「信仰の目は開かれるもの」

本城 仰太

        イザヤ書 42章 1節〜 9節
              マルコによる福音書  8章22節〜26節
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。


8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

1.単純な奇跡話ではない

 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、奇跡の話が記されています。盲人の癒しの話です。目が見えなかった人が、見えるようになった。そういう話ですけれども、これは単なる奇跡話というわけではありません。
 盲人の癒しの話は、聖書にいくつか記されていますが、ヨハネによる福音書にも同じような奇跡の話が記されています。ヨハネによる福音書は独特なところがあり、主イエスによってなされた奇跡をめぐって、後日談が続きます。私たちが御言葉を聴き続けているマルコによる福音書や他のマタイやルカによる福音書では、奇跡が起こっても次から次へと別の話が進んでいきますが、ヨハネによる福音書ではその奇跡の出来事を引きずって、後日談が続いていくのです。主イエスの奇跡によって目が見えるようになった。それだけで終わらず、見えるようにした主イエスはいったいどなたなのか、その論争が後日談として続くのです。
 ヨハネによる福音書で癒しが起こった時、見えるようになった人のところに、ファリサイ派と呼ばれる人たちがやって来ます。あなたはいったいどのようにして見えるようになったのか、そう問い詰められます。そういう中、見えるようになった人は、このように言います。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(ヨハネ9・33)。ファリサイ派の人たちはこの発言を批判します。そしてこの人を村八分の状態にしてしまうのです。
 その直後、主イエスがもう一度、目が見えるようになったこの人に出会ってくださり、このように言われます。「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9・39)。
 このようなことを踏まえますと、主イエスの癒しの話は、単純な奇跡話ではないことが分かります。見えると思っていた人が何も分からずに主イエスのことを退け、逆に今まで見えなかった人が見えるようになって主イエスを信じるようになる。そういう大事なことが含まれているのです。

2.無理解だったが、目を開いていただく

 マルコによる福音書でも、目が見えるようになる奇跡の話は、ヨハネによる福音書と同様、とても大事にされています。マルコによる福音書では、二度、盲人の癒しの奇跡が記されています。一回目は本日の聖書箇所です。もう一つは、第一〇章の終わりに記されています。盲人の名前まで紹介されていて、バルティマイという名前の人が癒される。どちらもマルコによる福音書の中で、重要な出来事です。
 本日の聖書箇所では、分量的にもマルコによる福音書のちょうど中間のあたりですが、この福音書においてこれから一つの山場を迎えることになります。これまでのところにはどんなことが書かれていたか。主イエスが公の活動を開始され、弟子たちを召し抱え、教えられ、奇跡をなさり、様々なところに旅をされて移動された、そんな流れで記されていました。
 そういうプロセスを経てきたはずの弟子たちでしたが、先週の聖書箇所では、弟子たちの無理解が示されていました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(17〜18節)。「まだ悟らないのか」(21節)。主イエスの弟子たちに対する厳しいお言葉が記されています。
 聖書は、人間を楽観的には見ていません。聖書を読んでいれば、自然に知識が増えていくとか、何らかのことをしていれば、自然に信じるようになるとか、信じて歩んでいれば、幸せな人生を送れるとか、そんなことは言わないのです。むしろ聖書が私たちに告げることは、人間はそのままでは、今のままでは駄目なのだ、ということです。はっきりそう言います。その意味では聖書は人間に対して悲観的です。
 先週の聖書箇所でもそうでした。主イエスとずっと一緒にいて接しているのに、その弟子たちが無理解だった。それがマルコによる福音書の前半の結論です。ではどうすればよいのでしょうか。人間では駄目なので、していただかなければならない、ということになります。今日の説教の説教題を、「信仰の目は開かれるもの」と付けました。受け身です。神に受け身であり、神にしていただかなければならない。今日の聖書箇所で、人間がなしたことは、主イエスのところに人々が一人の盲人を連れて行ったこと、癒しを願ったくらいです。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(22節)。

3.二段階の癒し

 主イエスの癒しの様子は、このように記されています。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(23〜25節)。
 これはとても不思議な癒し方です。唾を用いての癒しというのは、私たちがすでに御言葉を聴いた第七章の終わりのところにも記されていました。この時は、耳が聞こえず舌の回らない人の癒しでありました。主イエスがご自分の唾を用いて癒された。これはすでにあった出来事です。
 もっと特徴的なのが、この癒しが二段階であるということです。「何か見えるか」(23節)と主イエスが問われ、この人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24節)と答えます。不思議な言い方です。まだはっきりとは見えていないのです。そういう第一段階がまずあり、第二段階、完全に見えるようになっていくのです。
 主イエスのこれまでの癒しの力を考えると、一瞬にして癒される、そのようなすごさがありました。福音書に記されている主イエスの癒しは、ほとんどが一瞬の癒しです。しかしこの癒しはどうでしょうか。癒しの力が段階的であるため、第一段階ではまだ不完全なように思えます。しかもこの奇跡の話は、他の福音書には記されていません。それだけに、マルコは二段階の癒しにこだわり、このような癒しによって何かを示したかったと考えられます。いったい何を示したかったのでしょうか。

4.ペトロの信仰告白は不完全?

 少し先取りをしますと、来週の聖書箇所になりますが、主イエスの弟子であるペトロ、一番弟子とも言えるペトロですが、主イエスからこのように問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(29節)。ペトロはこう答えます。「あなたは、メシアです。」(29節)。このペトロの言葉はとても大事な言葉です。あなたはメシアである。このメシアという言葉は、「キリスト」という言葉です。イエスというお方は「キリスト」である、救い主である、そういう理解をペトロは示したのです。私たちが礼拝でこれから告白する使徒信条は、もっとたくさんのことを言っていますが、イエスというお方がキリストである、このことをもう少し膨らませたものになります。その意味で、ペトロは最古の信仰告白をしたということになる。それほど重要な言葉です。
 なぜペトロがこの時、こんな告白をすることができたのでしょうか。まったく無理解だったはずです。しかし目が開かれて、このような告白をすることができた。けれども、まだ完全には目が開かれていなかった。再来週の聖書箇所になりますが、ペトロと主イエスとの間でこんなやり取りがなされます。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(31〜33節)。立派に信仰告白をしたはずのペトロでしたが、その直後に主イエスから叱られてしまう。ペトロは主イエスがキリストであることの本当の意味が分からなかったからです。
 ある説教者は、ペトロのこの信仰告白は、不完全な信仰告白だったと言っています。ペトロの言葉からすると正しい。しかしペトロは完全にその意味を理解していなかった。そういう意味で不完全と言うのです。まだ目が完全には開かれていなかった。その意味で、ペトロの目が開かれるというのも二段階だったことになる。今日の聖書箇所の後の文脈から考えると、二段階の目が開かれる奇跡を、そのように捉えることができるのです。

5.アメージング・グレイス

 このことはペトロだけのことではありません。段階的に目が開かれるということ、これは私たちにとってもとても大事なことです。
 この説教の後、讃美歌第二編一六七番を歌います。アメージング・グレイスというとても有名な讃美歌です。この讃美歌の作詞をしたのが、ジョン・ニュートンという人です。1725年から1807年まで生きた人です。母がピューリタンという敬虔な信仰を持っていた人でしたが、ジョン・ニュートンが七歳の時に亡くなってしまいます。その後、父の船に乗り込み、船乗りを始めますが、やがて父とも不仲になり、自分の船を持つようになります。かなり生活もすさみ、奴隷貿易に手を染めるようになります。
 そのような中、ある時、航海をしている時に嵐に遭います。船が沈みそうになる。荷物が運よく舟の穴の開いた箇所に引っかかって、難を逃れたようですが、この時、ジョン・ニュートンは生まれて初めて真剣に祈ったと言われています。奇跡的に助かったのです。その後しばらくは船乗りの仕事を続けますが、伝道者になる決心が与えられ、一六年にわたって神学や古典語の勉強をこつこつと続け、三九歳の時にようやく牧師になります。
 そういう中、生まれた讃美歌がアメージング・グレイスです。日本語の歌詞も、この後よく味わって歌っていただきたいと思いますが、もともとの歌詞の一番を直訳すると、こうなります。「驚くべき恵み!私のような悲惨な者を救ってくださった!私はかつて道を失った、しかし今は見つけられた。私はかつて盲目であった、しかし今は見える」。この歌詞の中に、「盲目」という言葉があります。英語だとblindという言葉が使われています。かつてはまったく見えなかった。しかし嵐の経験を通して、少しずつ目が開かれ、ついには牧師を志すようになり、こんな讃美歌を作るようになった。目が開かれていったのです。
 ジョン・ニュートンはその生涯を終え、自分が牧師として働いた教会に葬られました。その墓碑にこう書かれています。「ジョン・ニュートン牧師。かつては不信仰なる者、放蕩者、アフリカ奴隷の僕なりしが、主、救主なるイエス・キリストの豊かなる恩恵により保護され、解放され、罪赦され、多年にわたり壊滅せんと労したる信仰を宣べ伝えるべく召命を受け、およそ16年に亘りバッキンガムシャー州の当教会を牧せり」(『栄光、神にあれ 賛美歌物語』、一五七頁)。

6.目を開かれ、主イエスの十字架を見る

 ジョン・ニュートンは信仰者としてのまなざしを持つようになります。自分の過去を振り返って讃美歌の歌詞を作りました。単に自分の過去を後悔したというわけではありません。むしろ、自分がかつてこんな放蕩をした、そのことをはっきり見据えて、かつての苦い過去をそのまま受け入れ、こんな私だったけれども、神の恵みの方が勝った。はるかに勝った、そんな歌詞です。
 この恵みに目が開かれることが、信仰者のまなざしです。自分のこれまでの歩みを単に後悔するのではない。むしろまるごとそれを受け入れて悔い改め、人生をそこからやり直すことができる。神の恵みのもとで、自分の人生を受けとめなおす、自分の人生が違った輝きをもって見えてくるはずです。
 今日のこの聖書箇所で癒された人はどうなったのでしょうか。「イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。」(26節)。静かに暮らしたのでしょうか。それとも主イエスのことを伝え回ったのでしょうか。そのことはよく分かりません。
 マルコによる福音書の第一〇章の終わりに記されている、もう一つの盲人の癒しの奇跡で、バルティマイという人が癒されます。この人は癒された直後、このように歩みました。「そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)。目が見えるようになって、主イエスに従ったのです。
 バルティマイがこのように主イエスに従っていき、その後、何を見たのでしょうか。第一一章から受難週が始まります。この週の金曜日に、主イエスの十字架の出来事が起こります。十字架を見るのです。見えることになった目で、見えるようにしてくださった方が十字架にお架かりになっている、その姿を見るのです。
 ジョン・ニュートンは、その十字架に自分の赦しを見ました。かつては放蕩の限りを尽くしていたジョン・ニュートンです。そこに赦しを見た。信仰の目が開かれるとはまさにそのことを知ることです。だから驚くべき恵みと歌うことができるのです。私たちも信仰のまなざしをもって、恵みをもって自分の人生を捉えなおし、この信仰の歌を歌いたいと願います。
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