむ」という意味のある言葉です。ご自分の内臓が痛くなるほど、憐れんでくださるという意味があります。単なる「かわいそう」ではないのです。
 この言葉は、一回目のパンと魚の奇跡の時にも使われていました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6・34)。一回目の奇跡を主イエスがなさった原動力も、この憐れみの心でした。二回目も同じです。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、誰であろうと、主イエスが憐れみの心を注いでくださる。私たちに対しても同じ心をもって、食べきることができないくらい、尽きることのない恵みで、私たちを養ってくださるのです。

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