「イエスとは誰?」

本城 仰太

        イザヤ書 61章 1節
マルコによる福音書  8章27節〜30節
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

1.使徒信条の原形

 この説教の後で使徒信条を告白します。教会の信仰告白の言葉です。この使徒信条の文言ですが、皆様はどう思われるでしょうか。短いでしょうか、長いでしょうか。使徒信条がどのように出来上がったか、これはとても大きな問題ですので、今日、ここでそのことをお話することはできません。しかし一言だけ申し上げるならば、使徒信条はある日突然作られたというわけではない。徐々に形づくられ、今日、私たちが告白している形になっていったのです。最初はおそらくもっと短い文言だったのでしょう。それが徐々に膨らんでいき、この形になったのです。
 使徒信条がなぜ作られたのか。このことも今日はお話することはできませんが、一つだけ申し上げるならば、教会の私たちがいったい何を信じているのか、そのことを端的に表すために作られました。私たちが手にしているこの聖書は、なかなか分厚いものです。それではこの分厚い聖書に何が書かれているのでしょうか。そのように誰かから尋ねられたら、皆さまはどうお答えになるでしょうか。
 聖書は信仰の書です。私たちが信じている信仰とは何かが書かれています。その意味で、聖書にはこういう信仰が書かれている、あなたは聖書をよく読めばこの信仰が分かるはずだ、そのことが表されているのが使徒信条です。聖書を読めば、この信仰が導き出されると言えますし、逆に、この信仰をもとにして聖書を読めば、聖書のこともよく分かってくる。それが使徒信条です。
 その使徒信条は教会の長い歴史の中で、少しずつ形が整えられていきました。最初はおそらくもっと短かったはずです。しかしもう少し丁寧に言うために、言葉を足していかなければならず、少しずつボリュームが増えていった。それでは最初の短いものはどのような形だったのか。最初の最も短く、最も古い信仰告白が、本日、私たちに与えられた聖書箇所に出てくる言葉です。「あなたは、メシアです」(29節)。

2.フィリポ・カイサリアでの弟子たちとの時間

 本日の聖書箇所には、主イエスと弟子たちが出てきます。他の者たちは出てきません。最初にこうあります。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。」(27節)。
 「方々の村」ですので、短期間でめぐることはできなかったでしょう。二・三日ではなく、一週間、あるいは一か月、もっと長くかかったかもしれません。こういうある程度の長い期間が弟子たちに与えられた。主イエスとじっくり語り合うことができる時間です。
 「フィリポ・カイサリア」というのは、政治色の強い街の名前です。カイサリアというのは、ローマ帝国の中で他にもカイサリアという町がありましたが、ローマ皇帝のことを「カエサル」と呼ぶことがあります。それを表している街の名前。つまりローマ皇帝の街なのです。フィリポというのは、クリスマスの時のヘロデ大王の息子の一人の名前で、この人が皇帝にこの町を献上した。だからフィリポ・カイサリアと呼ばれています。
 ユダヤ人からすると、異邦人の街です。ユダヤ人もいたかもしれませんが、基本的には異邦人の街でした。主イエスがユダヤ人たちから追い回されるようなことがなかった街です。
 しかもこの街は、風光明媚なところであったと言われています。このフィリポ・カイサリアという街は、地図で言いますと北方にあります。ガリラヤ湖よりもさらに北です。近くにヘルモン山と呼ばれる山がありました。そこから雪解け水が流れ、ガリラヤ湖に流れ込み、南北に走るヨルダン川に流れ込み、その水が南へ、南へ下っていき、死海(塩の海)に流れ込む。そういう水の流れがありました。したがって、このフィリポ・カイサリアというのは、自然や緑が比較的豊かなところでありました。
 そういう場所で、主イエスが弟子たちと対話される。今日の聖書箇所は非常に短く、簡潔に書かれていますが、おそらく主イエスは弟子たちといろいろなやり取りをしながら、落ち着いた所で、じっくりと語り合う時間を過ごされたのだろうと思います。

3.主イエスとは誰か?

 先週の聖書箇所までのところで、無理解の弟子たちの姿が描かれていました。主イエスから「まだ悟らないのか」(21節)と言われてしまいます。そういう無理解だった弟子たちを、主イエスは教育されるのです。
 来週の聖書箇所になりますが、このように書かれています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節)。「教え始められた」とあります。ここで使われている「教える」という言葉は、ちょっとした知識を授けるというような教え方ではなく、きちんと教育をするという意味の言葉です。主イエスが弟子たちの教育を始められた。
 いったい何を教育されたのでしょうか。ご自分が誰であるかを主イエスは教えられるのです。今日の聖書箇所で、「あなたは、メシアです」とペトロは答えます。それではそのメシアとは具体的にどのような救い主なのか。三一節に記されていることをしてくださるメシアです。その意味では、今日の聖書箇所と三一節の言葉は、切り離せない関係にあります。
 今日の聖書箇所で、主イエスはまず、人々はどう考えているか、ということを問われます。「その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」(27〜28節)。
 「洗礼者ヨハネ」というのは、主イエスより少し前に現れて、主イエスが来られるための道備えをした人です。すでに首をはねられて殺されていました。「エリヤ」というのは、旧約聖書に出てくるもっとも偉大な預言者と言われている人です。旧約聖書の列王記にその記述がありますが、エリヤが生きたまま天に上げられたというような記述があります。ですからこの偉大な預言者であるエリヤが再び来るのではないか、人々はそう思っていたところがあったのです。主イエスがそのエリヤではないか、と考えている人たちがいました。「預言者の一人だ」というのは、優劣は別にして、エリヤのような預言者の一人ではないか、ということです。
 そういう人々の評価をまず聞かれた上で、主イエスは弟子たちに問われます。「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」(29節)。ペトロが代表して答えます。「あなたは、メシアです」。ここでの「メシア」という言葉は、元の言葉では「キリスト」という言葉です。イエスというお方がキリストである。今日の旧約聖書の箇所に、こうありました。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61・1)。ここに書かれている内容からすると、これも単なる預言者以上の存在であることが分かります。偉大な預言者であるエリヤをもしのぐ。あなたは預言者どころではない、救い主メシアである、それがペトロの信仰告白の言葉です。

4.告白する自分が問われる

 主イエスは、私のことをあなたがたは何と言うか、そのように問いかけられるお方です。二九節のところにこうあります。「そこでイエスがお尋ねになった」。些細なことかもしれませんが、「イエスが」と書かれています。かつての口語訳聖書では「イエスは」となっていました。新共同訳聖書では「イエスが」であり、今回新たに出版された聖書協会共同訳でも「イエスが」です。
 聖書の元の言葉で読んでみますと、「彼は尋ねた」となっているのですが、「彼」という言葉が強調された表現になっています。「主イエスこそが、問われた」、そんな表現です。その元の言葉のニュアンスを、新共同訳や新たな聖書協会共同訳は「イエスが」という言葉で表現しているのです。主イエス「が」問おうとされている強い意志が表れています。主イエス自ら「が」問おうとされているのです。
 同じように主イエス「が」私たちにも問われます。私たちは何と答えるでしょうか。この説教の冒頭で使徒信条の話をしました。使徒信条は「我は信ず」という形で始まっています。私は信じる。私たちは信じる、ではないのです。なぜ私は信じるとなっているのでしょうか。おそらく洗礼を受ける時のことが考えられているからです。多くの受洗者が同時にいたとしても、まとめて洗礼を授けるということはしません。一人一人に問いかけて、一人一人に洗礼を授けるのです。「あなたは信じるか」、そう尋ねて、「私は信じる」と一人一人が答えるのです。
 このように主イエスから問われる時、答える私そのものが問われることになります。私がキリスト者であるということ、私そのものが問われるのです。
 二〜三世紀にかけての書物ですが、こんな話があります。「これは最近起こったことである」と書き始められている書物です。ローマ帝国の軍隊での話です。皇帝からボーナスが支給されることになりました。しきたりとして、兵士たちは月桂樹の冠をかぶることになっていました。月桂樹はローマ帝国の神木とみなされていた木であり、異教の礼拝にかかわるものです。皆が月桂樹の冠をかぶる中、一人だけかぶらない者がいて、人目をひきます。上官から問われます。「なぜ、おまえは皆のように冠をかぶらないのか」。その兵士は答えます。「他の人たちにはそうすることが許されていても、わたしには許されていません」。それでも理由をしつこく尋ねられ、この兵士はこう答えます。「わたしはキリスト教徒です」(テルトゥリアヌス「兵士の冠について」、『キリスト教教父著作集』一六巻)。
 ここでの「私はキリスト者(クリスチャン)です」という答え方をするのは、時には勇気がいることでしょう。私たちも同じような経験があるはずです。この兵士のように、場合によっては命懸けというような場合だってあるのです。
 この兵士は「私はキリスト者です」と答えていますが、もう少し丁寧に言うと、「私はイエスをキリストと信じるキリスト者だ」ということになります。私たちも問われるのです。イエスをキリストと告白して生きるとはどういうことなのか。
 ここで信仰告白をしたペトロもそうでした。その後の生き方が問われます。来週の聖書箇所で、主イエスはご自分がどのようなメシアなのかを告げられます。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(31〜33節)。
 ペトロは信仰告白をした直後でしたが、主イエスからサタン呼ばわりされてしまいます。三四節で主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。詳しくは来週、触れたいと思いますが、ペトロにとって、イエスをキリストと告白した者として、どう歩むべきなのか、自分自身が問われる歩みが続いていくのです。
 ペトロはやがてもっと大きな試練を迎えることになります。主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられることになります。その時、何が起こったか。「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」」(14・61〜62)。主イエスはご自分が「メシア」つまり「キリスト」であることを肯定されます。
 ところがペトロは否定してしまいます。「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。」(14・66〜68)。ペトロは「ナザレのイエス」が「キリスト」であることを、この時は否定してしまうのです。これはペトロだけの問題ではありません。キリスト者としての私たちの問題です。イエスをキリストと告白するのか、自分自身が問われているのです。

5.告白して出発する

 主イエスは本日の聖書箇所以降、フィリポ・カイサリアを出発して南下されます。南にはエルサレムがあります。主イエスが十字架にお架かりになるエルサレムです。そこを目指して、マルコによる福音書後半の話が始まっていきます。後半の出発点が、今日のこの聖書箇所の話です。
 ペトロにとって、この後も主イエスに従っていく歩みが続いていきます。無理解のままだったかもしれません。主イエスから叱られてしまうことも起こります。主イエスが誰であるかをきちんと告白できないことも起こります。しかし、出発点のところで、最初にこの告白をしておいたことが、その後の支えとなりました。
 主イエスはまず言い表すことを求めておられます。最初に信仰告白をして、すべての歩みが始まっていくのです。私たちはどちらかというと、あまりそう考えないところがあります。きちんと身支度をしなければならない、ふさわしい者にならなければならない。その上できちんと告白をした方がいいのではないかと考えます。そうでないと始められないと考えてしまうのです。
 しかし主イエスは違います。まず告白を求めておられます。主イエス「が」求められるのです。告白するところから、ご自分の弟子の教育を始められるのです。そしてその後もひたすら、主イエスとはどなたなのか、そのことを語っていく、見せていくのです。私はあなたの罪を赦す救い主なのだ、と。その救い主である主イエスを信じることによって、あなたはきちんと立つことができる。躓いたとしても、それでも立ち上がって一緒に歩んでいくことができる。それが信仰告白をした者たちの歩みなのです。
マルコ福音書説教目次へ
礼拝案内へ