「味方を得るために」

本城 仰太

       ヨシュア記  5章13節〜15節
         マルコによる福音書  9章38節〜41節
5:13ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、
5:14 彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、
5:15 主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。


9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」



1.あなたは誰ですか?

 「あなたは誰ですか?」、そのように問われたら、皆さまはどうお答えになるでしょうか。この問いは、実は少し前に出されたカテキズムと呼ばれる信仰問答書の最初のところにある問いです。カテキズムというのは、古くから教会で用いられた信仰教育書のことですが、その多くが問いと答えを重ねて、信仰の大事な点を伝えていく内容になっています。
 1998年に「アメリカ合衆国長老教会」というグループから、『はじめてのカテキズム』というものが出版されました。子どもたちの信仰教育のためのものですが、問答形式になっています。日本語では2002年に翻訳が出版されました。その最初の問一が、「あなたは誰ですか?」という問いなのです。
 この『はじめてのカテキズム』が出版された頃、私は教会学校の教師の奉仕をしていました。このような信仰問答書が出されましたので、教会学校の教師会で学び、ある年の夏期学校のテーマが「あなたは誰ですか?」というテーマに設定されました。問一は「あなたは誰ですか?」と問いかけ、その答えが「わたしは神さまの子どもです」と答えます。このことをめぐって、ある年の夏期学校で子どもたちと共に学びをしました。
 しかしこの問答は、決して子たちだけに限られるものではありません。大人になったからといって、「わたしは神さまの子どもです」と答えられなくなるわけではない。キリスト者なら誰でもこのように答えることができる。キリスト者というのは、新しい名前を授けられているからです。
 普通に考えて、「あなたは誰ですか?」と問われたなら、なんと答えるでしょうか。自分の名前をまず答えるでしょう。あるいは家柄とか、生まれ育ちのことを言うこともできるでしょう。さらには、仕事の場などでは、自分の能力やスキル、できることなどを話すかもしれません。一般的な自己紹介の仕方です。
 しかしこの『はじめてのカテキズム』が言うのは、もっと根本的なことです。「わたしは神さまの子どもです」とは、神さまを父としているから言えることです。そして神さまが父であるということは、キリストが私たちに与えてくださった特権です。キリストが神さまは遠くにおられる方ではなく、私たちの父だ、ちちと呼んでもよいと教えてくださいました。私たちはキリストに結ばれた者として、キリストと同じように、神を父と呼べる。キリスト者、クリスチャンという名前が、私たちに与えられているのです。

2.キリストの名を使う

 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、キリストの名が大事にされている内容です。最初のところにこうあります。「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」(38節)。
 十二人の弟子の中のヨハネという人物がでてきます。ヨハネにはヤコブという兄弟がいました。この二人にはあだ名が付けられていました。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。」(マルコ 3・ 1)。あの兄弟たちは「雷の子ら」だと言われていたわけです。どういうことでしょうか。雷というのはすさまじい音がします。声が大きかったのかもしれません。あるいは雷は突然、鳴りますから、気性が激しかったのかもしれません。三八節でヨハネが主イエスに対して言っている言葉も、大きな声で怒鳴るように主イエスに言っていたのかもしれません。こんなけしからん奴がいましたよ、と。
 悪霊を追い出すことに関しては、ひと悶着があったばかりでした。ついこの前、主イエスは十二人の弟子たちの中で、三人だけを選んで山の上に連れていかれました。このヨハネは山の上に連れられた三人の中の一人でした。山の下に残った九人は、主イエスの帰りを待っている間に、街の人たちから求められて、悪霊にとりつかれた人を癒そうとしたけれどもできなかったという苦い経験をしたばかりです。
 そんな状況の中、ヨハネが目の当たりにしたのは、「お名前を使って、悪霊を追いだしている者」でした。日本語ではあまりはっきりしないところがありますが、元の言葉では複数の人たちではなく一人の人です。自分たちとは無関係なところで、主イエスの名前を使って悪霊を追いだしている。しかも「追いだしている」ですから、悪霊を追いだすことに成功しているのです。
 ヨハネはこういう人物を目の当たりにして、いろいろと思うところがあったのでしょう。それほど主イエスのことも知らないくせに、と思ったでしょう。第一、俺たちと同じように主イエスの弟子になってもいないくせに、とも思ったでしょう。しかも自分の仲間ができなかったことを、することができているとは何事か。そういう思いもあった。だから止めさせた。いかにも「雷の子」らしいところがあると思います。

3.キリストの名によって

 しかしヨハネの期待とは裏腹に、主イエスはヨハネの言葉とは反することを言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」(39節)。主イエスはご自分の名が使われることを禁止されなかったばかりか、自分の名が使われることを、むしろ喜んでおられるかのように思えます。
 先週、私たちが御言葉を聴いた聖書箇所は、この一つ前のところになりますが、そこにこうありました。「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」(35〜37節)。主イエスの名のために、当時は最も軽んじられていた存在である子どもを受けいれなさいと言われたのです。
 本日のこの礼拝の中で、教会学校教師任職式が行われました。その中で聖書を朗読いたしました。「だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受けいれるのである」(マタイ18・5:口語訳)。私たちが御言葉を聴き続けているマルコによる福音書ではなく、マタイによる福音書の同じ箇所からの主イエスのお言葉です。教会学校の教師としての大事な心得の一つが、子どもを受けいれること、それも主イエスを受けいれるのと同じように、子どもを受けいれるということです。
 任職式で読まれる聖書の言葉や誓約の言葉というのは、かなり厳しいところがあります。長老任職式、牧師就任式、転入会式や洗礼式もそうだと思います。誓約をしなければならない。果たしてそんなに重たいことを誓約できるだろうか。誓約したのはよいが、果たしてそれを守れるだろうか、そういう問いが付きまといます。
 しかしこれらの誓約というのは、決して自分一人だけの問題ではないのです。自分一人でできるから誓約するのではない。自分の名によって誓約して、これらの務めを果たしていくのではない。ここでも大事になるのが、キリストの名においてということです。
 私たちはしばしば、自分の名が大きくなりすぎてしまうことがありあす。ヨハネもそうでした。キリストの名を使っている人がいる。悪霊を追いだしている。キリストの名は、直接の弟子である自分たちの専売特許だ。そう思っていたところがありました。そういうヨハネは、自分がキリストの弟子だというよりも、キリストの弟子である自分の名前の方が大きくなっていたところがあったのでしょう。キリストの弟子としての誇らしい思いがあったのでしょうけれども、それはそういう自分自身が誇らしかったのです。しかしキリストの弟子として、キリストの名が与えられたのは、あくまでも与えられたものです。
 私は教会の牧師です。キリストの名が伝えられるように、キリスト名が崇められるように、それが牧師の働きの目的です。しかし牧師はその点において、とても誘惑が大きいものです。キリストの名よりも、自分の名の方が大きくなってしまう。そういう誘惑がいくらでも付きまとうものです。牧師としての務めを担っていけるのも、キリストの名において。説教を語ることができるのも、キリストの名において。祝福を告げることができるのも、キリストの名において。洗礼を授けることができるのも、キリストの名において。すべてがそうなのです。それにもかかわらず、キリストの名よりも人間の名が大きくなってしまう誘惑がある。
 それは何も牧師だけの話ではないでしょう。私たちもキリストの名よりも自分の名や人間の名を大きく考えてしまうことがある。しかし主イエスは、「わたしの名」のことをよく考えてごらんなさい、と言われます。

4.味方

 主イエスがヨハネに言われた言葉が続いていきます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(40節)。
 「味方」という言葉が使われています。同じ言葉が使われている箇所に、こういう箇所があります。「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8・31)。神さまが「味方」でいてくださるならば、私たちには敵がもはやいないも同然になる、ということが言われています。ここでの「味方」もそうですが、この言葉は「そばに(傍らに)立つ」という意味のある言葉です。「もし神さまが自分のそばに立っていてくださるなら、私たちに敵はない」ということです。
 マルコによる福音書の箇所も同じです。キリストの名を使っている。多少、自分の気に食わない仕方で使っているように見えるかもしれない。しかしそれは本当に敵対する相手なのか。むしろ同じ名を使っているゆえに、同じ側に立つ者ではないか。主イエスはそう言われているのです。
 私たちが誰かと親しくなる時のことを考えてみるとよいと思います。私と相手、その二人が仲良くなる。仲良くなる理由は何でしょうか。二人で話し合って波長が合うとか、そういう説明もできるかもしれません。しかし波長が合うというのは、そもそも何らかの同じものがそこにあるはずです。同じ価値観を有しているとか、同じ経験をしてきたとか、同じ組織に属しているとか、同じ地域に住んでいるとか、同じ郷里であるとか、そういう同じものがあるはずです。純粋に二人だけの関係というわけではない。二人を越えたところに、何らかの共通点があるはずです。
 主イエスがここで言われているのも、その共通点のことです。ヨハネよ、本当にあなたとその人との間に共通点はないか、ということです。主イエスがここで話しておられることは、最初から最後まで「わたしの名」に関することです。あなたには気に食わない相手かもしれないが、本当に敵なのか。「キリストの名」という共通点があるではないか。それなら「味方」なのではないか。そう言われるのです。

5.キリストの名という共通点

 最後の四一節にこうあります。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41節)。
 日本語の翻訳の問題がある箇所です。「弟子」という言葉は、元の言葉にはありません。この度、新たな翻訳の聖書が出版されましたが、新しい翻訳では「弟子」という言葉はなくなりました。「キリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は」と訳されています。さらに指摘しなければならないことは、この箇所に「名」という言葉が含まれていることです。直訳するとこうなります。「キリストに属する者だという名のゆえに、一杯の水を飲ませてくれる人は」
 主イエスの名を勝手に使っていた者が、ヨハネに対して一杯の水をくれたかどうかは分かりませんが、主イエスの直接の弟子であるヨハネに対して、その相手がヨハネのことを重んじてくれなかったか。もし何らかのことで重んじてくれたならば、キリストの名という共通点があるではないか。だから「やめさせてはならない」と主イエスは言われるのです。むしろその者も「味方」なのです。
 今週は受難週です。主イエスの十字架でのご受難を覚えつつ、過ごす一週間です。私たちの罪を赦し、キリスト者という名を与えるために、キリストが十字架への道を進んでくださいました。「キリストの名」はまったくの恵みの賜物です。恵みの贈り物、恵みのギフトです。このギフトを与えるために、主イエスが十字架にお架かりになったことを覚えたいと思います。
 私たちはこのギフトが与えられた者です。中渋谷教会において結ばれています。人間的に親しくなったから結ばれたのではありません。「キリストの名」という共通点があるからです。この共通点は、すべてのことを乗り越えることです。この共通点から、愛が生まれます。赦しが生まれます。和解が生まれます。それほど大きな力のある、恵みの賜物なのです。

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