「あなたに欠けているものが一つある」

本城 仰太

        詩編 34編
               マルコによる福音書 10章17節〜31節
34:1 【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】
34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:5 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:6 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
34:7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
34:8 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
34:12 子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
34:13 喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は
34:14 舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ
34:15 悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。
34:16 主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
34:17 主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。
34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。
34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
34:20 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し
34:21 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
34:22 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。
34:23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。


10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」



1.私たちを立ちすくませる御言葉

 御言葉の前に、私たちは立ちすくむことがあります。聖書を読んでいても、スラスラ読めないことがあります。いや、そもそも聖書はスラスラ読めるものではありません。もちろん日々の日課として聖書を読んでおられる方もあると思います。それはそれでスラスラ読んで、聖書に親しむべきなのでしょうけれども、それですべてがよく分かったということにはならない。むしろ、立ちすくんだり、ちょっと待ってくれと思ったり、途方に暮れたりする経験を私たちはします。
 マルコによる福音書の第一〇章から最近は御言葉を聴いています。ここしばらく、説教の多くの感想をいただきますが、その感想のほとんどは、ひと言で言うと「聖書の言葉通りに生きることは難しい」というものです。第一〇章一〜一二節には、結婚あるいは離婚、再婚の問題が記されています。夫と共に、妻と共に、あるいは人と共に生きる難しさを思いました、という正直な感想を多くいただきました。一三〜一六節は、子どもに関することです。特に幼子になることの難しさを思いましたという感想を、これも多くいただきました。そして今日の聖書箇所です。予想される感想としては、主イエスのお言葉通りにいることは難しい、となるでしょう。
 確かに難しい。それはその通りです。難しいどころか不可能であると言ってもよい。主イエスも言われます。「人間にできることではないが…」(27節)。
 しかし難しい、不可能であると言って、諦める必要はありません。私たちが変わることができる道があります。人間はどのようにしたら変わることができるか。自分はそこそこうまくやっている、他の人よりはましだ、と思っていたのでは変われません。人間が変わるためには、まず自分の至らなさを思い知る必要があります。聖書の言葉の前に立ちすくむ経験をしなければならないのです。
 私自身もそうです。そのような経験をしました。特に本日、私たちに与えられた聖書箇所の前に立ちすくんだ。途方に暮れた。理由は単純です。金持ちの男と自分がそっくりだったからです。立ちすくんだ時、私は社会人三年目でした。もちろんいわゆる「金持ち」ではありません。ほとんど無に等しい三年程度の貯えしかない。しかし自分のもっている財産をどう考えるか。同じ言葉を主イエスから言われたらどうか。いや、実際に主イエスから言われてしまった。ではどう答えるか。今日のこの聖書箇所の前に立ちすくんでいなければ、私はここに牧師として立っていなかったかもしれません。

2.説教題について

 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、第一〇章一七〜三一節です。来週もまた同じ箇所を朗読します。そして特に今日は、一七〜二二節の前半を中心に据えて、御言葉を聴きたいと願っています。
 最初の一七節に「ある人」と出てきます。この人は、マルコによる福音書では「たくさんの財産を持っていた」(22節)と紹介されています。「金持ちの男」です。別の福音書にも同じ話が記されています。マタイによる福音書では「金持ちの青年」、ルカによる福音書では「金持ちの議員」です。一般的にこの話は「金持ちの青年」あるいは「金持ちの男」と呼ばれています。あまり「議員」の話だとは呼ばれない。「議員」と言われてしまうと、私たちから遠い存在のように感じられてしまうからでしょう。年を重ねた者にとっても、青年時代があったわけで、「金持ちの青年」と呼ばれた方が、自分に近い存在として考えられるのでしょう。つまり、ここに描かれている「ある人」とは、この人だけのことではなくて、私たちの姿でもあるのです。
 この「ある人」は、自分の欠けを知ることになります。そして私たちにとっても、欠けを知ることはとても大事です。今日の説教の説教題を、主イエスのお言葉から、「あなたに欠けているものが一つある」と付けました。今日の聖書箇所の説教は、実に多くの説教者たちによってなされています。いろいろな説教題が付けられています。例えば、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17節)の言葉から、「永遠のいのちを受け継ぐ」という説教題を付けている説教者がいます。二一節の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」という言葉から、「主イエスの慈しみのまなざし」と付けている説教者もいます。私のように「あなたに欠けているもの」と付けている説教者もいます。あるいは、「そうすれば、天に富を積むことになる」(21節)という主イエスのお言葉から、「天に富を積む(生き方)」という説教題を付けている説教者もいます。さらには、「わたしに従いなさい」(21節)というお言葉から、「主イエスに従う(生き方)」という説教題もあります。
 もちろんどの説教題もその通りなのです。しかし私は「あなたに欠けているものが一つある」と付けました。私たちを立ちすくませる説教題であるかもしれません。しかし誤解を恐れずに言うならば、立ちすくんでもらいたいと思っています。そしてそこから変わっていくことができるからです。

3.主イエスの愛のまなざし

 私たちを変える力が、はっきりと記されています。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」(21節)という言葉です。ちなみに来週、中心に据えられる聖書箇所ですが、二七節にも「イエスは彼らを見つめて言われた」とあります。ここでの「彼ら」は主イエスの弟子たちのことです。つまり、この金持ちの男にも、弟子たちにも、主イエスのまなざしが注がれているのです。
 この二一節の「慈しんで」と記されている言葉は、元の言葉では「愛して」という言葉です。「イエスは彼を見つめ、愛して言われた」。聖書で最もよく使われる愛を表す言葉であり、自分を犠牲にしてまで相手を愛する愛。日本語の翻訳の多くの聖書では、どういうわけか「慈しんで」と訳されています。もちろんそう訳せます。ある日本語の翻訳は「愛情を込めて」(フランシスコ会訳)となっています。この翻訳にも心惹かれます。英語の聖書ではその多くがloveです。
 主イエスはこの金持ちの男に対して、非常に好意的だったことがよく分かります。私たちはなんだかこの人のことを駄目な人だと思ってしまうようなところがあるかもしれません。主イエスの弟子たちもそう思ってしまいました。この人は駄目な人で立ち去ってしまったのだ。イエスさま、あなたの弟子である私たちは大丈夫ですよね、そんな弟子たちの思いが透けて見えます。
 しかし主イエスはこの人に対して好意的でした。慈しみのまなざしを、愛のまなざしを注がれた。どのタイミングで愛のまなざしを注がれたか。「すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。」(20節)、こう言った瞬間に主イエスが「彼をみつめ、慈しんで」言われるのです。主イエスのもとに最初に駆け寄ってきた時でも、最初のやり取りをした時でもなく、この人がこのように言った時に、愛のまなざしを注がれたのです。
 この人は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言えるくらい、完璧な歩みをしてきたおと思っていました。しかしそれでも不安に駆られた。だから主イエスのもとに駆け込んできた。そして主イエスはこの人の欠けを見抜かれます。しかし愛のまなざしを注がれるのです。

4.欠けているものが一つある。

 「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と主イエスは言われます。何が欠けているのでしょうか。子どもの時からそういうことはみな、守ってきた。子どもでも守ることができるようなことで、私は悩んでいるのではない。私の悩みはもっと深いのだ、そういう思いがあった。やはり何らかの欠けがあったのです。
 私たちもたくさんのものが欠けているようなきがします。二一節の主イエスのお言葉に着目してみましょう。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)。一つだけではなく、複数の「欠けているもの」がありそうです。持ち物を売り払うことでしょうか、それを貧しい人々に施すことでしょうか、天に富を積むことでしょうか、主イエスに従うことでしょうか。複数の要素があるようですけれども、すべては最後の言葉に集約されます。主イエスに従うこと、それが欠けている一つのものなのです。
 この金持ちの男は、明らかに財産が主イエスに従うことを妨げていました。私たちも財産を持っています。では、どのくらいの財産が主イエスに従うことを妨げるのでしょうか。どのくらいの「金持ち」だと妨げることになってしまうのでしょうか。百万円未満なら妨げないが、百万円以上になると妨げてしまうのでしょうか。そういう金額の問題ではもちろんありません。お小遣いをもらっている子どもだって、あなたが貯めているお小遣いを貧しい人々に施しなさいと言われたら、子どもも躊躇してしまうだろうと思います。
 それとは逆に、実際に主イエスのお言葉通りに施しをした。本当に全財産を施した。そうすれば直ちに主イエスに従ったことになるのか。ある人がこんなことを言っています。「財産を施しても、その施した財産から人はなかなか自由になることができない」。どういうことか。例えば、ある施設に財産を施したとする。そうするとその人は自分の施した財産が気になって仕方がない。きちんと使われているか。もちろんそれは大事な視点です。しかしいつまでもどこまでも、自分の施しをしたことに囚われてしまう。結局、「施した」はずの自分の財産から自由になることができない。ある人がそのような鋭い指摘をしています。
 問題は、財産やその他のことに心を奪われてしまうことです。そのことによって主イエスのお姿がかすんでしまう。主イエスに従うことを妨げているものはたくさんあります。財産だけではありません。地位や名誉、学歴、知識、経験、人間関係…。私たちもよくそのことを肌で感じて知っているはずです。

  5.主イエスのまなざしの中で百倍の祝福を受ける

 そのようないわゆる財産に執着せずに、主イエスに従うためにはどうすればよいか。金持ちの男は「悲しみながら立ち去った」(22節)わけですが、その後のところで、主イエスはこう言われています。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(29〜30節)。主イエスはまず捨てることを言われます。けれども捨てたはずのものが、百倍の祝福を受けると言われるのです。
 捨てたものリストを見てみましょう。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」が出てきます。そして百倍の祝福を受けるリストを見てみましょう。「家、兄弟、姉妹、母、子供、畑」となっています。どういうわけか、百倍の祝福を受けるリストの中に「父」だけが出てこない。「父」は父なる神のことがすでに想定されているからなのか、別の理由があるからなのか、単にこのリストから落ちてしまったのか、事情はよく分かりません。しかしほぼ同じものが百倍にして与えられるのです。どういうことでしょうか。畑の面積が百倍になるのでしょうか。母が百倍になるとはどういうことでしょうか。
 先ほどの主イエスの愛のまなざしが重要です。主イエスの愛のまなざしの中で、自分の畑を見てみる。それを捨てよと言われる。執着しない生き方です。場合によっては畑が自分から取り去られてしまうかもしれません。しかしそれならそれで、自分に必要のなかったものとして、神が取り去ってくださったものとして受けとめる。畑がそのまま自分の手の中に残るのであれば、神によって与えられた畑として受け取り直す。畑の面積としてはまったく変わりはありません。しかしそれは神から与えられた畑として、百倍の祝福を受けた畑になります。母をはじめとする家族もそうです。与えられた家族として、百倍の祝福をもって受け取りなおす。主イエスの愛のまなざしにはその力があるのです。
 私たちはこの主イエスの愛のまなざしの中で歩むように、招かれています。この金持ちの男は、立ち去ってしまいました。その後はどうなったかは分かりません。しかし主イエスの愛のまなざしが注がれました。私たちにも注がれています。その主イエスの愛のまなざしの中に私たちが飛び込むかどうか。そのことが問われているのです。

6.詩編第三四編の信仰

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第三四編です。全体をじっくり味わいたいところですが、今日は特に終わりのところを味わいたいと思います。神への信頼を歌った歌、祈りです。
 二〇〜二一節にこうあります。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」(詩編34・20〜21)。とても興味深いのは、「主に従う人」「災いが重なる」とはっきり言っていることです。主に従えば災いがなくなるとは言わない。むしろ災いが重なるのです。しかし守られる。
 二二節は逆にこう言います。「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる。」(詩編34・22)。そして最後の二三節は再び「主に従う人」に戻ってきます。「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。」(詩編34・23)。
 主に逆らう者は、いろいろなことが言われていますが、結局のところ罪に定められてしまう。逆に主に従う者は、災いも重なるわけですが、「罪に定められることがない」という結果に終わる。
 この詩編は、主イエスが来られるよりも前に作られた詩編の言葉ですが、まさに主イエスのまなざしの中で歩むことができる恵みをよく表していると思います。主イエスに従うことができない私たちの罪があります。しかし主イエスの愛のまなざしの中では、「罪に定められることがない」。それどころか、私たちがいただいているものを、百倍の祝福をもって受け取りなおすことができる。私たちの財産、持っているものも、家族も、それぞれの場も、与えられたものとして受け取りなおして、百倍の祝福を受けて歩むことができる。その力が、主イエスのまなざしにはあるのです。
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