「自分の十字架を背負う」

本城 仰太

        イザヤ書 43章 1節〜 4節
マルコによる福音書  8章31節〜9章 1節
43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。


8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

1.恥

 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、主イエスの弟子たちが主イエスご自身から覚悟を問われている、そのような内容です。三八節にこうあります。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(38節)。
 主イエスの弟子として生きるにあたって、どうしても恥が付きまとう。主イエスと主イエスの言葉を恥じることに対する闘いが生じる。しかしその闘いにおいて、主イエスと主イエスの言葉を恥じない者は、主イエスもまたその者を恥じない。主イエスはそのようなことを言われています。
 今日の聖書箇所の文脈では、主イエスがご自身の死と復活の予告をされています。先週の聖書箇所において、主イエスの弟子であるペトロが信仰告白をしました。「あなたは、メシアです」(29節)とペトロは告白します。そうすると、それに応えて主イエスが、それでは主イエスがどんなメシアなのかを教えてくださった。それが三一節です。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節)。
 ここに「十字架」という言葉は出てきませんが、明らかに主イエスの十字架の死のことが意味されています。キリストの十字架をどのように理解するか、いろいろな理解の仕方がありますが、その一つの理解としては、恥として捉えることができます。例えばこんな聖書の箇所があります。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」:」;(ヘブライ人への手紙12・2)。この箇所では、十字架の死を恥と捉えているわけですが、主イエスがその「恥をもいとわないで」私たちのために十字架にお架かりになってくださったことが言われています。
 メシアたる者が、苦しみを受けて殺される。しかも美しく死ぬわけではない。十字架の死を死なれる。これは大きな躓きでもあります。十字架で死んだ人、殺された人を救い主であると信じているのです。あなたはそんなことを信じるのか、と言われかねないことです。しかし私たちは、教会の信仰にとって最も大事なことであるそのことを信じる。その恥を受け入れる覚悟を問われているのです。

2.恥のペトロと公然とされる主イエス

 主イエスからご自分の死のことをはっきり言われ、ペトロは動揺します。そしてペトロの中に、そのことに対する恥があったのです。そんなことがあってはなりません、と。そんな恥ずかしいことがあってはなりません、あなたは私たちの上に立つような輝かしい救い主でなければなりません、と。
 今日の聖書箇所には、興味深い対比が見られます。先週の聖書箇所で、主イエスは「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と言われました。ところが、今日の聖書箇所では、主イエスのご自分の死と復活のことを公然と話された。三二節に「はっきりとお話になった」とあります。これは「公然と」ということです。
 こういう対比も見られますが、もっと面白いのは、ペトロと主イエスの対比です。ペトロは主イエスを「わきへお連れ」(32節)します。二人だけの密室でやろうとしたのです。そんな恥ずかしいことがあってはなりません、と。
 ところが主イエスは密室ではなく、公然とそれをやろうとされます。ペトロはこっそりやろうとしたのに、「弟子たちを見ながら」(33節)とあります。しかもさらに「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」(34節)とまで書かれています。こっそり二人だけで事を済まそうとしているペトロに対して、主イエスは公然とペトロを叱る。公開のお説教をされるのです。
 こういう対比はとても面白いと思いますが、単に面白いだけでなく、今日の聖書箇所の本質を突いていると思います。ペトロは恥ずかしがりますが、主イエスは「恥をもいとわないで」、そのことを公然と話されますし、弟子としての態度や覚悟も問われることになるからです。

3.私の後ろにつけ

 そんなペトロに対して主イエスは言われます。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(33節)。恥がなぜ生まれるのでしょうか。それは自分のことを考えるからです。ここでの言葉で言えば「人間のことを思っている」からです。
 そんな恥を抱いているペトロに対して、「引き下がれ」と言われます。正確に翻訳すると、「私の後ろにつけ」ということです。先頭に主イエスがおられる。その後ろにつけ、と主イエスは言われるのです。主イエスはペトロに対して、変わるように、違う自分になるようにと言われます。このときのペトロは、主イエスよりも前に出て、主イエスを諫めようとしていたのです。そんなペトロに対して、後ろについて、違う自分になるようと言われる。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)。後ろにつく者は、自分を捨てる、自分の十字架を背負うことになると言われるのです。
 自分の十字架を負うとは、どういうことでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、「十字架」という言葉がマルコによる福音書で出てくるのは、この箇所が初めてのことになります。主イエスの受難予告の箇所においてです。しかし主イエスの十字架としてこの言葉が出てくるのではありません。この十字架は、弟子としての十字架です。
 それでは十字架が何を意味しているか。十字架は何よりも死を意味します。十字架を背負うことによって、十字架で自分が死ぬのです。このことは「自分を捨てる」ということにも矛盾はしません。
 ペトロも自分を捨てよと言われているのです。自分の思いも変える必要が生じてきます。そもそも弟子になるとはどういうことでしょうか。誰かの弟子になるのです。その師匠のようになる。それはすなわち、自分が変わっていく覚悟が求められていることになります。

4.「我がまま」ではいけない

 ペトロもそうですし、私たちもそうですが、主イエスの弟子であるからには、そのままでいることはできません。変わっていくことが、覚悟が求められることになるのです。
 「わがまま」という言葉があります。漢字で書くのであれば、「我がまま」となるでしょうか。人間がもしも「我がまま」であったらどうなるか。「我がまま」を貫くとすればどうなるか。自分の中にあるものを何でもさらけ出すことになるでしょう。自分の醜さとか、人の悪口とか、そういうものをさらけ出す、それが本当の「我がまま」の自分ということになります。
 それではそれが本当のあるべき自分なのかというと、決してそうではありません。聖書はそのようなことは言わないのです。むしろそのような人間の状態は、罪のままの人間の状態であり、罪に支配されている人間の姿なのです。
 使徒パウロはこう言っています。「わたしは、自分のしていることが分かりません」(ローマ7・15)。善いことをなそうとする意志はあるけれども、自分の行いや思いを顧みるに、ちっともそうなっていない。望まない悪ばかりを行っている。その意味で、パウロは自分のことが理解不能だと言っているのです。パウロは続けてこう言います。7「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」4(ローマ7・24)。
 しかしこれだけでパウロは終わりません。人間の悲惨さを語った上で、続けてこう言います。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7・24〜25)。こういう自分だったけれども、イエス・キリストによって救われた、変えられた。だから古い自分は死ななければならない。古い自分に死に、十字架を背負って、新しい人に生まれ変わるのです。

5.代価が支払われた命

 自分に死んで新しい人になる、そのことが分かると、次の箇所もよく分かってくると思います。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(8・35〜37)。
 わずか三節の短い箇所ですが、「自分の命」という言葉が多用されています。「自分の命」はいったい誰のものでしょうか。私たちは自分の命は自分のもののように思っているところがあるかもしれません。しかし自分のものでしょうか。自分の好きにできるのでしょうか。聖書の答えはノーです。聖書はそうであるとは言わないのです。
 三七節のところに「代価」という言葉があります。私たちの命のために、何らかの値が支払われたのです。「我がまま」、罪のままであった私たちの命が買い取られた。だからこそ新しい命になることができたのです。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書第四三章において、「贖う」という言葉が出てきます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43・1)。「贖う」という言葉の意味も、代価を払って買い取るという意味です。神が聴き従おうとしなかった人間を、代価を支払って買い取られるのです。
 なぜそんなことが起こるのでしょうか。その理由が四節に記されています。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ43・4)。理由はただそれだけです。神の目に私たちが値高く、貴く、私たちを愛しておられるから。ただそれだけです。
 マルコによる福音書の言葉で言えば、主イエスの十字架という代価が支払われた。全世界という代価でも足りなかった罪人の私たち。しかしそれ以上、重みのあるキリストの命という代価が私たちのために支払われた。それほどに神は私たちを愛しておられるのです。
 そのことが分かった時、自分の十字架を背負い、恥をも背負うことができる。パウロは言います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1・16)。

6.神の国の現れ

 最後の第九章一節の言葉は、謎のような言葉です。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(9・1)。
 三八節の終わりの「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに」という言葉に関連した続きの言葉ですが、この言葉に関してはいろいろな意見があります。終わりの時の出来事のように語られていますが、すでに現在において終末の出来事が現れていると考えることができますし、あるいは、来週の聖書箇所の第九章二節以下で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが高い山の上で主イエスの輝くお姿を見た、そのことを表しているのかもしれません。
 しかしいずれにしても、主イエスの弟子とされて歩む者には、確かな約束が備えられていることが語られている言葉です。私たちは弟子とされ、その覚悟も問われます。恥との闘いもあります。しかし主イエスの命の代価が支払われた者として弟子の歩みを続け、神の国の現れという確かな約束の希望に生きることができるのです。
 今日はこれから聖餐に与ります。主イエスの命の代価が支払われた、そのことが私たちの目に見える形で現れます。神の国の現れを待ち望みながら、しかしもうすでに教会で神の国の食卓がここに現れている、その信仰に私たちは生きることができるのです。
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