「人をつまずかせないために」

本城 仰太

       マルコによる福音書  9章42節〜50節
       レビ記  2章13節
2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 †
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 †
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
(†底本に節が欠落 異本訳:地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。)



1.連想

 本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエス・キリストの多くの言葉が集められています。第九章の終わりのところです。第一〇章から新たな区分が始まります。新たな区分が始まるということは、これまでの区分が終わることです。その終わりに主イエスのお言葉が集められた。
 ある説教者が、今日の聖書箇所を「一種の連想」というように言いました。連想とは、言葉や文を繋げていくのに際して、前の言葉や文から思い浮かんだことをつなぎ合わせていくことです。連想が進んでいくと、あまり全体の文脈がしっかりつながってこないということもあり得るでしょう。
 しかし今日の聖書箇所は本当にそうなのでしょうか。まずは今日の聖書箇所の流れをつかみたいと思います。四二節では「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と始まります。人をつまずかせることに関して記されています。四三節からしばらくは、自分をつまずかせるものについてです。人をつまずかせることにも関連するのですが、自分の中にあるものがつまずきをもたらす。四三節では「手」、四五節では「足」、四七節では「目」について語られています。
 お気付きになられた方もあると思いますが、四五節と四七節の間に四四節がなく、四五節と四七節の間にも四六節がありません。その代わりに、十字架のようなマークのものが印刷されています。これはどういうことかというと、聖書にはたくさんの写本があります。それらの写本の中で、ある写本には四四節や四六節はあるけれども、別の写本にはない。そういうことを表しています。それゆえに私たちが今用いている新共同訳では、四四節と四六節を省いて、十字架のようなマークを付けました。
 それでは、四四節と四六節にはどんな言葉なのか。それは四八節にある言葉とまったく同じです。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(48節)。つまり、写本によっては四四節、四六節、四八節と同じ言葉が三度も繰り返されている。手、足、目という自分をつまずかせるものを語り、そういう者は「地獄の火」(48節)を免れないと言うのです。
 「火」という言葉が出てきましたので、「人は皆、火で塩味を付けられる。」(49節)というように、「塩」へと連想が進みます。「塩」が出てきたので「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。」(50節)というように、さらに連想が進んでいくのです。
 確かにこのように考えてみると、話がだいぶ飛んでいるような印象を受けます。「連想」と言われてみると、そんなところもあるのかもしれません。しかし、私は単なる連想だとは思いません。何らかの繋がりがあると思います。
 ではどんな繋がりか。最後の五〇節の終わりにこうあります。「そして、互いに平和に過ごしなさい。」(50節)。このことは、今日の聖書箇所の最初に出てきた「小さな者の一人」(42節)をつまずかせないこと、「互いに平和に過ごす」(50節)ということに結びついています。つまり、最後まで行くと、最初に戻る。「連想」というよりも、「循環」があると私は思います。

2.人間は悪循環に陥っている

 では、「互いに平和に過ごしなさい」とは、いったい誰と平和に過ごすのでしょうか。今日の聖書箇所の一つ前のところにありますのは、主イエスの弟子の一人のヨハネが、主イエスの名を勝手に使っている人を咎めた話が記されています。ヨハネと勝手に名前を使った人との間に平和はありませんでした。しかし主イエスはその人のことを「味方」(40節)だと言われる。平和のうちに過ごさなければならないのです。
 もう一つ前の箇所では、弟子たちの間に議論が起こっていました。「だれがいちばん偉いか」(34節)という議論です。俺の方が偉い、あいつの方が偉いという議論をしているわけですから、平和はありません。しかし主イエスは「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と言われます。そして、最も小さな存在であると思われていた子どもを真ん中に立たせ、このような子どもを受けいれなさい、平和のうちに過ごしなさいと言われるのです。
 互いに平和に過ごすことができない、そこには何らかのつまずきがあります。そのつまずきがもとで、悪循環に陥るのです。小さな者をつまずかせる。なぜつまずかせるか、そもそも自分の内につまずきを持っているからです。足なのか、手なのか、目なのか、つまずきになる部分を自分の内に持っている。そしてそれは、自分の内に塩を持っていないからだ。塩がないから平和に過ごすことができない。主イエスはそういう循環のことを言われます。コロサイの信徒への手紙では、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4・6)と記されています。口から出る塩味の効いた言葉を語ることを求められている。けれどもそうなっていない。それは自分の内に、何らかのつまずきがあるのです。
 この悪循環を、人間は誰も免れることはできません。特に主イエスは「手」「足」「目」のことを語られています。自分のうちにあるそれらのものが、特につまずかせる。日本語でもまたこう言います。悪いと分かっていながらも、「つい、手が出てしまう」。悪いことだと分かっていながらも、「つい、足を踏み入れてしまう」。見る必要のないものだけれども、「つい、目がいってしまう」。よく使われる言葉であると思います。私たちにもこれらの「つい」がある。誰にでも思い当たること。誰もが悪循環に陥っているのです。

3.「地獄」とは

 悪循環を免れないのであれば、「地獄」が私たちに迫っているということになります。今日の聖書箇所で、私たちが一番気になるのが、この「地獄」という言葉だと思います。「地獄」とは何でしょうか。どんなところなのでしょうか。
 この「地獄」という言葉、新約聖書の元の言葉のギリシア語では「ゲヘナ」と言います。この「ゲヘナ」という言葉は、もともと固有名詞でした。エルサレムの街の南側の谷は「ヒノムの谷」と呼ばれています。「ヒノムの谷」という言葉を、旧約聖書のヘブライ語で言いますと「ゲー・ヒノム」。これがギリシア語化して「ゲヘナ」になる。そういう由来があります。
 この「ヒノムの谷」に関して、旧約聖書で大きな事件が起こりました。エレミヤ書にこうあります。「まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。この民の死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。それを追い払う者もない。わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。」(7・30〜34)。
 この「ヒノムの谷」で、まことの神ではない偶像の神々への礼拝がなされた。「息子、娘を火で焼いた」とありますが、いわゆる人身御供までなされた。偶像礼拝の汚れた地となってしまった。こういう地名が、将来の罪の結果の裁きを意味する言葉となっていった。それが「ゲヘナ」という言葉です。
 「地獄」、それはどんなところでしょうか。私たちも何らかの地獄のイメージを持っているかもしれません。しかしそのイメージは何によって作られたイメージでしょうか。日本昔話であったり、そういう類のものでしょう。実は聖書では、地獄はどんなところなのかということについては、まるで語られていません。
 今、私たちが用いている新共同訳聖書では、「ゲヘナ」のことを「地獄」と訳しています。新しい翻訳の聖書が最近出版されました。「聖書協会共同訳」と言います。この翻訳で今日の聖書箇所を読んでみますと、「地獄」という言葉はなく、代わりに「ゲヘナ」とカタカナで書かれています。どうも「地獄」と訳すと、日本的なイメージの「地獄」だと思ってしまう。それならば、元の言葉の響きのまま「ゲヘナ」としよう、そういう意図が翻訳に表れています。
 「地獄」と聞くと、この世ではない、どこか遠くのイメージをどうしても抱いてしまいます。しかしこの「ゲヘナ」という言葉は、むしろエルサレムの街のすぐ南のところにあったのです。主イエスの時代にも、エルサレムの街に城壁がありました。その城壁を出たすぐ先に、この「ヒノムの谷」があった。すぐ近くにある「ヒノム」が私たちの実生活を脅かしている。そういうイメージなのです。

4.好循環になるためには

 では「地獄」から自由になるためにはどうしたらよいのか。ある新約聖書事典に、このようなことが書かれています。「新約は地獄の苦しみを詳細に書きあげることを明らかに断念している」(『新約聖書釈義事典』)。これは本当にその通りで、聖書では地獄の恐ろしさを詳細に描き出し、地獄がこんなに恐ろしいところで、こんな目に遭うから遭わないように気をつけなさい、とは言わないのです。
 主イエスはこう言われます。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(48節)と言われた後に、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(49〜50節)。「地獄」から「火」「火」から「塩」、そのように連想が進むとも言えますが、塩の話をされる。悪循環を断ち切って好循環になるために、地獄から遠ざかるために、この塩が大事になってくるのです。
 それでは塩とは何か。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のレビ記に、こうあります。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(レビ記 2・13)。献げ物をする場合に、その献げ物を塩にまぶす。外側から塩をかけるのです。
 しかし主イエスが言われるのは、内側に塩を持つことです。「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50節)。この塩はどのように持つことができるのか。主イエスのお言葉に注意深く耳を傾けてみましょう。「人は皆、火で塩味を付けられる。」(49節)。ここでの火は「地獄」の火のことではありません。四八節の「地獄」の火とは、連想ではつながっているのかもしれませんが、四九節の火は「地獄」の火ではない。「地獄」で塩味を付けられるのではない。
 そうではなく、ここでの「火」は洗礼者ヨハネがこのように言っている言葉と関連があります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(ルカ 3・16〜17)。洗礼者ヨハネとは、主イエスの現れる少し前に、人々に「水」で洗礼を施していた人のことです。その洗礼者ヨハネがこのように言った。主イエスというお方は「(聖霊と)火」で洗礼を授けられるお方だと。
 地獄の火ではなく、洗礼の火によって塩味を付けられる道が拓かれたのです。悪循環を断ち切る道がこのようにして拓かれたのです。

5.主イエスが十字架の「地獄」を味わわれた

 主イエスはこの時、エルサレムに向かって旅をされていました。エルサレム、そこには「ヒノムの谷」「ゲヘナ」があります。そしてそのエルサレムで、主イエスの十字架の出来事が起こった。その地を目指しての旅がすでに始まっていました。
 ある人がこう言いました。「人類の歴史の中で、たった一回だけ地獄がこの地上に現れた。それがイエス・キリストの十字架であった」。どうしてそうなのか。主イエスの十字架上の言葉に、それが表れています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15・34)。先ほども申し上げたように、「地獄」というところが、どんなところなのかは分かりません。聖書に書かれていないからです。いろいろなイメージを私たちは抱きますが、そのイメージも当てにならないでしょう。
 しかし地獄とは何か、そのことが端的に分かるのが、主イエスのこのお言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15・34)。神から見放されたところ、すべての命の源から断ち切られたところ、それが地獄です。その地獄の炎が地上に現れた。その苦しみを主イエス・キリストが味わいつくされた。悪循環に陥る私たちを、その悪循環から救い出すために、主イエスが十字架にお架かりになられた。

6.救われた命を好循環の中で生きる

 私たちはこのようにして、キリストによって救われました。キリストによって救っていただいた命に生きることができます。悪循環から好循環へ、救い出してくださった。もはや地獄の炎を見る必要がなくなった。そのようにしてくださったキリストを信じて歩む。
 その歩みを始めた時、主イエスの弟子のヨハネが勝手に名を使う者に対して怒りましたけれども、その怒りも収まるでしょう。弟子たちの誰が一番偉いかという議論も収まるでしょう。子どものような小さな者の一人を受けいれるということになるでしょう。なぜなら、その小さな者の一人のためにも、キリストが十字架にお架かりになったからです。「平和に過ごしなさい」(50節)と主イエスは言われます。地獄ではない、神の国の平和の中を過ごす。その生き方へと、主イエスは私たちのことを招いてくださっています。
 この説教の後に、讃美歌二三九番を歌います。「さまよう人々、立ち返りて」という讃美歌です。一節から四節まで、すべてこの歌い出しです。悪循環を好循環に変えてくださった、その恵みを歌っている讃美歌です。

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