「信仰は幼子のごとく」

本城 仰太

           出エジプト記 12章21節〜27節
              マルコによる福音書 10章13節〜16節
12:21 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
12:22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
12:23 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
12:24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
12:25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
12:26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、
12:27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。


10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


1.広く影響を及ぼした聖書箇所

 本日、私たちに与えられた聖書箇所に関して、ある聖書学者がこんなことを言っています。「静かではあるが、何世紀をも通して教会生活に絶えず影響を及ぼしてきた」。この聖書学者は、具体的にどのような影響を及ぼしたのか、そのことは具体的に書いてくれていませんが、確かにその通りだと思います。
 どんな影響を及ぼしてきたのか。一つの影響は、幼児洗礼に関することです。中渋谷教会は百年以上の歴史を歩んでいますが、もっと遡るとスイスで生まれた改革派というグループの教会の歴史に遡ることができます。改革派教会は伝統的に幼児洗礼を大事にしてきました。生まれて間もない子どもに、幼児洗礼を授け、十二歳くらいになると信仰教育を受けた上で、信仰告白をし、聖餐に与るのです。
 改革派以外にも、数多くの別のグループの教会も生まれていきましたが、別のグループの中には、幼児洗礼を行わない、幼児洗礼を否定するグループもあります。そのグループでは、洗礼を授けることに関して、子どもを一時であっても退けることになります。もう少し大きくなって、自分の口で信仰を言い表すことができるようになるまでは、一時にせよ、退けるのです。
 改革派教会ではしかしそうは考えませんでした。右も左も分からぬ赤ん坊に、洗礼を授けてきた。それではその聖書的な根拠は何か。その根拠の一つが、今日の聖書箇所なのです。主イエスが子どもを祝福された出来事です。もっとも主イエスがここで子どもたちに洗礼を授けているわけではありませんが、少なくとも主イエスが子どもたちを退けずに、むしろ祝福されている。この聖書箇所以外にも、使徒言行録の一家で洗礼を受けた出来事なども根拠として挙げられます。一家で洗礼を受けた出来事も、子どもが洗礼を授かったとまでは書かれていませんが、その家の中に子どもがいたであろうと考えるわけです。そういう幼児洗礼に関して、この聖書箇所は静かに影響を与えてきました。
 もう一つ、大事な影響があります。それは、今日の聖書箇所での主イエスの態度が、小さな者を受けいれるように、私たちに迫ってくることです。似たような出来事かもしれませんが、第九章にこういう出来事がありました。「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」(9・36〜37)。当時の子どもは最も小さな存在と考えられていました。その子どもを受けいれることが、主イエスを受けいれることであり、父なる神をも受け入れることであると主イエスは言われます。
 また、その後のところに、このようにあります。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9・42)。ここでの「小さな者」とは子どものことなのか、誰なのか、そのことははっきりとは表されていませんが、「小さな者」を受けいれよと主イエスは言われるのです。それでは主イエスの今日の聖書箇所のお姿やお言葉から、私たちはどうすればよいか。私たち、キリスト者の態度が、静かに問われているのです。

2.主イエスの憤り

 今日の聖書箇所では、主イエスの憤りの感情のことが記されています。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。」(13〜14節)。
 最初の一三節のところで、まず、弟子たちがこの人々を「叱った」と記されています。それに対して一四節のところで、主イエスが「憤り」と記されています。どちらも似たような感情ですが、「叱る」「憤る」という別のニュアンスの異なる言葉が使われています。
 弟子たちが「叱った」の「叱る」という言葉は、戒める、たしなめる、命じるとも訳すことができます。それほど強い言葉ではなく、こらこら、駄目じゃないか、というような感じだったのでしょう。しかし主イエスは弟子たちに対して、こらこら、駄目じゃないか、程度ではなかった。別の箇所では、憤慨する、怒り狂うと訳されている言葉なのです。非常に珍しいことかもしれませんが、主イエスが激怒されたのです。
 なぜ憤られたのでしょうか。弟子たちもびっくりしたと思います。そんなに怒られるようなことをしたなどと思ってもいなかったでしょう。むしろ、主イエスもお疲れでしょうからという感じで、主イエスに気遣って、子連れの人たちに対して、こらこら、駄目じゃないか、先生もお疲れだから、という感じだったのではないかと思います。
 主イエスはいったい何を問題にされたのでしょうか。今日の聖書の箇所で、主イエスは神の国のことを言われています。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(14節)。神の国とは誰のものか。弟子たちは主イエスに一番近い存在でしたので、自分たちのものだという漠然とした特権意識があったと思います。
 そのような特権意識があったということは、文脈から分かってきます。第九章三三節以下の箇所で、弟子たちは誰が一番偉いかという議論をしています。また、同じ第九章の三八節以下では、弟子の一人のヨハネが、主イエスの名を勝手に使っている者を咎めたことが記されています。まさに特権意識の表れのような出来事です。
 少し後のところになりますが、第一〇章三五節以下で、主イエスの弟子のヤコブとヨハネの二人が、主イエスの右と左に座らせて欲しいと頼んでいます。他の弟子たちを差し置いてそんなことを願い出たわけですが、他の十人の弟子たちはそのことで「腹を立て」(10・41)ますが、これは「憤る」と同じ言葉です。弟子たちの特権意識が表れているような出来事です。
 弟子たちは自分たちの気づくところ、気づかないところで、特権意識があった。自分たちは主イエスの直接の弟子なのだという特権意識があったでしょうし、弟子たちの中でも誰が一番の特権を持っているのか、ということが気になった。今日の聖書箇所では、親子で来ている人たちを退けているわけですが、先生もお疲れだし、私たちも疲れている。だから私たちだけの時間をこれから先生と過ごすのだ。そんな特権意識が働いたのでしょう。そのことを主イエスが激しく憤られます。

3.子供の信仰教育

 主イエスのこのようなお姿やお言葉が、静かに私たちにも影響を与えるはずです。主イエスが子どもを受けいれ、祝福されている。私たちはどのようにすればよいでしょうか。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所には、子どもの信仰教育のことが記されています。出エジプト記の第一二章、これからいよいよエジプトでの奴隷生活を脱却する出エジプトの出来事が起こっていくところです。エジプト中で災いが起こり、こんな災いが起こってはたまらないから、イスラエルの人たちがエジプトを出て、故郷へ帰ることを許されます。イスラエルの人たちには災いが過ぎ去ったわけですが、その災いが過ぎ去ったことを記念し、「過越祭」という礼拝をこれからも行うようにと命じられます。
 とても興味深いのが、このような礼拝を行っていくと、子どもたちがこのように質問してくるということです。「この儀式にはどういう意味があるのですか」(出エジプト記12・26)。その時には大人はこう答えなさいという答えが用意されています。「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」(12・27)。
 ユダヤ人たちにとって、子どもは民の一員でした。生まれて間もない子どもに「割礼」というものを施し、民の一員となり、一緒に礼拝をしていた。まだ何も分からない子どもも一緒です。そうすると子どもの方から尋ねてくる。その場合にはこう答えなさいという答えが用意されている。この聖書箇所だけではなく、旧約聖書のいくつかの箇所で、同じように、子どもからこう聞かれた場合はこう答えるように、ということが記されています。信仰教育に関して、子どもだからといって決して軽んじないのです。

4.ルターの『小教理問答』

 子どもたちの信仰教育に関して、私たちのプロテスタント教会も真剣に取り組んできました。一つの信仰教育の手引書ですが、改革者ルターが書いた『小教理問答』と呼ばれるものがあります。「小」があるからには「大」があるわけですが、『大教理問答』は分量も多く、難解であったために、あまり用いられませんでした。その代わりに、この『小教理問答』がルター派と呼ばれるグループ内では盛んに用いられた。今でも用いられています。
 この『小教理問答』の最初のところを見ますと、序文のところに、ルターの嘆きが記されています。教会を改革した当初、教会はルターの目からすると惨憺たる状況でした。信徒たちは聖書の教えを何も知らないような状況だった。洗礼を受けて聖餐に与っていた信徒たちがそういう状況だったのです。おまけに聖職者たちも何も知らないような状況で、教える準備もできていない。そんな惨憺たる状況だった。そこでルターはこの『小教理問答』を書いた。ここに書かれているように、子どもたちに語り掛けてくれ、と訴えているのです。 『小教理問答』の本文を見てきますと、まずこのように始まっていきます。「十戒 第一 あなたには、ほかの神々があってはならない。(お父さん)これなあに。答 私たちはどんなものよりも、神さまを畏れ、愛し、信頼するのだよ」(『宗教改革著作集』一四巻)。
 最初のところだけをご紹介しましたが、『小教理問答』ではだいたいがこんな感じで進んでいきます。子どもは「これなあに」と繰り返していく。「ざんげって、なあに」「ざんげする、短いやりかたを教えてよ」というような言葉もありますが、基本的に子どもたちは、先ほどの出エジプト記の箇所にも記されていたように、「これなあに」を繰り返していく。
 今の私たちの文脈に置き換えるならば、例えば聖餐式に出た子どもが、「あれなあに」「どうしてわたしはパンをもらえないの」「どうして僕の大好きなぶどうジュースを飲めないの」と聞かれるようなものです。私たちは何と答えるでしょうか。きちんと子どもに向き合って答えていくことを、昔の教会においても真剣に考えられてきましたし、私たちもまた主イエスの今日の聖書箇所のお言葉やお姿から学んでいくのです。

5.連れてこられた子供

 主イエスはこのように言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(14〜15節)。
 「子供のように」と言われています。主イエスが言われている意味での子どもとは、どんな子どものことなのでしょうか。何歳までが子どもなのでしょうか。同じ言葉が、いろいろな聖書箇所で使われていますが、ある個所では新生児を意味する言葉として使われています。別の箇所では十二歳の子どもとして使われています。年齢にも幅があるようです。
 しかし年齢の問題ではないのは明らかです。むしろここでのポイントは「連れてこられた」子どもであるということです。日本では、一般的に小学生から電車やバスに乗るための料金がかかります。子ども料金です。それまではかからない場合がほとんどです。なぜか。小学生未満は親に連れられて乗るけれども、小学生の場合は一人で電車やバスに乗ることが多くなるからです。それが一つの判断基準でしょう。
 ここでのポイントも、子どもは何歳なのかは分かりませんが、連れてこられた子どもであるということです。親に対して、あなたがたは神の国が近いなどと、主イエスは言われたわけではない。連れてこられた子どもが祝福されたのです。
 一六節にこうあります。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(16節)。主イエスが抱き上げられた。この子どもたちは親に連れられてきました。親に抱きあげられて連れてこられたのか、おんぶして連れてこられたのか、手を引かれて連れてこられたのか、いずれにしても連れてこられたのです。主イエスはそういう連れてこられたまま神の国を受けいれる子どもこそ、神の国にふさわしい、と言われたのです。

6.連れてこられるという信仰

 主イエスは、子どもたちを祝福し、弟子たちの特権意識に憤られました。なぜ主イエスがこれほど激しく憤られたのか、その理由もよく分かってきます。あなたがた弟子たちもまた、連れてこられたのではないか、私が選んだのではないか、主イエスはそう言われるのです。そのことが分かった時、私たちにも今日の聖書箇所で示されている主イエスのお姿とお言葉が、私たちにも静かな影響を及ぼしてきます。
 先週、私は教会員の何人かの方々のところへ訪問に出かけました。訪問した先々で、聖書を読み、祈りを共にしました。訪問をしながら、私はふと思いました。ああ、私もいつの日か、このように訪問を受ける日がやって来るのだ、ということを。私たちも、どんなに今、元気であろうとも、いつかそういう日がやってくることを覚悟しておかなければならない。その時に、幼子である必要があります。
 私たちは誰もが幼子として生まれ育ちました。そして幼子のように、多くの人の手に助けてもらいながら、人生の晩年を過ごしていきます。しかし信仰的に、今は幼子ではないというわけではない。そうであるならば、弟子たちと同じ過ちを犯すことになります。
 私たちは神に抱かれている幼子である。今もそのようにして信仰の歩みを送っている。晩年もそのように背負われ、連れてこられ、生かされている。私たちは連れてこられた者であるということ、それを受けいれることが幼子のごとき信仰なのであります。
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