「信仰が生み出す祈り」

本城 仰太

        詩編  86編 1節〜11節
               マルコによる福音書  9章14節〜29節
86:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。
86:2 わたしの魂をお守りください/わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください/あなたはわたしの神/わたしはあなたに依り頼む者。
86:3 主よ、憐れんでください/絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。
86:4 あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。
86:5 主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に/豊かな慈しみをお与えになります。
86:6 主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
86:7 苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。
86:8 主よ、あなたのような神は神々のうちになく/あなたの御業に並ぶものはありません。
86:9 主よ、あなたがお造りになった国々はすべて/御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
86:10 あなたは偉大な神/驚くべき御業を成し遂げられる方/ただあなたひとり、神。
86:11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。


9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。


1.取り囲まれながらも…

 本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところにこうあります。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」(14節)。この場面を想像してみてください。主イエスの弟子たちはどんな様子でしょうか。悪霊に取りつかれた人を癒すことができなくて、群衆に取り囲まれてタジタジになっている、そんな様子ではないかと思います。
 ある注解書を書きました聖書学者が、こんなことを言っています。ここに書かれていることは、おそらく初代教会と同じ状況だろう、と。どういうことでしょうか。二千年前の最初期の教会も、教会の周囲の人たちに取り囲まれて、タジタジになっていたということです。あなたがたはこんなことを信じているのか、イエスという男を信じていったい何になるのか、あなたがたにはちっとも力がないではないか、そのように詰め寄られて、タジタジになっていたと言うのです。
 先週の月曜日、私たちの教会では葬儀がありました。また、金曜日には病床を訪問して聖餐も行いました。そのような教会の営みに対して、もしも教会の周囲の人たちから同じように言われたとしたらどうでしょうか。イエスという人を信じていたって、病だって癒されるわけではないし、死が遠のくわけでもない。何ひとつ変わらないではないか、無力ではないか。私たちも同じ状況かもしれませんが、しかし確信を持って言えることがあります。今日の聖書箇所の二四節に、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という言葉があります。これを少し言い換えて、私たちはこう言えるのです。「私たちは信じています。不信仰なところがあるかもしれませんが、神に助けていただいて私たちは信じています」、この言葉を言うことができる。教会の私たちはタジタジになりそうになりながらも、しかし二千年にわたってこの言葉を言い続けてきました。
 今日の聖書箇所は、山の上から主イエスと三人の弟子たちが下りてきた場面です。先週の説教で、ラファエロの「キリストの変容」という絵をご紹介しました。絵の上半分が、先週の聖書箇所の山の上での話です。主イエスの姿が真っ白になり、旧約聖書を代表する二人であるモーセとエリヤと語り合い、三人の弟子たちはその足元で目がくらむようにしている。絵の下半分が、悪霊を追いだすことができず、群衆に取り囲まれてタジタジになっている。そんな絵です。それが同時に起こっていました。主イエスと三人の弟子たちが下山すると、山の下に残った弟子たちが、大勢の群衆に取り囲まれている状況でした。

2.我慢しなければならないのか

 主イエスと群衆とのやり取りが記されています。「何を議論しているのか」(16節)と主イエスが言われたのに対し、群衆の中のある者は「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(17〜18節)と答えます。
 弟子たちができなかったことに対して、主イエスは言われます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(19節)。
 ここに「我慢する」という言葉が使われています。主イエスがこのお言葉を言われた時、主イエスは不機嫌に言われたのでしょうか。確かにそうかもしれません。しかし単なる不機嫌ではないと思います。
 「我慢する」と同じ言葉が、新約聖書の別の箇所で使われています。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し…」(エフェソ4・2)。「忍耐する」というのが、聖書の元の言葉のギリシア語では同じ言葉です。
 聖書の同じ言葉を、日本語の翻訳にすると、ある箇所では「我慢」になり、別の箇所では「忍耐」になる。文脈によって訳し分けているのです。「我慢」とはどういう言葉でしょうか。「我慢」というのは、その字が表す通りですが、もともとは我を自慢する、自己に執着するという意味がありました。自分中心なので他者を侮る。そこから転じて、我が強いことを軸にして耐え忍ぶ、「我慢」という意味になっていきました。
 私は「我慢」よりも「忍耐」という日本語の方が聖書的だと思います。「我慢」というと、自分一人の世界で耐え忍ぶことになりがちですが、聖書においては相手がいるのです。神が私たち人間のことを忍耐してくださったり、私たち人間が隣人のことを忍耐したり、相手がいるのです。
 主イエスはここで「いつまで、あなたがたに我慢(忍耐)しなければならないのか」と言われていますが、「我慢ならん、もう出て行け」と言われているのではありません。「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われます。突き放すのではなく、主イエスが責任を負ってくださるのです。我慢しなければならないけれども、相手を受け入れる我慢、忍耐です。弟子たちが駄目だったことに、とことん責任を負ってくださるのです。

3.できれば…

 引き続き、父親とのやり取りが続いていきます。主イエスは「このようになったのは、いつごろからか」(21節)と言われます。この父親は答えます。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(21〜22節)。
 「おできになるなら」とこの父親は言います。日本的な感覚からすると、「もしよろしければ…してください」と謙遜しているかのようです。しかし謙遜というよりも、「もしあなたに力があるなら…」という言葉です。父親の中に、少なからず疑いや不信仰があるということです。
 この言葉に対して、主イエスは言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(23節)。主イエスが異常なまでにこだわりを見せています。この父親の言葉尻を捉えているかのようです。しかしこれがとても大事なことだったのです。「できれば…」と言うのではない、むしろ「信じる者にすべてのことが可能なのだ」、主イエスはこの父親にその信仰を問い直しておられます。
 そうするとこの父親は即座に答えます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24節)。先ほどの二二節では「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」でした。ところがこの二四節では「信仰のないわたしをお助けください」です。「わたしども」から「わたし」に変わっています。主イエスの前に立ち、自分の信仰が問われているからです。
 わたしは信じる、けれども信仰のないわたしをお助けください。矛盾しているかのようです。信じるけれども、不信仰なので助けてください、と言っているのですから。主イエスから問われて、とっさに答えたのでしょう。主イエスとの対話の中で引き出された言葉です。しかし大事な言葉です。この父親の心をよく表している言葉であり、私たちの信仰の心をよく表している言葉です。

4.一筋の心

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第八六編です。詩編は全部で百五十編あります。それぞれが歌になり、祈りになっています。ほとんどに表題が付けられています。小さな文字になっているところですが、この詩編八六編には「祈り」とあります。歌よりも、信仰の祈りであることが表されています。
 この詩編を祈っている人の状況はあまりよく分かりません。「わたしは貧しく、身を屈めています」(86・1)と始まります。あるいは後半の「神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。」(86・14)というような言葉から、この祈りを祈っている人が、何らかの苦難のうちに置かれていたことが分かります。しかし神への信頼に生きていることが分かります。「主よ、憐れんでください、絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。」(86・3)、「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。」(86・7)。
 しかし、このような神信頼に生きている人が、このように言っています。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」(86・11)。こういう心を与えてください、と祈っているのです。聖書には、これと似たようなことを言っている箇所が多くあります。例えば、別の詩編の箇所に、「神よ、わたしの内に清い心を創造し…」(51・12)とあります。私が自分の心をなんとかします、ではなく、神さま、どうか私の心をこのように造り変えてください、と祈っているのです。
 詩編第八六編では、「一筋の心を」と祈ります。なぜなら、私たち人間の心は非常に割れやすいからです。「できれば…、信じたい」と私たちは思います。「でも、駄目だよな…」と、どこかで思ってしまいます。駄目だった場合に「どうしようか…」と思ってしまいます。心がいくつにも割れてしまうのです。そんな心ではなく、「一筋の心を」、どうか神さまお願いします、と祈るのです。
 本日のマルコによる福音書の箇所でも同じです。心がいくつにも割れてしまう、「できれば…」と言ってしまうような、不信仰な心の持ち主だけれども、信じます。私を助けてください、信じることができるように。この人はそう主イエスに言っているのです。

5.信仰と祈り

 まさにこれが祈りです。悪霊に取りつかれた人の癒しがなされ、最後のところにこうあります。「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」(28〜29節)。弟子たちにとっては失敗談です。「家の中」「ひそかに」と書かれていることから、弟子たちの気持ちもよく分かります。
 弟子たちには成功体験がありました。以前、主イエスから伝道旅行に遣われた時のことです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(6・12〜13)。この時は悪霊を追いだすことができたのです。主イエスは山の上に行かれていて不在だし、あの時と同じように今回も、という気負いがあったのだと思います。でも今回は駄目だったのです。
 なぜ駄目だったのでしょうか。聖書全体の記述からすると、初回のみが唯一の成功体験だったと言った方がよさそうです。本日の聖書箇所では駄目、その後の教会も今日の聖書箇所と同じように駄目、群衆に取り囲まれてタジタジになっているような状況です。
 しかし、たとえ病を癒せなかったとしても、大事なことがあります。そのことはまさに教会が世々にわたって大事にしてきたことです。主イエスの「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」というお言葉からすると、弟子たちは祈らなかったのではないかと思えます。いや、祈っていたけれども、その祈りが本当の祈りになっていなかった。弟子たちに足りなかった信仰であり祈りが、この父親の「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24節)という言葉に明確に示めされています。
 ある人が、この父親の言葉をこう評価しています。「信仰の心が最もよく言い表された言葉」である、と。これ以上、神に依り頼んだ信仰の言葉はないのではないかと思います。

6.病や死の中においてこそ

 なおも問いは残ります。私たちの祈りが整えば、病の癒しは起こるのだろうか。死は去っていくのだろうか。残念ながら、答えはノーです。相変わらず私たちの病の現実、死の現実は何も変わらないかもしれません。
 しかし私たちの祈りが間違いだったわけではありません。確かに祈ったらどんな病でも治る、死が遠のいていくというわけではありません。しかし、私たちの病がびっくりするような仕方で治るような力を得ることがではなく、たとえ癒されない病の中にあっても、神の恵みに生きることができるようにしてくださる、神の恵みのうちに死ぬことができるようにしてくださる、この父親の言葉には、その力があります。
 教会は、たとえ死の床においても、その人に洗礼を授けることがあります。この世の望みは何も残されていない人に対して、イエス・キリストの甦りの命に生きてもらうのです。父親の息子は主イエスに癒されて「死んだようになった」(26節)と記されています。周りの人は死んでしまったと思いました。しかしこう続きます。「しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」(27節)。
 洗礼だけではありません。教会は病床で聖餐を祝います。そこにおいても私たちの口から出てくる言葉が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という言葉です。私たちに共通の言葉です。こういう心を持つことができるように、こういう言葉を口にすることができるように、それが病や死を越えて、私たちを支える祈りなのです。
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