「識別力」

本城 仰太

          マルコによる福音書8章14節〜21節
       列王記(上) 3章4節〜14節
3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。
3:5 その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
3:6 ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。
3:7 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
3:8 僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
3:9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
3:12 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
3:13 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
3:14 もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」

8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

1.見分けられるように

 私たちにとって、きちんと物事を見分けることができることは、とても大事なことです。本物なのか、偽物なのか。自分にとって有益なのか、有害なのか。どのように行動すべきか。そういうことをきちんと見分ける力を持つことは、私たちの人生を左右することでもあります。
 本日、私たちに与えられた旧約聖書の箇所は、列王記上の第三章です。ここにソロモンという人が出てきます。イスラエルの国の中で、三番目に王になった人です。初代の王がサウル、二代目がダビデ、そして三代目がソロモンです。この人が王になる経緯は、列王記上の第1章と第2章のところに記されていますが、順風満帆だったわけではありません。むしろ逆風が吹き荒れていました。そんな中、ソロモンはなんとか王になりました。
 この聖書箇所は、ソロモンが王になった直後のことです。ある夜、ソロモンは夢を見ました。その夢の中で、神から問いかけられます。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。」(列王記上3・5)。ソロモンはこう答えます。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(列王記上3・7〜9)。
 このソロモンの願いを、神が喜ばれました。ソロモンが何を求めたかというと、九節の言葉が特に大事ですが、見分ける力です。善と悪をきちんと判断できるように、王としてきちんと政を行うことができるように、その知恵をソロモンは求めました。ソロモンと言えば知恵、知恵のソロモンと呼ばれています。この知恵は単なる知識ではありません。何よりもきちんと見分けることができるように、その知恵がとても大事です。

2.弟子たちの完全な誤解

 本日、私たちに与えられたマルコによる福音書の聖書箇所は、先週からの続きの箇所になります。13節にこうありました。「そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」(13節)。主イエスのところにファリサイ派と呼ばれている人たちがやって来て、主イエスに「天からのしるし」(11節)を求め、議論を仕掛けてきます。あなたは本物なのか、テストをしてやろうという下心があったのです。その観点からすると、ファリサイ派の人たちは主イエスを見分け損ないました。主イエスは彼らの求めを拒否されて、舟に乗って向こう岸へ行かれます。
 今日の聖書箇所は、その舟の中での話になります。どのくらいの船旅だったのかは分かりませんが、主イエスに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われ、パンを一つしかもっていないことを咎められたと誤解をしてしまうのです。
 用意すべきものを忘れてしまった。私たちもしばしば経験していることです。忘れてしまった時、私たちはどんなことを考えるでしょうか。16節に「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」とあります。何を論じあっていたのでしょうか。主イエスに叱られてしまった、と論じあっていたのでしょうか。誰かに責任をなすりつけようとして論じあっていたのでしょうか。主イエスからさらに怒られると思って、これ以上怒られないためにどうしたらよいかと論じあっていたのでしょうか。
 弟子たちは自分たちだけで論じあっていて、主イエスの言葉の真意を主イエスに尋ねようとはしていません。弟子たちはこの時、主イエスの意図を完全に誤解してしまったのです。

3.何を膨らませるか?

 ここで注目したいのが、15節の主イエスのお言葉です。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)。「気をつけなさい」という言葉は、どちらかと言うと「見分けなさい」という意味の言葉です。主イエスは弟子たちにきちんと見分けるように、と言われます。ソロモンが求めた見分けることと同じです。
 しかも15節の主イエスのお言葉は「パン種」に注目しています。パンそのものではなく、その中にわずかしかない「パン種」です。しかし全体を膨らませるものです。たとえ微量でも、そのような力があるのです。聖書の別の箇所でも、悪いパン種を取り除いて、パン全体をきれいにしなさい、という言葉もあります。 主イエスがここで言われているパン種は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」です。ファリサイ派は、先週の聖書箇所に出てくる人たちですが、主イエスのことをテストしてやろうと意気込んでいる人たちです。そんな思いが私たちの心に潜んでいたとしたら、全体にまで膨らんで悪影響を及ぼしてしまうと主イエスは言われます。また、ヘロデのパン種はよく分からないところがありますが、クリスマスの時に幼子主イエスを抹殺しようとしたヘロデ大王の心や、あるいはその子どもであるヘロデが洗礼者ヨハネという大事な人物を殺してしまったことが言われているのかもしれません。そういう神を抹殺しようとする心が潜んでいたとしたら、これも問題です。
 パン種ですから、膨らませる力があります。私たちにとって、どんなパン種で膨らませるかが大事になります。良いパン種で膨らませるのか、それとも悪いパン種で膨らませてしまうのか。この点をきちんと見分けることができるのか、そのことが私たちに問われています。

4.子どもたちの信仰教育

 このことの関連として、子どもたちの信仰教育について考えてみたいと思います。もちろん教育論を論じるわけではありません。教育の考え方としては、例えば、子どもたちはすでに良きものが与えられている、だからそれを教育者が引き出すことが大事だというように考えられることがあります。あるいは、子どもたちに悪いものが入っていかないように、悪いものが入ってそれが膨らまないように、そういうように考えられることもあります。
 私は若い頃に教会学校の教師としての務めを担うようになりました。子どもが好きだから、というわけではありません。そういう使命が与えられたわけですが、その使命を果たすために、何が大事になるのでしょうか。私が教わったとても大事なことは、主イエスへの信頼感を育むということです。言い換えると、「イエスさま大好き」という子どもたちの心を育むことです。福音書の中に主イエスの話が記されています。それを聴いていくと、子どもたちの中に主イエスへの愛が生まれる。いや、これは子どもだけに限りません。青年であろうと、大人であろうと大事なことです。その心を大事にするということが、それが教会学校の教師としての大事な務めです。主イエスに対する信頼です。
 今のこの時代というのは、とても難しい時代です。いったい何を信じたらよいのかが分からくなっている時代です。子どもたちはそういう時代の中、成長し、大人になり、生きていかなければなりません。何を信じて生きればよいのか、誰を信頼して生きたらよいのか。もちろん、信頼に足る大人との出会いは大事です。しかしその大人にも限りはあります。そういう中、本当に信頼することができるお方と共に歩むこと、そのことが極めて大事になります。子どもたちに主イエスに出会って欲しい、それが私たちの願いです。

5.主イエスへの信頼の欠如

 今日の聖書箇所において、弟子たちが何より欠いていたこと、何よりも分かっていなかったことは、主イエスへの信頼です。弟子たちは誤解していました。パンを持ってこなかった、忘れてしまった。どうしよう、怒られる、ということでした。弟子たちの中に、主イエスが恵み深いお方であることが、すっかり抜け落ちてしまったのです。
 主イエスの問いかけに注目してみたいと思います。「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「十二です」(19節)。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」(20節)。主イエスの問いかけ方は、最初にあったパンの数を問うておられるのではありません。後に残ったパン屑の籠の数を問われています。つまり、主イエスの恵みが溢れた、主イエスの恵みが不足することがなかった。主イエスはこう問いかけられることによって、そのことを弟子たちに教えておられるのです。
 今日の聖書箇所には、主イエスを完全に誤解していた弟子たちの姿が、描かれています。パンを持っていないことを咎められたと思っている弟子たち。しかし主イエスはまったく咎めておられません。それどころかむしろ、主イエスはパンの奇跡の二つの出来事を思い起こせ、と言われます。わずかなパンで大勢いの人を養った、あれはいったい何を意味していたのか、主イエスこそが飼い主のいない羊を養う羊飼いであり、主イエスの恵みが溢れたほど恵み深いお方であるということ。弟子たちはすっかり忘れていました。この恵みをどうして悟らないのか、いや悟って欲しい、と主イエスは言われているのです。

6.主イエスを信頼して歩もう

 主イエスは恵み深いお方です。18節の言葉は確かに厳しい言葉であるかもしれません「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(18節)。しかし本当の恵みに目が開かれて欲しいと思っておられるからこそ、主イエスの言葉も厳しくなります。主イエスは真剣なのです。
 ある人が、今日の聖書箇所の説教の中で、こんなことを言っています。主イエスが弟子たちを伝道の旅行に派遣された時に、こう言われました。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず…」(6・8)。主イエスはパンを持つな、と言われた。弟子たちも心配したと思います。しかし結果として大丈夫だった。弟子たちはこの体験も忘れているのです。
 パンの奇跡の二度の体験もわすれてしまいました。二度あることは三度ある、などと言われることもあります。しかし三度目がなかったとしても、主イエスはもう十分に信頼に足るお方です。恵みをもってすでに養ってくださいましたし、今この時も、これからも養ってくださるのですから。私たちは主イエスを信頼して歩むことができます。「まだ悟らないのか」(21節)と厳しく言われる主イエスですが、この厳しい言葉の中に、恵みを悟って欲しいとの主イエスの真剣な思いが込められているのです。
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