「十字架と復活の真意」

本城 仰太

       エレミヤ書 31章27節〜34節
 マルコによる福音書  9章30節〜32節
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28 かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
31:29 その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。
31:30 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。


9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。


1.受難節

 受難節の歩みが続いています。受難節とは、主イエス・キリストのご受難を覚える季節です。レント、四旬節とも言います。主イエスが四十日間、悪魔から誘惑を受けられたことを覚えて、イースター前の四十日を四旬節と定める。レントという言葉は、もともとゲルマンの言葉だったそうですが、断食を意味する言葉でした。イースター前の四十日間、断食をする。もちろん完全に飲食をすべて絶つという断食ではありませんが、主イエスの御苦しみを覚えて、レントの期間に断食を習慣とする教会があります。ただしこの断食、日曜日はしません。日曜日は受難節であっても、主イエスがお甦りになられた日なので、この日は断食をしない。今年のイースターは四月二一日です。イースター前の土曜日から、日曜日を除いて四十日間を数えると、始まりは必ず水曜日になります。灰の水曜日と言います。今年は三月六日でした。この日から受難節、レントに入る。灰を額に付ける教会もあるそうですが、そのように断食をしたり、断食をしなかったとしても、主イエスの御苦しみを覚える季節を私たちは過ごしているのです。
 さて、受難節に私たちは何をするか。思い起こすのです。主イエスが十字架に進まれたことを。主イエスの十字架の道行きを覚える時、いろいろな問いが生まれてきます。主イエスが何のために十字架に進まれたのか。主イエスの十字架と私たちにどのようなかかわりがあるのか。そもそも十字架に進まれた主イエスとはどなたなのか。
 ある方がこう言われました。最近、説教を聴いてもすぐ忘れてしまうのです。私はこう答えます。そうでしたら、毎週、何度も聴き直してください。これは記憶力の問題ではありません。私たち人間はすぐに忘れてしまいます。神の定めを忘れてしまい、的外れな生き方をしてしまいます。だから御言葉を聴き続ける。曲がった自分を直していただくのです。
 教会で語られていることは、基本的に毎週同じだと言ってもよいでしょう。それどころか、二千年にわたって変わっていないとさえ言えます。イエス・キリストの歩みを振り返る。キリストが何をしてくださったか。キリストとはどなたなのか。その光のもとで、自分自身の歩みを顧みるのです。主イエスは自己犠牲の愛へと進まれます。主イエスが救い主として、私たちのために十字架にお架かりになった。受難節だけではありませんが、特に受難節において、何度もそのことを思い起こすのです。

2.エルサレムへの南下と受難予告

 本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初にこうあります。「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」(30節)。これまではガリラヤ湖周辺で主イエスは活動をされてきました。あっちへ行ったり、こっちへ来たり。ガリラヤ湖を離れて、かなり北方まで旅をされることもありました。
 来週の聖書箇所で「カファルナウム」(33節)という地名が出てきます。ガリラヤ湖周辺の地名です。そこへ行ったくらいで、ガリラヤはもはや目的地ではなく、通過点になります。主イエスはこれから南下し、エルサレムを目指しての旅が本格的に始まっていきます。エルサレム、それは主イエスが十字架にお架かりになったところです。ご自身の十字架の死を見据えて、新たな出発をされるのです。
 このことに伴い、マルコによる福音書に見られる一つの特徴があります。それは、エルサレムへの旅をするにあたって、もはや奇跡や癒しをほぼ行わなくなった、ということです。先週の聖書箇所では、悪霊に取りつかれた人の癒しを行いました。そしてこれ以降の箇所で、癒しが行われるのはたった一回だけです。バルティマイという盲人の目を開く、たったそれだけです。今までは大勢の人が主イエスの周りに群がり、癒しを求め、主イエスもそれに応じて癒してくださいましたが、もはやそういうことはないのです。多くの人を癒すという目的は終わったのです。
 続く三一節にこうあります。「それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。」(31節)。文法的に言いますと、ここでは未完了形という形が使われています。マルコによる福音書ではこのような受難予告が三度、なされています。一回、二回、三回、そういう形で三度だけ主イエスが予告されたというのではなく、未完了、完了していないのですから、何度も繰り返し言われたのだと思います。私はこれからエルサレムを目指していく、そこで死ぬために、また甦るために、エルサレムへ行くのだ。そう言い続け、そのことを弟子たちに教え続けた。主イエスがまっすぐに十字架へ向かって行かれる、そういう主イエスのお姿が際立っているのです。

3.引き渡される

 三一節の主イエスのお言葉の中に「引き渡される」という言葉があります。これは重要な言葉です。「引き渡される」という言葉、主イエスの十字架へ直結する言葉であり、同じ言葉が別の箇所では、主イエスが「捕らえられる」、ユダが「裏切る」というように訳されています。
 主イエスは神の子です。本来ならば、神の子ともあろうお方が、私たち人間のすぐ近くにおられるということも考えられないのかもしれません。私たち人間の手の中におられるはずのないお方です。このお方が「引き渡される」。引き渡され、私たち人間の手の中に置かれる。さて、人間は自分の手の中に置かれた神をどのように扱ったか。私たちならどうするでしょうか。自分の手の中にあるのですから、自由にしてよいのです。丁重に扱ったでしょうか。敬ったでしょうか。人間はこうしました。自分の手の中にある神を捨てたのです。
 私たち人間は神に造られ、神と向き合い、神に呼びかけられ、神に応答し、神との交わりの中に生きるように造られました。ところが聖書に書かれているのは、人間が神に向き合わず、背いた。罪を犯したということです。天まで届く塔を建てて、神と肩を並べよう、神のようになろう、もはや神は要らないのだから、それが人間のなしてきたことです。
 マルコによる福音書に、こんな言葉があります。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(12・10〜11)。これは主イエスが旧約聖書を引用されて言われた言葉です。不思議なことが語られています。家を建てようとする。石造りの家ですから、石を手に取ります。しかし手に取った石が不都合だった。こんな石は要らない、そう考えて捨てたのです。しかしその石がまた別の建物を建てる際の「隅の親石」となった。つまり、一番下にある、建物全体を支える最も大事な石になった、と言うのです。この新しい建物が教会を表し、捨てられた石であり「隅の親石」となった石が、主イエスのことを表しています。人間は自分の手の中にあった「引き渡された」神の子を捨てたのです。
 しかも主イエスは三一節の受難予告で、「人々」という言葉を使われています。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(31節)。一回目の受難予告では「長老、祭司長、律法学者たちから…」と言われていました。いわば偉い人たちから、ということです。しかし二回目は違います。「人々の手に」引き渡されるのです。十字架の責任を誰に押し付けるのか。教会の二千年の歴史の中で、しばしばその責任がユダヤ人への迫害とも重なって、ユダヤ人に押し付けられてきました。しかしそれは誤った態度です。自分もその責任を免れないのです。私たちも「引き渡されて」自分の手の中に置かれている神の子と、きちんと向き合おうとしない。はっきり言えば捨ててしまうところがあるからです。

4.長老任職式の誓約

 大事なことは、自分が当事者になることです。主イエスの十字架はいったい誰のための十字架なのか。あの人のためなのか、この人のためなのか、人のことをあれこれと問うよりも、自分のためだった、そのように捉えることが、受難節のふさわしい歩み方だと思います。
 本日のこの礼拝で、新たに長老に選出された方の長老任職式が行われました。長老任職式では誓約がなされます。その言葉は大変、重たいものです。長老に選出されたご本人にとっても重たい言葉でしょう。けれども、長老任職式の大きな特徴でもあると思いますが、教会員も誓約をするのです。教会員が誓約した言葉も、大変、重たいものです。「その務めを十分に果たさせることを約束しますか」と問われます。長老として選出された人が、長老としてきちんと立つことができるかどうか、それは本人の責任ではなく、教会員一人一人の責任であると、そう誓約しているのです。教会員も誓約の当事者になるのです。
 そのようにして、長老と教会員の双方が神の前に立ち、誓約をします。それぞれの誓約の直後に、祈りがあります。「どうか、このよい志を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように」。今日、このような祈りをしました。しかしこれは今日だけの祈りではありません。長老になった方の祈りであり、当事者である私たちの日々の祈りです。長老の働きが、牧師の働きが、教会の働きが守られるように、との祈りです。
 十字架の前に立つというのは、まさにそういうことなのだと思います。自分が十字架の前に立つ。他の誰かを立たせて自分はその労苦を負わない、というのではありません。私もまた主イエスを十字架へと「引き渡した」。その罪を悔い改めて、祈りをささげ、受難節を過ごすのです。

5.新しい契約

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所はエレミヤ書です。ここに新しい契約が記されています。まさにこれを結ぶために、主イエスは十字架の死へと「引き渡された」のです。
 エレミヤ書のこの新しい契約は、罪の赦しが前提とされている契約です。旧約聖書の時代は、罪の赦しのために動物の犠牲が必要でした。動物、すなわち自分の財産としての家畜をささげ、自分が罪を犯したならば、自分の財産をささげる。いわば自己責任としての罪の赦しを得ていたのです。エレミヤ書の二九節にこうあります。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」(エレミヤ31・29)。先祖が犯した罪によって、その子孫が罰せられることが言われています。しかしそうではなく、続けて 「人は自分の罪のゆえに死ぬ。」(エレミヤ31・30)と語られます。きちんとした自己責任になるのです。
 しかしまったく別次元の赦しが、この新しい契約にはあります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」(エレミヤ31・31〜32)。「エジプトの地から導き出したときに結んだ」契約とは、旧い契約のことです。古い契約がもはやうまくいきませんでした。人間がきちんと守ることができなかったからです。
 そこで新しい契約が結ばれます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31・33〜34)。「罪に心を留めることはない」と断言されています。もう罪の赦しが実現している契約です。
 これまでは自己責任でした。ところが人間の自己責任では、いつまでも罪の問題が解決されることはありませんでした。罪を犯した、自己犠牲で赦してもらう。いったん赦されてよかったのかもしれませんが、また罪を犯してしまう。そうなったら、また自己責任で罪の赦しを得る。いつまで経っても、その負の連鎖が続いたのです。
 しかし神の子が犠牲を払ってくださる。それが新しい契約です。人間の罪の赦しのための一切の犠牲を払ってくださった。それが主イエス・キリストの十字架です。すべてを主イエスが担ってくださった。そのようにして新しい契約が結ばれました。主イエスが罪の赦しを成し遂げてくださる。私たちはその主イエスを救い主として信じる。それが新しい契約です。
 マルコによる福音書に戻りますが、今日の聖書箇所の最後にこうあります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(32節)。弟子たちは恐れを抱いていました。何に対する恐れでしょうか。聖書にはっきりと書かれていませんので、推測する以外にありませんが、自分たちの師匠の死を恐れたのかもしれませんし、自分たちにも火の粉が降りかかることを恐れたのかもしれませんし、先行きに不安を覚えたのかもしれません。しかしはっきりと主イエスに質問することもできませんでした。弟子たちが無理解のまま進んでいきます。それでも主イエスが十字架への道行きを進んでいかれます。
 この新しい契約を成り立たせるために、主イエスは十字架へと進まれるのです。十字架は究極の自己犠牲の愛です。主イエスが得をすることは何一つありません。最大の損をする愛です。その十字架の前に、私たちも当事者としてきちんと立ち、受難節を過ごしたいと思います。
マルコ福音書説教目次へ
礼拝案内へ