「偉い人は仕えることができる」

本城 仰太

       コヘレトの言葉  4章 4節〜12節
         マルコによる福音書  9章33節〜37節
4:4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。
4:5 愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。
4:6 片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。
4:7 わたしは改めて/太陽の下に空しいことがあるのを見た。
4:8 ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。
4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。


9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


1.誰が一番偉いのかを議論

 主イエスの弟子たちは、自分たちの議論の内容を主イエスにお話しすることができませんでした。黙ってしまいました。後ろめたいと思っていたからです。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」(33〜34節)。このような偉さを競うことは、明らかに主イエスの教えとは反する。そのことは弟子たちも分かっていました。だから答えることができずに黙っていました。でも論じてしまったのです。
 なぜ弟子たちはそれにもかかわらず論じてしまったのでしょうか。弟子たちの姿を滑稽に思われるかもしれません。しかし私たちは弟子たちを馬鹿にすることはできないと思います。
 例えば、このように考えていくとよいと思います。この聖書箇所の少し前のところに、主イエスの弟子たちの中の三人だけが、山の上に連れて行ってもらうということがありました。主イエスと三人が山に登り、その山の上で、その三人だけが驚くべき出来事を目の当たりにするのです。しかもその出来事を主イエスの十字架と復活の出来事が起こるまでは口外するなと主イエスから言われる。実際にこの三人の弟子たちがこの時点でどれくらいのことを口にしていたのかは分かりません。他の弟子たちから山の上で何があったのかと問われても、まったく黙ったままでいたのか。それとも、自分たちは驚くべきことを見たと言い、いったい何を見たのかと問われてもお茶を濁していたのか。そのことはよく分かりませんけれども、残りの九人の弟子たちはどう思ったでしょうか。羨ましいという思いや、妬みの思いもあったと思います。なんだか三人だけが重んじられている、そういう雰囲気の中、誰が偉いのかという議論が生じたのです。
 そう考えていきますと、私たちにも思い当たるところがあると思います。偉いとか偉くないとか、そういう言葉は使わなかったとしても、上だとか下だとか、自分が人よりも重んじられたいとか、人から軽く扱ってもらいたくないとか、輪の中心でいたいとか、そういうことはここでの弟子たちと同じように、よく論じ合ったり、心の中で思ったりすることではないかと思います。
 いつの時代でも、こういう議論はなされるものだと思います。しかも表立って堂々となされることはない。裏でいつでもなされている議論を、この時の弟子たちもしていたのです。

2.仕える

 こういう状態の弟子たちに対して、主イエスが言われたことは、仕える者になれ、ということです。「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」(35節)。師匠が弟子に対して大事なことを教える際のスタイルです。そして大事なことを主イエスが教えられます。
 「仕える」という言葉を主イエスが言われています。聖書においてもとても大事な言葉です。この言葉は、もともとは食事の世話をする、給仕をするという意味でした。そこから、食事のことだけではなく、生活全体の世話をするというように意味が拡大され、今の「仕える」という意味になっていったそうです。
 相手が生きていくために、その人のために心を配るのです。生きているのは自分だけではない。共に生きる者を軽んじないで、その人のお世話をして、その人と共に生きるのです。

3.牧師としてどこに立つか

 教会の牧師としては、私が時々考えることがあります。牧師はいったいどこに立つべきなのか、ということです。牧師は教会員からよく祈られています。多くの祈りに支えられています。そのように祈られる祈りの中で、こういう祈りがあります。「本城牧師を先頭にして、中渋谷教会が…」。その祈りの言葉に表されているように、確かに羊飼いとして御言葉を語り、羊を養い、羊の群れを導く。それは紛れもなく聖書に記されている事実として、そのことを牧師は自覚しなければなりません。
 しかしその立ち位置だけで済むのか。こういうふうにも言えると思います。御言葉を聴く一人の人間として、牧師も教会員と共に御言葉に聴き、共に歩んでいく。だから牧師も教会員の中にいる、そう言うこともできると思います。
 さらには、こうも言えると思います。教会全体が歩んでいくのに際して、一番歩みがゆっくりとした人に合わせる必要があります。教会の歩みは急ぐ必要がありません。いや、むしろ急いではならないのです。一匹の羊も失われることなく、それが主イエスの言われることです。だからゆっくり歩みます。牧師はだからこそ、最も低いところに、最も後ろにいなければならない。これもまた牧師の心得でしょう。
 私の牧師としての話をしてきました。しかしこれは牧師だけの話でしょうか。けっしてそうではありません。キリスト者として生きる、私たち一人一人の問題です。いったい私たちはどこに立って歩むべきでしょうか。人と共に歩むために、私たちの歩み方が問われているのです。

4.コヘレトの言葉

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、コヘレトの言葉の第四章です。「コヘレトの言葉」という書物は、別名、「伝道(者)の書」とも言います。人生を生きる上で、著者が読者に大事なことを伝えようとしています。
 この著者自身が、人生においてあれこれとやってみて、その結果どうであったかということを伝えています。例えば、王になってみる。あらゆる権力を手に入れてみる。しかしそれはむなしかったと言います。あるいは、あらゆる快楽に浸ってみる。しかしそれもむなしかった。あらゆる知識を得てみる。しかしそれもむなしかった。
 そういう様々なむなしさのことが触れられていく中で、今日の聖書箇所もまたそのむなしさの一つです。一人で生きることのむなしさです。四節のところに、「競争心」という言葉が出てきます。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。」(コヘレト4・4)。「仲間」という言葉が出てきますが、その「仲間」に「競争心」を燃やしているわけですから、本当の「仲間」ではなくなっています。一緒に歩むことをしなくなっているわけですから。これもむなしい。
 八節のところに「ひとりの男」の話が記されています。「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。」(コヘレト4・8)。自分一人のために、労苦し、富を飽くことなく求めている人です。この労苦は誰のためなのか、結局自分は死ぬわけで、飽くことなく貯めたものは死後に持っていけるわけではありません。これもむなしい。
 九節以下の言葉は、まとめるようにこう言います。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」(9〜12節)。
 コヘレトの言葉のこれらのことを、今日のマルコによる福音書の箇所の言葉で言えば、「仕えることをしない」生き方のことです。それゆえその人は一人になる。そのむなしさが説かれる。主イエスが言われるのはそういう生き方ではなく、共に生きる生き方です。そのためにあなたがたは「仕える」生き方をするようにと言われるのです。

5.子どもを受け入れる

 主イエスは今日の聖書箇所の最後のところでこう言われています。「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」(36〜37節)。
 子どもとはどういう存在でしょうか。今の私たちが思う子どもと、聖書が書かれた二千年前の世界とは、まるで子どもに対する考え方が違います。今では家族の中でも子ども中心ということがいくらでもあり得ますが、当時は最も価値のない存在として、最も軽んじられていました。序列で言うと最下位です。
 その子どもの中でも序列がはっきりしていて、健康な男子が子どもの中では優遇されていました。子どもが生まれると、新生児が父親の足元に置かれ、父親によって抱き上げられなければ育てられない、ということも実際にあったそうです。特に女児の場合はそうでした。
 ある社会学者が書いた本があります(スターク『キリスト教とローマ帝国』)。教会の歴史はローマ帝国の中で始まりました。ローマ帝国において、キリスト者の人口がある時期から指数関数的に増えていきました。最初の二百年くらいは少ない数で推移していましたが、ある時期から爆発的に増えるようになった。その理由を、信仰面からだけでなく、社会学的なところから探ろうとしているものです。
 その理由の一つとして、「キリスト者の子沢山」という理由を挙げています。当時のローマ帝国の男女の人口比率は、「1.4(あるいは1.3)対1.0」だったそうです。なぜそんなに釣り合っていないか。明らかに人為的な手が加わっていたからです。具体的に言うと、女児の「間引き」が行われていたからです。つまり、長女はまあ育てるけれども、次女や三女は育てない。子どもが軽んじられる社会において、そう考えられていたからです。それが人口比率に表れているのです。
 しかしキリスト者の家庭は違いました。子どもが生まれる。これを、子どもが生まれるではなく、子どもが神から与えられると考える。そして何よりも、今日の聖書箇所にあるような主イエスの言葉を重く受けとめたのです。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は…」
 そのキリストの言葉を重く受けとめて、女の子も重んじて育てます。次女も三女もきちんと育てます。やがて女の子が成長し、結婚していきます。そうなると、異教徒の男性とキリスト者の女性の組み合わせが多くなります。夫に対する影響ももちろんあったと思いますが、何よりも母から子どもへの影響は大きいわけで、母親のキリスト者としての愛情を受けて、子どもが育つ。子どももキリスト者になっていく。そしてその家庭では女児も大事に育てていく。歴史的な資料をもとに、そういう統計を調べて、この社会学者は「キリスト者の子沢山」という理由も、キリスト者の人口が増加していった一つの原因であるとするのです。
 その土台にあったのが、主イエスのこのお言葉です。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は…」。子どもを受け入れなさい。高いところにいるのではない。最も低いところにいる者を受け入れ、そこに降っていき、共に歩みなさい。主イエスはそういう生き方を求めておられるのです。

6.十字架へ降る

 主イエスご自身が何よりも、その低きに降る生き方をされた方です。誰が一番偉いのかと論じあっていた弟子たちです。ある説教者がこんな指摘をしています。誰が一番偉いのか、弟子たちの比較対象の中に入っていたのは、おそらく弟子たちだけだったのではないか。自分たちの偉さを論じあっていたのではないか。その中に主イエスが入っていなかったのは明らかでしょう。もし主イエスが入っていたならば、当然、主イエスが偉いということになる。主イエスは自分たちの師匠だからです。比べるまでもないことです。
 しかし主イエスの偉さというのは、人の上に立つような偉さではありません。むしろ低いところにまでへりくだってくださった偉さです。十字架の死にまでへりくだる偉さです。その意味では、私たちが考えるような偉さではないのです。
 主イエスは本当に間もなく、十字架へお架かりになろうとしていました。このような偉さばかりを競い、低いところへ降ろうとしない人間の罪を代わりに背負い、その罪を赦すために、十字架にお架かりになったのです。最も低いところへ降ってくださった。私たち人間の死の深みまで降ってくださった。そういう偉さ、偉大さがキリストにはあるのです。
 それが分かった時、比較をして競い合う愚かさに気が付くのです。下に降りてごらん、下に立ってごらん、と主イエスは言われます。世界が違うように見えてきます。共に仕え合う世界、共に歩む世界、共に生きる世界が見えてきます。偉くならなければならない、重んじられなければならない、軽く見られたくないという自分の思いが吹き飛んでいきます。人と一緒に歩む道が見えてきます。
 そのようにして、主イエスが言われる愛が見えてくるのです。本当の愛というのは、人の下に立ったところでしか見えてきません。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」というのが、その愛に生きる者のことなのです。主イエスは私たちをそこへと招いておられます。

マルコ福音書説教目次へ
礼拝案内へ