「あとはあなたが信じるか、信じないか」

本城 仰太

        イザヤ書 37章30節〜32節
              マルコによる福音書  8章11節〜13節
37:30 あなたにそのことを示すしるしはこうである。今年は落ち穂から生じた穀物を食べ、二年目は自然に生じたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる。
37:31 ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。
37:32 エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。


1.静けさ

 渋谷の町はとても賑やかな町です。人によっては騒がしさを覚えるかもしれません。私たちの中渋谷教会は渋谷の地に建てられていますけれども、その中にあって、教会はいつでも静かです。私もこの静けさをとても気に入っています。
 平日も静かです。最近は教会の周りで再開発が目に見える形で進んできました。白い壁に覆われて、中では解体工事が始まっています。物理的には騒がしいかもしれません。しかしそれでも教会の中には静けさがあります。周りがいくら変わっても、ここには変わらない静けさがあると言えるでしょう。
 また、日曜日も静かです。教会に多くの人が集ってきます。もちろん賑やかな時もあります。礼拝が終わって、皆さまとご挨拶をするときは、礼拝堂の前のロビーは賑やかになります。また昼食時の集会室もまたにぎやかです。しかしそのような賑やかさの中にあっても、静けさがあると私は思います。神の言葉を聴きに来ている私たちは、言葉を聴くわけですから、賑やかであってもどこか静けさがあると思います。
 私たちの中渋谷教会は百年以上の歴史があります。今年は一〇二年目を数える年となりました。この会堂が建てられたのは一九七五年のことです。今から四四年前のことです。その当時の会堂建築の際に、別の場所へ移転してもよいのではないかという案もあったようです。しかしこの場に留まりました。昨年発行された『中渋谷教会百年史』にこうあります。「教会の場所の移動によって、一人も離脱者を出してはならないとの佐古牧師の祈りに導かれて、同じ場所での改築が全会一致で決まった」(四〇頁)。そのような思いから、私たちはこの場に留まって教会の歩みを続けてきました。賑やかさの中にある静けさを保ってきたのです。
 百年の歴史の中で、ここに集う者たちの顔ぶれは変わりました。信徒も、牧師も変わりました。建物も変わりました。そして来年に向けてまた変わろうとしています。しかし一貫して変わらないこともあった。それは神の言葉を聴くことです。静けさの中に聴こえてくる神の言葉に耳を傾け続けてきたことです。ここで祈りを献げ、讃美を献げ、礼拝を献げてきた。そのことは今までずっと変わってきませんでしたし、これからもずっと変わらない大事なことです。

2.聖書のしるし

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の聖書箇所の冒頭にこうあります。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」(11節)。その情景を思い浮かべただけでも、騒がしい様子が浮かび上がってきます。主イエスに議論を吹っかけてきたのです。ファリサイ派と呼ばれる人たちは、それなりに真面目に生きようとしていた人たちです。その真面目さをどのように測るか。律法によって、神の掟によって測定するのです。自分たちは神の掟を守っているからよい、けれどもあなたは守っていないから駄目、そういう判定をしていました。この時は主イエスに「天からのしるし」を求めた。あなたは病人を癒したり、様々な教えを語っているようだけれども、あなたは本物なのか、その証拠を見せてみろ、というような騒がしさです。
 今日の聖書箇所のテーマは、「しるし」です。マルコによる福音書だけでなく、聖書の様々な箇所に、「しるし」という言葉が出てきます。今日の聖書箇所での「しるし」は、明らかに悪い意味での「しるし」です。しかし聖書全体を通しては、良い意味でも悪い意味でも「しるし」という言葉が使われています。
 例えば、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書の箇所には、「しるし」という言葉が出てきます。この時、エルサレムの都に危機が迫っていました。アッシリアという大国の軍隊が北から迫ってきていたのです。敵から脅迫されている状況です。しかし預言者イザヤを通して語られた神の言葉が響き渡ります。「あなたにそのことを示すしるしはこうである。今年は落ち穂から生じた穀物を食べ、二年目は自然に生じたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる。」(イザヤ37・30)。ここに記されていることが「しるし」だと言うのです。すなわち、一年目は落穂の穀物を食べる、二年目は自然に生じたものを、三年目には自分で育てた実りを食べる、と。つまりずっと定住できるということです。なぜ定住できるのか、神がアッシリアの敵の手から助けてくださるからです。実際にそうなりました。その地に留まって実りを食べることができること、これが神が自分たちを救ってくださった「しるし」なのです。
 あるいは、主イエスがお生まれになったクリスマスの出来事にも、「しるし」という言葉が出てきます。クリスマスの夜、羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていると、突然、天使の声が響き渡ります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2・11〜12)。羊飼いたちはこの言葉に促されて、主イエスがお生まれになった場所に出かけていきます。そして乳飲み子を見つけるのです。神が救い主をお与えになった、その「しるし」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」なのです。

3.しるしはない

 このように聖書の中には、「しるし」を肯定的に考えている箇所も多くありますが、私たちが御言葉を聴き続けているマルコによる福音書は違います。「しるし」に対して否定的です。「しるし」は一つもない、そして私たちは「しるし」を求めるべきではない、と言うのです。
 この「しるし」という言葉、マルコによる福音書では今日の聖書箇所で初めて出てきた言葉です。これまでは一回も使われることがありませんでした。今まで主イエスが病人を癒したりした奇跡の出来事は「しるし」ではなく、「力」という言葉が使われていました。主イエスの「力ある業」です。
 マルコによる福音書で「しるし」という言葉が使われている別の箇所は、第一三章です。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(13・4)。ある人が主イエスにこのように尋ねました。「そのこと」というのは、エルサレムの神殿を指して、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(13・2)と主イエスが言われたことです。それはいつ起こるのか、どんな「しるし」があるのか、と。しかし主イエスはここでも「しるし」はないと言われます。
 さらにはこうも言われます。「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。」(13・22)。主イエスがここで言われていることは、「人間の中から」おかしな「しるし」が現れるだろうけれども、それらに惑わされてはならない、ということです。ここでも「しるし」は否定的に使われています。
 今日の聖書箇所の並行記事が、マタイによる福音書にあります。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。」(16・1〜4)。ここでも主イエスが彼らを後に残して立ち去られていますが、「しるし」は一つだけだと言われます。「ヨナのしるし」です。ヨナとは旧約聖書に出てくる預言者ヨナのことですが、大きな魚の腹の中で三日間を過ごしたヨナです。つまり、主イエスが十字架にお架かりになって、三日目にお甦りになられることが示唆されているわけですが、それしか「しるし」はないと主イエスは言われる。マタイによる福音書では、「しるし」はゼロではなく一つなのです。ルカによる福音書でも、ヨナのしるしだけという言葉があり、同じ理解です。
 マタイによる福音書の箇所で、主イエスが天気予報について語られています。「夕焼けだから、晴れだ」、「朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ」。私たちが普段聴いている天気予報は、もちろん聴くことが大事ですが、天気予報を聴いてそれだけというわけにはいきません。雨が降りそうだから傘を持っていくとか、寒くなりそうだから防寒着を着ていくとか、天気がよさそうだから洗濯をするとか、私たちの生活が変わっていくことが大事です。
 その意味では、ファリサイ派の人たちはちっとも変わろうとしませんでした。騒ぎ立てるだけで、自分たちがちっとも変わろうとはしませんでした。むしろ自分たちの流儀で主イエスを試して、合格、不合格の判定を出そうとしていた。しるしだけを求めて、自分たちは変わろうとしない、そんなファリサイ派の人たちの姿がここに描かれています。

4.否定して自分の歩みを貫く

 マルコによる福音書では、主イエスは「しるし」を一切、否定しておられます。マタイやルカでは「ヨナのしるし」一つだけでしたけれども、マルコではゼロです。「ヨナのしるし」すら、出てこないのです。証拠を見せろ、と言われても、主イエスは証拠を見せてくださらない。見せたところで、彼らは信じるようになりませんし、信仰につながらないからです。
 ある牧師が、今日の聖書箇所は否定の言葉によって構成されている、と言っています。まずはファリサイ派の人たちが否定的に主イエスのことを見ています。主イエスのことを疑い、試そうとしています。議論を吹っかけてきます。主イエスもその議論を拒否なさいました。そして湖の向こう側へ退去していくのです。
 主イエスはこのように「しるし」を求められても、それを拒否されて、ご自分の旅をぶれずに続けられました。「心の中で深く嘆いて」(12節)という言葉が記されています。主イエスがこのような息をつきながら、それでもその歩みを止めることなく、旅を続けられました。そしてその結果、旅の先に何があったか、主イエスの十字架に行きつくのです。
 主イエスは「しるし」はないと言われます。そんな「しるし」を見て判断するのではない。むしろ主イエスのなさったことをそのまま見なさい、聖書はそのように言うのです。神の独り子である主イエスが、なぜ地上にお生まれになり、なぜ旅をされて十字架にお架かりになられたのか。私たちが信じていることは非常に単純です。主イエスが私たちの罪を代わりに背負ってくださって十字架にお架かりになった。それゆえに私たちが背負うべき罪が赦された。ただそれだけです。難しいことは何もありません。中渋谷教会も百年間、この信仰に生かされてきました。ここに集う者たちは、そのことを信じ続けてきたのです。
 「しるし」はない、「あとはあなたが信じるか信じないか」、それだけです。今日の説教題にもなっている言葉ですが、この言葉は私が牧師として、時々、言う言葉でもあります。まだ洗礼を受けておられない方とお話をする機会があります。いろいろな話をします。例えば、神はいるのか、いないのか。主イエスの復活はあったのか、なかったのか。そういう信仰をめぐる話をします。私も言葉を尽くして様々なことを語ります。けれども、結局、完全な論証をすることはできません。神はおられる、そのことは証明できませんが、逆に神はおられない、そのことの証明もできません。主イエスの復活があった、なかったについても同様です。どちらも証明できないことです。それゆえに、私は言います。「あとはあなたが信じるか信じないか」、ただそれだけですよ、と。

5.どうすれば信じられるか?

 信じるか信じないか、私たちはいつでもその二者択一を迫られています。どうすれば信じることができるようになるのでしょうか。これもまたよく受ける質問です。私はこのように答えています。
 まずは教会に来て、信仰者の間に身を置いてください、そして神さまの言葉を聴き続けてください、と。何か特別なことをしなければならないというわけではありません。教会が普通に行っていることの中に身を置けばよい。静けさの中から神の言葉が聴こえてきます。その言葉を聴き続けるのです。
 ある教会に求道者の方がいました。自分が信仰を持ちたいと願い、しかしどうしても信じることができずに、牧師に相談しました。そうすると牧師が驚いて、あなたは自分で信仰を持とうとしているのか、そうではなくて信仰は与えられるものだ、と言った。そうするとその求道者の方がさらに驚いてしまい、そうか、信仰は与えられるものなのか、ということがようやく分かった。そんな話があります。信じることができるように、願い、祈っていく。そのことが大事です。そのようにして信じることができなかった人は一人もいません。必ず信仰が与えられます。
 私たちを生かす言葉が、静けさの中から聴こえてきます。その言葉さえあれば、「しるし」などはもう要らないのです。私たちは「しるし」を求めてこの教会に来ているわけではない。私たちを赦し、慰め、導き、生かす言葉、それを求めています。そしてそれを聴くことができる。それだけでもう十分なのです。

マルコ福音書説教目次へ
礼拝案内へ