「完成者キリスト」

本城 仰太

          マルコによる福音書  9章 2節〜13節
       列王記(下)  2章 1節〜14節
2:1 主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。
2:2 エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。
2:3 ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。
2:4 エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。
2:5 エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。
2:6 エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。
2:7 預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。
2:8 エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。
2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。
2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」
2:11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。
2:12 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
2:13 エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、
2:14 落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。


9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」


1.ラファエロの「キリストの変容」

 ラファエロというイタリアの画家がいます。その画家の代表作として知られているのが、ヴァチカンにあります「キリストの変容」と呼ばれる絵画です。本日、私たちに与えられた聖書箇所の場面が描かれています。
 この絵画は縦長のもので、上半分と下半分で違う場面が書かれています。上半分が、本日の聖書箇所に記されている「キリストの変容」の場面。キリストのお姿が白く光り輝き、その右と左にモーセとエリヤが、そして主イエスの足元あたりに目がくらんだような三人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが描かれています。これが上半分です。
 下半分はどうなっているのか。来週、私たちに与えられようとしている聖書箇所の場面が描かれています。主イエスと三人の弟子たちが山の上にいた時、山の下でもある出来事が起こっていました。ある人の息子が悪霊にとりつかれて苦しんでいました。その息子を山の下にいた弟子たちが癒すことができずに、四苦八苦していた。そんな場面が描かれています。
 山の上の出来事と山の下の出来事。ラファエロは同時に一枚のキャンバスの中に描きました。私はこの絵を観るたびにこんなふうに思います。ああ、これは私たちの現実だと。山の下に描かれているのは、私たちの現実そのものです。いろいろなことに四苦八苦している。思うようにいかない。こんなはずじゃなかった。誰か助けてくれないか。そんな人たちの様子が描かれています。私たちの歩みとも重なるはずです。
 今日の聖書箇所の最初のところに「六日の後」(2節)とあります。この日付から、多くの人たちは一週間の歩みを思い起こしてきました。聖書の最初の創世記に、一週間での天地創造の話が記されています。六日間で世界が造られ、七日目は特別な日です。神が安息をなさった安息日。その一週間の出来事が私たちの信仰の歩みにも重ね合わされました。六日間、私たちは山の下で四苦八苦します。しかし山の下で四苦八苦し続けるだけではありません。七日目、聖なる特別な日、安息日が私たちに与えられている。私たちは上へ連れて行っていただける。上の光を見させていただける。ラファエロの絵の上と下を行ったり来たりしている。私はこの絵を観るたびに、そんなことを考えます。
 このことを言い換えますと、私たちは神とかかわりを持つことができる。ここに書かれているのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった三人の弟子たちの特別な話のようですけれども、しかし私たちもこのまばゆい光を知っている。そして天からの声を聴いているはずです。私たちの日曜日を基準として一週間の歩みが、ラファエロの絵画に描かれ、今日の聖書箇所と来週の聖書箇所によって表されているのです。

2.神の国の現れを見た?

 今日の聖書箇所に記されている山の上での話は、なんだか不思議な話です。そんな印象を持たれた方も多いと思います。夢を見ているかのようです。しかしとても大事な出来事です。
 前回の聖書箇所の最後のところにこうありました。「また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」」(1節)。これも不思議な言葉です。「神の国」を生きている間に見る人たちがいると主イエスは言われます。それはいつ実現するのでしょうか。早速、「六日の後」に実現するのです。つまり、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが、今日の聖書箇所に記されている通り、「神の国が力にあふれて現れる」のをこのように見るのです。
 二節のところに記されているように、主イエスは弟子たちの中の三人だけを連れて行かれます。「高い山」とわざわざ記されています。気軽にハイキングができるような山ではなかったのでしょう。
 ラファエロの絵に描かれているように、山の下では来週の聖書箇所に記されている出来事が起こっていました。弟子たちが二手に分かれたからこそ、起こっていった出来事です。弟子集団が山の上と山の下に分かれて、これらの話が展開されていくのです。

3.山の上での出来事

 まずは山の上での出来事です。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2〜4節)。
 モーセとエリヤという二人の人物が登場しています。いずれも旧約聖書の人物で、旧約聖書を代表する二人です。モーセは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活を抜け出し、故郷に帰った時のリーダーです。特にモーセは旧約聖書の最初の五つの書物を書いた人物として、長く知られてきました。最初の五つの書物には「律法」が記されています。モーセと言えば「律法」の代表者です。また、エリヤは預言者の中の一人です。神の言葉を預かって人々に伝える務めをしていた人です。数多くの預言者たちが現れますが、その預言者たちの中でも最も偉大と言われていたのがエリヤです。つまり「預言」の代表者です。
 これらの旧約聖書を代表する二人がここに現れ、主イエスと三人で語り合っている。いったい何を語っていたのでしょうか。ルカによる福音書の同じ場面にこのように記されています。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9・31)。つまり、私たち人間の救いについて語り合っていたのです。「律法」が与えられたけれども、これだけによって救われなかった。「預言」の言葉が与えられたけれども、これだけによって救われなかった。そのようなことが語られていたのではないかと思います。
 その話し合いの結果、どうなったか。モーセとエリヤは消えました。主イエスだけがいつも通りのお姿で残られた。あとは主イエスだけが、救いの完成に向けて歩まれる。モーセとエリヤが消えた今、主イエスが完成者としてその後の道を歩んでくださるのです。
 モーセとエリヤが消える前に、三人の話し合いを見ていたペトロはこのように言います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)。ペトロは何を言おうとしていたのか。六節にこう続きます。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」(6節)。ペトロはよく分からないながらも、こう思っていました。「仮小屋」を建てよう。仮小屋というのは、テントのようなものですが、人をその中に宿すことができます。私たちにもう少し馴染みのある表現で言うならば、記念館を建てようというようなことです。自分の師匠である主イエスが、あのモーセとエリヤと語り合った。その素晴らしい栄光に満ちた出来事をいつまでも保存するように、記念館を残そうとしたのです。

4.天からの声「これに聞け」

 そんな状況の中、天からの声が響いてきます。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」(7節)。これは天から響いてきた声です。とても珍しいことです。
 マルコによる福音書において、他にも天から響いてきた声を記している箇所があります。主イエスが洗礼をお受けになられた場面です。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(1・9〜11)。
 この場面で天から響いてきた声は、誰に向けられた声なのかというと、洗礼を受けられた主イエスに対する声です。しかし今日の聖書箇所では違います。主イエスに対して響いてきた天からの声ではなく、三人の弟子たちに対してです。「これに聞け」とあります。もっと正確に訳すと、「あなたがたは彼(これ)に聞きなさい」となります。「あなたがた」に対する命令形です。弟子たちに対して、しっかり主イエスの言葉を聴くように、そういう声が天から響いてきたのです。
 これはペトロにとって何よりも大事なことだったでしょう。ペトロはこの状況をどう理解してよいのかまるで分からなかった。だから仮小屋を建てましょう、などということを口にしたのです。しかしそれよりもまず聴く。だから「これに聞け」と天から声が響いてきた。私たちにとっても大事なことです。

5.下山中の出来事

 「これに聞け」と言われて、どんな声を聞くのでしょうか。早速、下山中に主イエスの声を聴き始めます。「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。」(9節)。
 主イエスが沈黙するようにと命じられます。沈黙命令です。これまでにも同じようなことを主イエスは何度も言われてきました。しかしここでは期限が明確に区切られます。主イエスの十字架と復活の出来事が終わるまでの間、沈黙せよと言われるのです。主イエスが言われたこの言葉をめぐって、弟子たちが論じ合います。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(10節)。
 そして三人の中の誰かが質問をします。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」(11節)。主イエスのお答えはこうでした。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(12〜13節)。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所には、エリヤが天に上げられる話が記されていました。エリヤの後継者となった預言者エリシャの目の前で、エリヤは普通に死んだのではなく天に上げられた。それゆえに、イスラエルの人たちはエリヤが再来すると考えていました。実際にそういう聖書箇所もあります。
 それではいつ、どのようにエリヤは現れるのでしょうか。山の上に現れたわけですが、マルコによる福音書では、洗礼者ヨハネという人物がエリヤだとみなされています。第一章六節に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(1・6)とあります。これはエリヤの姿とそっくりです。また、ヘロデという王様が獄中につないでおいた洗礼者ヨハネの首をはねて殺害しますが、この場面でも、洗礼者ヨハネがエリヤとみなされています。
 今日の聖書箇所で、律法学者は「エリヤが来るはずだ」と言っています。それに対して主イエスは「エリヤは来た」と言われています。過去形として、すでに来たと語られています。洗礼者ヨハネの運命が、主イエスのこれからの運命につながっていくことが示唆されているのです。

6.十字架の死にまで下る

 エリヤがもうすでに来た、過去形で語られます。モーセもエリヤも消えていなくなってしまいました。残されたのは主イエスだけです。確かに今までのモーセもエリヤも、必要な存在でした。しかし最後は主イエスお一人がすべてを担ってくださいます。すべての必要なことを完成させてくださいます。
 主イエスはそのために、山の上から下りて来てくださいました。栄光に輝くお姿のまま、山の上、天の上におられてもよかったはずです。記念館に留まり続けてもよかったはずです。しかし主イエスはそうなさらなかった。上から下へ、天から地へ、下りて来てくださった。地に下りてくださっただけでなく、十字架の死に至るまで、下へ、下へと下ってくださった。
 下には、ラファエロの絵で描かれたような、私たちの現実があります。しかし私たちはその現実世界だけに生きているのではありません。山の上を知っています。「これに聞け」という天からの声も知っています。下の世界で苦しむ私たちを救う方が来られたからです。私たちを解き放つ声を聴いているのです。
 今日は安息日。六日の歩みを終えて、「これに聞け」という声に従って、御言葉を聴いています。これから新しい一週間が始まります。山の下の世界にはどんなことが待ち受けているでしょうか。様々なことがあるかもしれません。しかし私たちは上の光を見ながら、上からの声を聴きながら、次の六日の歩みを歩んでいくことができるのです。

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