「共に生きる」

本城 仰太

        創世記  2章18節〜25節
              マルコによる福音書 10章 1節〜12節
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。


10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」



1.カテキズム

 本日からマルコによる福音書の第一〇章に入ります。新たな区分が始まっていきます。本日、私たちに与えられた聖書箇所である第一〇章一節から、三一節までになりますが、この箇所に書かれているのは「一種のカテキズム」であると多くの聖書学者や説教者が口を揃えてそう言っています。カテキズムとは、教会の信仰教育のことです。一節から三一節までを三つの区分に分けることができますが、本日の聖書箇所である一節から一二節までが結婚(離婚、再婚)について、一三節から一六節までが子どもについて、一七節以下が富(財産)について、それぞれの箇所に触れられています。
 主イエス・キリストの十字架が刻々と近づいてきている状況でした。主イエスの十字架での受難の第一回目の予告の際に、主イエスはこんなことを言われています。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8・34)。「自分の十字架」という言葉が出てきます。一番重い十字架はキリストが背負ってくださる。しかし私たちは何も背負わずに自由に何でもしてよいというわけではない。自分の十字架を背負う。それでは自分の十字架を背負うとは、具体的にどういう生き方のことでしょうか。そのことが、これらの三つの箇所に具体的に表されています。すなわち、結婚生活、子どもとのかかわり、富とのかかわりという三つの具体的な信仰教育がここに記されているのです。
 これら三つの問題がここに取り上げられているわけですが、ここに出てくる人たちはすべて失敗をしていたり、思い違いをしているところがあります。今日の聖書箇所では、ファリサイ派の人々が出てきます。結婚問題の本質がよく分かっていませんでした。来週の聖書箇所は、子どもの問題です。主イエスの弟子たちが子どもたちを連れてきた人々を叱りつけていますが、逆に主イエスから叱られてしまいます。金持ちの男が主イエスのところに訪ねてくるけれども、富を手放すことができずに主イエスのもとから立ち去っていく。そのような人たちの姿が描かれています。
 これらはカテキズム、信仰教育であると先ほど申し上げました。けれども、ここに記されている人たちは、模範になるような人たちではありません。むしろ失敗している人たちです。主イエスの考えておられるようには生きられない人たちです。そういう人たちの中に、自分自身の姿を見出さざるを得ない私たちです。だからこそ、このようなカテキズムが必要なのです。

2.ファリサイ派の人々の魂胆

 今日の聖書箇所の最初のところで、ファリサイ派の人たちが出てきます。「ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。」(2節)。
 主イエスから「モーセはあなたたちに何と命じたか」(3節)と問い返され、ファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と答えることはできました。彼らはきちんとその答えを知っていて、すぐに答えることができたのです。主イエスを陥れることが目的でした。
 申命記にこのように記されています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24・1)。今の時代からすると、夫が一方的に妻を離縁することを認めているような感じを受けるかもしれません。本当に罪深いことですが、実際に当時は男性の都合のよいように不当にも使われていた言葉であるようです。ファリサイ派の人たちは、いったいどのような理由が離縁状を書いて離縁してよいのか、そういう議論を盛んにしていたようです。その議論の中に主イエスを引きずり込もうとしていた。
 そしてもう一つ付け加えなければならないことがあります。この当時、一つの事件が起こっていました。主イエスよりも少し前に現れ、人々に悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネという人がいます。この人が権力者のヘロデに対して、まさにこの問題で咎めた。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(6・18)と洗礼者ヨハネはヘロデに対して言ったのです。あなたの結婚はまっとうなものではない、と。結果的に、洗礼者ヨハネは首をはねられて殺されてしまいました。ファリサイ派の人々は主イエスをこの議論に引きずり込むことによって、洗礼者ヨハネと同じ運命をたどらせることができる、そう考えたのです。
 しかし今日の聖書箇所にあるように、それ以上、議論は続きませんでした。ファリサイ派の人々にとって、結婚問題に自分自身が悩んでいたわけではありません。あくまでも主イエスを陥れるための切り口にすぎない質問だったのです。

3.結婚生活の難しさ

 主イエスの口から、最も大事なことが語られていきます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(5〜9節)。
 教会の結婚式の最後の方で、結婚の宣言がなされます。結婚式の中で誓約をした二人に対して、父と子と聖霊の名において、二人が夫婦であることを、司式をする牧師が宣言する。その宣言の言葉の最後に、九節の言葉を読みます。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。アーメン」と言い、宣言を終える。
 結婚式でのこのような宣言を、結婚をする二人も、結婚式に出席している多くの者たちも、当たり前のように聴くかもしれません。しかしその当たり前のように思っていることが、実際に難しい。主イエスの言葉どおりに生きることの難しさが、私たち人間はあるのです。
 結婚式では聖書の言葉が読まれ、説教もなされます。結婚式での説教は、結婚について、夫婦について、そして愛についてなどが語られていきます。しかしそれだけでなく、赦しについて、忍耐することについてなども語られてきます。結婚生活において、とても大事なことだからです。場合によっては夫婦の間を危機に陥れてしまうような人間の罪についても語られます。
 結婚式の礼拝が終わり、披露宴やお祝いの会の席上で、いろいろな方々とお話をする機会があります。先ほどの説教を聴いておられた方々ですから、その説教をめぐって、様々な感想を伺います。その説教をよく理解してくださるのは、結婚するお二人を含めた若い世代の方々というよりは、結婚する二人の親の世代の方々です。「私は妻と何十年寄り添って歩んできましたが、反省させられました」とか、「夫に対してもう少し寛容な心で見てあげないといけないと思いました」とか、そういう感想を伺うのです。これから結婚生活を始めていく二人よりも、むしろ長い間、結婚生活をしてきた者の方が、結婚生活の難しさを感じています。これは何も結婚している、していないにかかわらないことです。ある人がこんな感想を言われました。「私は結婚をしていませんが、人と生きることの素晴らしさと同時に、厳しさも感じました」。

4.頑なな心があるせいで

 人と共に生きることはなぜ難しいのか。主イエスはその理由を的確に教えてくださいます。「あなたたちの心が頑固なので…」(5節)。
 ここで「心が頑固」と訳されている言葉は、「頑なな心」という言葉です。「頑なな心」というのは、固い心という意味ですが、聖書で使われる場合、人間の罪と関連して使われる言葉です。本来の人間の心というのは、柔らかくあるべきです。神の言葉や人の言葉を受けいれて、愛をもって応答していく。それが人間の本来の姿であり、柔らかな心のはずですが、どういうわけか人間の心が固い。神をも人をも受け入れず、自己中心的な心を貫いてしまう。それを頑なな心と言います。
 旧約聖書でも繰り返し使われている言葉です。例えば申命記にこのようにあります。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」(申命記10・16)。人間の心に何らかの覆いが被せられてしまって、頑なになってしまっている。それを切り捨てよ、二度とかたくなになってはいけない、と言われているのです。繰り返し、頑なになるなと言われる。
 今日の聖書箇所に出てくるファリサイ派の人々も、「あなたたちの心が頑固なので」と主イエスに言われてしまいます。しかしこれはファリサイ派の人々だけの問題ではなく、教会の人たちもそうです。
 コリントの信徒への手紙一の第七章で、この手紙を書いたパウロは、今日の聖書箇所での主イエスのお言葉に基づき、結婚、離婚、再婚について語っています。どうもコリント教会の人たちも、これらの問題で躓きを覚えていた。心が頑なだったからです。パウロは結婚、離婚、再婚について、様々な場合を想定して書いています。例えば、夫婦に危機が訪れた場合、しばらく離れてそれぞれの時を過ごすことを勧めています。あるいは、場合によっては結婚に縛られるなということも言われています。再婚については、独りでいるという選択肢もあるのだから慎重に、ということも言われています。
 パウロはなぜこんなにも結婚、離婚、再婚について細かく語らなければならなかったのか。それは明らかにコリント教会の人たちの心が頑ななところがあったからでしょう。こういう問題を実際に抱えていたのです。ファリサイ派の人々も、コリント教会の人たちも、そして私たちも、人と共に生きる難しさを感じている。だからこそ、このようなカテキズムが必要なのです。

5.人と共に生きる原点へ

 主イエスがここで語っておられる言葉は、人と共に生きる交わりの原点です。ファリサイ派の人々のように、どういう場合に離縁してよいのか、離縁しては駄目なのかという、愛のない冷たい議論ではありません。人と交わりに生きる土台です。
 主イエスが引用なさっている旧約聖書の箇所は、創世記の第二章、本日、私たちに合わせて与えられた聖書箇所です。「人が独りでいるのは良くない」(創世記2・18)と神は言われます。他の動物とでは、本当の意味で一緒に生きる者とはなり得ませんでした。しかし自分の一部から造られた女が共に生きる者として与えられる。そのようにして、人は最初の時から、共に生きる存在として造られました。
 そして創世記の第二章のところで、早速、結婚の秩序が語られています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2・24)。この言葉は、今日の聖書箇所で主イエスも引用されています。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(マルコ10・7〜8)。ここで「離れて」と訳されている言葉は、「捨てる」とも訳せる言葉です。つまり「人は父母を捨てて相手と結ばれる」とも読めるのです。この言葉は親にとっては厳しい言葉であるかもしれません。自分の手元に置いておくことができると思っていた子どもが、ある時に自分を捨てるように離れていく。厳しい言葉ですけれども、子どもも人格を持つ一人の人間として見ることを私たちに求めている言葉です。親と子として共に生きる関係も問いかけている。
 今日の説教の説教題を、「共に生きる」としました。確かに今日の聖書箇所の話は、結婚や離婚の問題について記されているのかもしれません。しかし結婚しているかどうかによらず、人間として、他者と共に生きることが語られています。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」(6節)と主イエスは言われます。最初の時から、男女として、親子として、他にも様々な関係があるでしょう。いずれも違う人間です。人間は互いに違う者として、しかし助け合う者として造られた。共に生きる者として造られた。それが人間存在の本質です。

6.十字架の赦しの前に立つ

 共に生きるという本質的なことがありながら、共に生きることがうまくできない私たち人間です。頑固な心、頑なな心が私たちにあるからです。そんな私たちのために、主イエスが原点を示してくださいました。
 第一〇章一節から三一節まで、カテキズムになっていると申し上げました。結婚、子ども、富の問題が出てきますが、いずれもうまくできない人たちがここに出てきます。キリストはまさに、こういううまくできない人たちと共に生きることを選ばれた方です。共に生きない選択をしたのであれば、この時、エルサレムに向かわなくてもよかったはずです。エルサレムでの十字架の苦しみを味わわなくてもよかったはずです。しかし共に生きるために、血を流すほどの労苦をしてくださったのです。
 十字架を見上げる時、私たちは二つのことを思い起こします。一つは、自分が共にうまく生きることができない者であるということです。もう一つは、しかしそんな自分を見棄てずにキリストが赦してくださったということです。それが私たちの原点です。共に生きる原点です。その原点を思い起こし、再び歩み出せる。これがまさにカテキズムで私たちが学ぶべきことです。
 夫婦の間も、親子の間も、様々な他者との間にも、いろいろなことを抱えている私たちです。いろいろなことはありますが、私たちはいつでもこの原点に立ち返ることができる。いつでもここから新たに始めていくことができるのです。
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